第35話

『おはよー! 起きてる? あたし今起きた。笑

 12時くらいに駅まで来てくれたら迎えに行くから、それくらいでおけ?』


『あ、凜にはもうこっちから言ってあるから~』


 葵からの連絡は十時半ごろにやってきた。二通続けてやってきた文面に、キャラクターがOKサインを作っているスタンプで返信をすると、それから返事はもう来なかった。


 そういえば他人の家にお邪魔するなんてこと今までなかったから、こういう時は菓子折りとまではいかないものの、何か手土産がいるのではないだろうか。

 駅前に確かケーキ屋があったはずだ。女性はすべからく甘味が好きだろうと予想し、適当にケーキセットでも買って持っていけばいいだろう。


 ……雨の中持っていくのは骨が折れそうだろうか。でもそれで喜んでくれるならそれくらいの苦労くらいたかが知れている。ふ、と自然と笑みが零れる。凜もいるということだったから、とりあえず三つ、いや、家族分も合わせて六つほど買えばいいだろうか。


 葵の家族構成を知らないボクは、いっそホールケーキのほうがいいのではないか、とまで思考が飛躍したあたりで、一度考えることをやめた。

 さすがに大の男がホールケーキ片手に尋ねるのは少々気が引けた。今日は別に誰かの誕生日という訳でもないし。


 そういえばそろそろボクも年を取る。新学期を迎えてすぐに、ボクは十七歳になる。どうでもいい、もっと言えば呪われた日だとすら思っていた日が、いつの間にかこれほど自然に自覚できるなんて。


 これも変貌した世界の証ということだろうか。それはそれで、気分がいい。


 手土産を買うのであればもう家を出てもいい頃合いだろう。外は雨。靴は撥水加工されたスニーカーで行かなければ。鞄を掴んで振り返る。相変わらず「いってきます」への返事はないけれど、玄関に挨拶を置いて扉を押し開ける。

 玄関を出ると廊下から雨に濡れた世界が目に飛び込んできた。玄関先に置いてある傘立てから一本抜き取り、マンションを出ると上で見ているよりもかなり強い雨だった。それを打ち消すようにヘッドフォンをかけて歩き出す。ボクの足は実に軽やかだった。


 駅までの道はいつも見ている景色なのに、全く違うように見える。全てが塗り替えられ、実に一年半ぶりに見た眼鏡越しでない世界が、あまりにも眩しい。でも誰もボクを見ない。そもそもボクが周りの人間を気にしていなかった。

 それよりも塗り替えられた世界の方がよっぽど気になる。これからこの世界で生きていくんだ、と周りを見渡す方がよっぽど有意義だった。


 ほどなくして駅前のケーキ屋に入店し、あれこれ迷ううちに時間も迫ってきて、結局十五個入りの焼き菓子セットの購入で落ち着いた。

 普段甘い物なんて滅多に食べないボクは、ケーキ一つの値段に少々臆してしまったのだ。

 歌詞の入金日はまだまだ先で、それらはライブが落ち着いてからと約束している手前、今財布の中にあるお金で都合を付けたかったのだ。今まで頼り切っていた母さんへの少しばかりの気遣いだった。


 まだホームは電車を待つ人がちらほらと見受けられたが、それでも寂れたベッドタウンの我が地元の駅はかなり閑散としていた。電光掲示板ではまだ一つ向こうの駅に着く直前と表記されていた。傘を弄びながら本を読んでいると、背中をとんとんと叩かれた。

 振り返るとにっこりと笑う凛が立っていた。ヘッドフォンを外すと、こんにちは、と凜が短く挨拶を口にした。それに対して頭を小さく下げてカバンの中に本を仕舞った。


「やっぱり一緒だったね。あれ、眼鏡やめたの?」


「目的地も地元も同じならなおさらだな。眼鏡は、……壊れた」


 壊れちゃったの? と目を丸くしている凛は、切り揃えられた前髪をしきりに触りながら、他愛もない話を喋り続けていた。

 以前会った時と写真で見たときは制服姿だったから、私服姿の凛を見るのはこれが初めてだった。とはいっても白いシャツに青いロングスカートを履いた凜は、制服姿さながらの真面目さが滲み出ていた。


「あ、それシュクレの袋だよね? 葵ちゃんへのお土産?」


「一応お邪魔する立場だしな」


「マドレーヌかな。私あそこのマドレーヌ好きなんだよね」


 可愛らしいピンク色の傘を持つ凜も、初めて葵の家にお呼ばれしたのだという。足元の靴はエナメル加工で、最近の長靴は可愛いのが多いと嬉しそうに話していた。

 ホームに滑り込んできた電車に乗り込むと、暴力的だと思うほど効き過ぎたクーラーの風に打ち付けられた。少し身震いすると、凜も腕をさする。この時期の電車の冷房は少なからず地球温暖化に拍車をかけているに違いない。


 比較的空いた時間帯だったからか座席はちらほら空きがあり、ボクらはそれらに座り込む。たった三駅だけれど、空いていて座らないなんていう選択肢は端からない。隣り合って腰かけると、凜は拳一つ分の空白を空けるように座り直す。それを誤魔化すように頬を掻いていた。


「そ、そういえば! 小泉くんって、なんでうちの高校選んだの?」


「え、と。そういう凜はなんで選んだんだ?」


「そうだなぁ、いろいろあるけど……。図書館が広かったから、かな?」


 ふふ、と笑った凜は鞄から一冊の本を出した。最近読んでるのはこれ、と取り出したのは最近読了したばかりのファンタジー小説だった。


「あ、それ読んでるのか。ラストシーン結構良かったぞ」


「そうなんだ。楽しみだなぁ」


 楽しそうに笑う凜は、はっとした顔をしてそうじゃなくて、と話を強制的に戻した。本当の理由はあまりにも情けなかったため、ボクも凛と同じ理由にしておいた。確かにうちの高校の図書館は県内随一を誇るほど大きい。もちろん決め手の一つになったのは嘘ではなかった。

 たった三駅の旅は十分足らずで終わり、指定の駅の改札を抜けると、普段の洋服よりかなりラフな格好の葵が居た。メイクも普段より若干抑えめに見える。


「おはよぉ。雨だね、早く行こっかぁ」


 構内を出てビニール傘を差すと、雨音がすぐ近くで響いた。雨粒がビニールを叩くたびにパタパタと耳元をくすぐっていく。それがどうにも愉快に思えて、二人が先導する後ろで静かに雨音に耳をすましていた。


「ついたよ~」


 駅から歩いて五分。その距離にあった一戸建ての前で止まった葵は、鍵を開けてどうぞどうぞと中へ促す。

 中に入ると他人の家の香りがふわりと漂う。それは紛れもなく葵の香りで、どうにも葵に包まれている気がして落ち着かない。


「お邪魔します」


「お邪魔しまぁす」


「はい、お邪魔されますっ」


 にこにこと笑う葵が先に玄関へ上がる。靴を揃えて上がるといつぞやのファミレスの時の様に、いいとこの子だねぇと葵が笑った。つられて凜も後ろに振り向いて靴を揃え、葵も乱雑に脱いだ靴を揃えると、二階に続く階段を登って葵の自室へ案内された。

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