第8話 京都、嵐山の血のように赤い空


 京都、嵐山に至る山中のことだった。


「迷っているのかどうかさえも、わかりません」


 やけになって同じ言葉を繰り返した。オババ、右の口元を引きあげ、しばらく私の顔をみてから空に視線を投げた。


 木々の間から青空がこぼれている。空気が澄んで青黒いほど透き通り宇宙の先まで見透せそうだ。夕刻にはどのくらいだろう?


 いや、冬なんだ。まだ、お昼過ぎくらいだって思いたい。


 ともかく、夜になる前に亀山城へ着きたい。で、それは無理って思いはじめていて、だから、ちょっとね、こう神様にね、お願いしといたわけ。私は今を正午だって思っているって、だから、そうしとくれって。


 人間って願望を少し現実におり混ぜて生きてる。だから失望もするんだけどさ。たとえば、自分の容貌とか現実より3割マシくらい可愛いって思ってる。ときに7割マシに思ってるやっかいな人もいるけど。それが通るなら、時間だって3割マシでとお願いしたいわけ。


 ここは戦国時代だ。懐中電灯なんてシャレたものはない。漆黒の闇と冬では凍死する可能性もある。実際、織田信長の冬の行軍で荷物運びの下人が何人も凍死したって。


 しかし、それもあれだね。知ってる?


 信長ってね、冬の夜に、いきなり「行くぞ!」と、馬で駆け出したんだ。いや、近くって距離じゃないよ。岐阜から山を越えて琵琶湖まで徒歩で行軍するなんて、もう映画の「八甲田山」かってくらい無謀だから(ごめん、映画をご存知ない方おいとく)。


 で、私たちが歩いているのは嵐山。岐阜の山越えほどは大変じゃない。でも、迷子かもって不安だった。


「まだ、夕刻まで時間はありそうだ」

「ええ」と、私も希望で答えた。


 その瞬間、足元がグニャリとして、もうお約束の嫌な予感しかしない。


 雪が積もった山道を歩く感触とは違ったから。

 いや、これ、う●こか?


 ちがう。こ、これは…、大っ嫌いなムカデの、いや、その上の、さらに天上を目指した、これは、これは……。


 その踏んづけた物体Xを見て、思わず「ぎょえ〜〜!」って大声を出した。木霊こだまがかえって、「ぎょえ、ぎょえ、ぎょえ」って耳に届いてくる。


「どうした!」


 オババが振り向いた。

 声がでない、顔から血の気が引いたのを感じる。手が震え声が裏返った。


「ま、マムシに、マムシが、マムシの、マムシを、マムシで」


 格助詞5段活用法でマムシの恐怖をオババに伝えた。伝えきった。


「かわいそうに」


 オババの声が優しい。

 黒くトグロを巻いていたマムシは草鞋わらじの下でゆっくりと動いていて、恐怖で足を動かせない。


「オババ」

「それは冬眠中のマムシだ。起こしちまったか、かわいそうに」


 え? そこ? 一瞬でも優しいと思った私がバカだ。


「ど、どう、どうしたら」

「早く、足をどかしてやれ、噛まれるぞ」


 あっと、私はすっ飛び、木の根っこに引っかかりタタラを踏んだ。

 オババが私を受け止めた。


「あ、あいつ、噛みました? 私を噛みましたか?」

「痛みがあるのか」

「いえ、いえ、噛まれた?」

「冷静に考えて噛まれてない。冬眠中だ。放っておけば土にまた戻る」

「そういうものですか」

「そういうものだ。それより、腕が痛い」


 おっと、姑に抱きかかえられるという、これまた嫁の危機を迎えていた。私はニッと照れ隠しの笑みを浮かべ、オババから離れた。


「歩くぞ」

「は!」

「で、どっちに行く」

「マムシが冬眠しない道を!」

「いや、マムシより正しい道だ」

「そこんところは、風まかせで」

「チッ」

「あ、舌打ちした。しましたよね」

「それが」

「ここは戦国です」

「それで?」

「戦国ですから、結構な確率で性格の悪い姑が殺されております」

「逆も真なりだ」


 いつのまにか空は赤く染まっていた。

 まるで血の色のように濃い赤で、夕焼けというには禍々まがまがしいほど赤く、その空を線状の雲がところどころ遮断している。


「この空の色は」

「なんか、怖いような色ですね」

「ああ、血のようだ。嵐が近いのかもしれん」


 この年、光秀は丹波国の入り口に亀山城を建てた。それは総構えの作りで、堀や石垣をしつらえ土塁で囲んだ立派な城下町だったけど、私たちは……


 まだ迷子中だった。


(つづく)

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