第3話 明智光秀の赤鬼退治
オババと私の意識が入れ替わった天正7年(1579年)は……。
明智光秀の5年かかった丹波攻めに終止符がつく年で、織田信長にやっと面目をほどこした年でもあるんだ。それほど山城の多い丹波攻略は厳しかった。
光秀がてこずった理由は、そこに“鬼”がいたからだ!
丹波の赤鬼とよばれた、赤井直正。この男、筋金入りの信長嫌いで、もう、織田の、“お”って聞くだけで、つばを吐く豪腕領主。
丹波とは現代でいえば京都府亀岡市を含む、京都から見れば北西部の広大な地域を示した。山のなかに多くの豪族たちが城をかまえて支配している。ま、ならず者が多かったし、その上、地形がね、山が多くて、ここの攻略に手こずるのは間違いなかった。
その地域で一番の実力者が赤井直正。自分から悪右衛門と名乗っていた。
名前に“悪”を自分でつけた、マジだ。
ここからも彼の性格が見えてくる。
さて、丹波攻めのはじまった翌年、天正4年(1576年)1月。
吹き降ろす冷たい風に立ち向かい、ひとりの男が黒井城を見つめていた、私のかつての足軽上司、古川九兵衛である。
丹波の山奥に位置する黒井城を取り囲む明智軍内にいた。
にもかかわらず、九兵衛は城を見上げて、なにやら不吉なものを感じた。体の芯がぞくっとする。この正体がなんなのか、彼は額に手をやり黒井城を観察するために目を細めた。
自軍は城を囲うように砦を築いている。負けるはずのない完璧な攻城戦だ。首をさすり「アホかな」と呟くと、両手で強く目をこすり、寒さにかじかんだ手をすり合わせた。
味方は敵の黒井城を、ぐるっと囲んでいた。
城の正面、南側に明智軍本隊。
東西北の三方に同盟する波多野軍。
四方を封鎖している、完璧だ。
そして、静かだ……
と、ハシブトガラスが、空でグワッグワッとブキミな声をあげた。
「越前に比べれば、このくらいの寒さになんとする」と、光秀が言ったとき、正面で
「どうした!」
伝令が走ってきた。
「赤井幸家の襲撃!」
襲撃の合図に太鼓が鳴った。がぜん、砦内は色めき立つ。
「むかえ打て!」
「おう!」
明智軍の意気は高かった。大将の号令に九兵衛も槍を構えた。
「殿!」
鎧に矢をうけた別の伝令が走り込んできた。
「波多野軍が攻めて参りました」
その言葉に耳を疑った。波多野は味方のはず。黒井城の左右と背後を囲むカナメの軍だ。まさか、そこが裏切ったのか。
波多野城主は丹波地域では悪右衛門のライバル、第2勢力でもあった。織田側について共に黒井城を攻める同盟軍だ。その波多野が裏切れば、一瞬のうちに勢力図が変わる。圧倒的に明智側が不利となる。
「なんと申した」と、思わず九兵衛は聞き返した。
「波多野が裏切りました」
「誠か」
「は!」
まずい。
敵を
「殿!」
その場にいる全員が光秀を振り返った。
「殿、まずいぞ。これはまずい」
丹波の山奥まで入り込んだ明智軍は、その瞬間、猫の罠にはまったネズミのような状態になった。勝てるはずがなく、なお悪いことに逃げ切るのも難しい。全滅する可能性も高い。皆の血の気がいっきに失せた。
「全員、退却じゃ!」
光秀が怒鳴った。
敗走する兵。これが戦場ではもっとも弱いのだ。敵に背を向けたとき、兵は斬られ放題になる。
「しんがりは」
「安田、古川、勤めよ!」
「は!」
斉藤利三の叫びに九兵衛は答えた。“しんがり”とは、逃げる味方を助けるために、最後尾で敵を食い止める、もっとも難しい役割である。九兵衛は安田作兵衛とともにその役を命じられたのだ。
同時に顔を見合わせたふたりは死期を悟った。
斉藤利三がうなづき、出陣しようとしたとき、声が通る。
「安田、古川!」
殿だった。
「は!」
「必ず生きて戻れ!」
「殿、この九兵衛のへなちょこは、わしの後ろで、遊ばせておきましょうよ」と、安田がその言葉に笑って答えた。
安田作兵衛、長槍を器用に扱う熟練者で配下のなかでも豪腕で有名だ。殿の信頼もあつく怖いもの知らずだった。
「なんの、安田! お前こそわしが守ってやるわ」
「言うたな」
「坂本城で会おうぞ!」と、光秀は言った。
言葉は短かった。しかし、そこに万感の思いが託されていた。
「おっし、いくぜ!」
「おう、九兵衛」
ここで死ぬわけにはいかない。大望も果たしてない。死ぬわけにはいかぬ。
そう決意すると、彼は鬼神となって飛び出して行った。
この後、明智軍は途中で待ち伏せに会うという最悪の事態に陥いり、壊滅的なダメージを受けた。
光秀は、からくも坂本城へ逃げ帰ることができた。
これが、世に残る『赤井の呼び込み軍法』と呼ばれる策である。
赤井悪右衛門とは、その後も戦いつづけ、彼が病死して、やっと光秀は丹波を攻略した。明智軍は強いというより弱くはなかったのだが、結局、赤鬼を退治できなかった。
(つづく)
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