第34話

 丸二日を今まで溜めていた積み本をせっせと読破する時間に充てていると、夜中に葵から唐突に連絡が入った。


『明日どうする?』


 可愛らしい猫のスタンプ付きで送られてきた文面に、ボクは異世界ファンタジーの世界からなかなか抜け出せなかったのか、あまりにも文章が理解できなかった。

 約束をした覚えはこれっぽちもなく、じっと画面を見ていると一分、二分と時が進んでいく。既に夜も更けた時間。何と返そうか迷っていると、携帯はまた唐突に震えだす。どきりと心臓が跳ね、大きく息を吸い込んで吐き出す。


「もしもし」


「あ、やほ~。寝てた? ……訳ないかぁ、既読ついてたもんね」


 普段よりも控えめにへへへ、と笑っていた。そんな声につられて口元が緩む。


「実は全く覚えてなくて、何か約束してたかなって考えてた」


「わ、覚えてないのぉ? 凜と三人でPV見よって話したじゃんっ。だから明日はどこで集合しよっかなぁって思ってさ? 今のとこあたしン家かなってなってるんだけど、小泉くんはどう~?」


「ボクはなんでも。どうせ毎日暇だからなんでもいんだが、家の人は大丈夫なのか?」


「大丈夫、明日は誰もいないし! 最寄りはそっちから三駅くらい離れてるんだけど、都合いいならおいでよぉ」


「ん、とりあえず明日起きたら連絡する」


「おっけおっ「今何時と思ってんの、うるさい!」やっば、じゃ、また明日っ!」


 急いで切られた電話に、あの日の黄昏時の景色を思い出した。あの広場から全てが変わった。あの日。ボクが本を買いに行こうと思ったから生まれた縁。そして葵はあの黄昏時に、笑っていた。

 友人と夜を明かし、最も不得手だと思っていた人種と約束を交わし。十六歳にしてようやく掴んだ青春を、ボクはこれでもかと浮かれるほど楽しんでいた。そして友紀のあの一言。


「小泉クンって葵チャンのこと、好きなの?」


 この一言を忘れた時間なんて数瞬もなかった。実のところ、ボクはこの言葉を忘れるように読書にふけっていたまである。

 ページをめくるペースが遅くなっていることを自覚せずにはいられないほど、強く意識してしまっている自分がいたのだ。


 それはあまりにも突拍子もない言葉。だけど、強烈な一言だった。


 あの数日で恋愛物の歌詞やら物語を読んでいたから、変に意識をしているだけだと思っていた。初めて心を開けた友人が一気に増えたから、そんな浮かれた意識が生まれるのだとばかり思いこんでいた。


 周りに溶け込むのが上手くて、話をしても楽しくて、あれほど嫌悪していた一軍なのに居心地の悪さを感じたことは、今思えば最初からない。

 誰かと関わる、ということから逃げていたくせに、人と話せたことによる興奮で感じなかったと信じ込んでいたが。


 どうにもあの日からずっと意識してしまう。好きかと問われれば、好意的な印象はある。ただそれが友紀や陽太のいう恋愛感情かと問われれば、まだ即答できない。

 そんな感情を抱いたことのないボクからすれば、この感情が好きで正解かどうかもわからないのだ。カーテンを開けると、もう月がかなり高い位置にある。


 月明りを眺めながら、ボクはすっかり耳に馴染んだピエロのCDをコンポにセットし、ヘッドフォンを付けた。耳元で友紀が歌い出す。


 世界から隔離された僕たち

 フィクションだったらよかったのにね

 笑う君があんまりにも綺麗だから

 まるでドラマのワンシーンの様に

 そっと手を重ねた


『ドラマ』の歌詞が耳をくすぐる。夕焼けに染まった道を歩く葵と重なり、あの笑顔に隠された涙が蘇る。

 カーテンを閉めてヘッドフォンを外すと、無音の世界が広がった。電気を消して布団に潜り込み、目を閉じた。瞼の裏に現れたのは、やっぱり弾けるような笑顔の葵だった。


 ぱっちりと目覚めた次の日、あいにくの雨だった外に思わずため息を吐く。夜中はあれほど晴れ渡っていたのに、いつの間に天候の神は機嫌を損ねたというのだろう。

 母さんは既に仕事に出かけたらしく、リビングは微かに残った冷気で辛うじて蒸し風呂化を食い止めていた。


 既に十時を回り、冷蔵庫に詰められた食パンをトースターにセットする。やれやれと声が出そうなほど空は重たい雲に覆われ、地面を濡らしている様が見える。

 葵からの連絡はまだ来ていない。出発時間を決めかねたボクは、せめてすぐに出られるようにしておこうと身支度を整えた。


 顔を洗って鏡を見ると、やっぱり灰色の目と目が合う。でももう悲観したりはしなかった。タオルで顔を拭い、いつも通りくしゃくしゃと髪を整えれば、いつも通りの自分が出来上がった。

 眼鏡のフィルター越しではない世界を歩くのは今日が初めて。きちんと前を見られるのか甚だ疑問だが、きっと前ほど恐怖感に怯えることはないだろう。


 もうボクは誰かに視線を集められても、認めてくれた友人がいる世界にたどり着けたのだ。そんな心強い盾があるのに、眼鏡なんて盾は必要ない。

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