白い月

しらす

白い月

夏の気配を台風が押し流した明け方の空に、僕は一人で立っていた。

本当は空に立つことなど不可能だと知っているのに、高層階から見上げる空は、そんな錯覚を呼び起こして頭が痛くなる。

ドアを開けた瞬間に吹きこんできた名残の風も、そんな気分を助長させたのかも知れない。


空が好きだったのは一体幾つの頃までだったろうか。

見上げる淡い青の中を過ぎてゆく白い雲に、意識をさらわれ吸い上げられていった青春は、もはや遠い日の記憶としてしか残っていない。

いつの間にか慣れてしまった日常が、気づかないうちに自分を蝕んでいたことを、こんな事になってようやく思い知るのだ。


「痛いな・・・」

訴えられる相手が居なければ、人は痛いとすら言えないらしい。

そんな話をかつてどこかで聞いたのを思い出して、敢えて口に出してみる。

当然ながら答える声は無く、体のあちこちに走る痛みが、心なしか一段増したような気がした。


ピリリリリリリ、と手のひらの中で唐突に鳴りはじめた携帯に、無意識に体がびくりと固まった。

3年前の夏の日に、些細な行き違いから彼女と別れて以降、携帯はほぼ時計代わりでそれ以上の役目を持っていなかった。

スマートフォンに買い換えろと彼女はしつこく勧めていたが、用を為さなくなった今となってはそのままで良かったとほっとしている。

いや、そんな事にほっとすること自体がおかしいのだろうが。


電話の着信音と同じ音に設定していたアラームが、出勤のために必要な起床の限界の時刻を告げていた。

もはや自分が出勤する会社など無いのに、けたたましい音は追い立てるように鳴るのをやめない。

アラームの設定を変えなければ、電池が切れるまでこうして毎朝鳴り続けるのだろう。


アラームを切って、設定も変えておくかと画面を見て、そんな事をしてももはや大した意味はないのだと気付いた。

このまま放っておいてもいずれ鳴らなくなる。せいぜい通りすがりに聞いた誰かが驚く程度で、そんな誰かもきっともう居ない。

そもそも時計だって既に正しいかどうか分からないのだ。腕時計をしない僕には他に時刻を知る方法が無いだけで。


唐突に、激しい疲労感に襲われた。

膝から崩れそうになる体を、無理やり前に進めてフェンスに手を伸ばし、何とか掴んで引き寄せる。

眼下の光景を見たくなかったが、前のめりにフェンスに寄りかかった途端に、それは視界いっぱいに広がった。


それはまるで、出来の悪い映画のワンシーンのようで。

現実感の全くない、ジオラマを叩き壊して撮影したものを、これでもかと拡大して画面に大写しにしたかのようで。

けれどその悪趣味なジオラマの中には自分も居るのだと、そう思う事を心の中で拒否し続けていたのだ。


5日前。僕の暮らしていた世界は悪趣味なジオラマへと一瞬で変貌した。

その一瞬に、偶然その変貌を受け付けにくい場所に居たというだけで、僕は取り残されたのだ。

どこへ行くこともできず、帰る場所もない。自分と共に残されたわずかな食糧も既に尽きてしまった。

せめて空を見たいと思った。取り残された僕が、いずれジオラマの一部となる前に。


ゆっくりと顔を上げて、壊れた風景を自分の視界から遠ざけて行く。

子供の頃に焦がれた空に、今一度僕の全てを明け渡し、そして還ろうと決めてここへ来た。

雨と風に洗い流されたばかりの空は、地上の惨状など気のせいだったかと錯覚するほど青く、雲一つ無い。

西の空にはぼんやりと、沈みきらなかった月が、いまだ白く残っていた。

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白い月 しらす @toki_t

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