第8話

 居間でコーヒーを啜りながらページをめくり、テレビからはニュースも終わって昼時のワイドショーが始まった。もうそんな時間か、と本を閉じて風呂場に向かう。

 結局眠りは浅いままだったからか、寝汗が酷かったこともあってシャワーを浴びることにしたのだ。

 立ちながらシャワーを浴びて、今日のプランがどんなものかを考えていた。


 せっかく駅前に出るのなら数冊買って帰ってもいいだろう。CDショップにもよりたい。気になっていたバンドの新譜を買うのもいいだろう。夏休み終盤頃にキルハイと対バンをするインディーズバンドのCDが入荷した情報は、Twitterで既に情報収集済みだ。


 シャワーから出て、パンツだけ履いてくしゃくしゃとタオルで髪を拭く。首にかけて鏡に映る自分が目に入った。濡れた髪から覗く灰色の目と目が合った。忌々しくもボクをじいっと見つめている。


 昔は自分の目を抉り取りたいくらい嫌いだったが、今はそこまでは思わない。ただ、父親と繋がっている気がして嫌なだけだ。この目は、誰も気付いてほしくない。もうあんな思いをしたくはないし、そして母さんにボクのせいで苦しい思いをさせるのは、もううんざりだった。

 母とボクを捨て、母国へと帰っていた父親。顔も名前も、今どこにいるのかも知らない父親に、ボクは恨み以外の感情を持ったことは一度もない。

 ボクと母さんに対して最低な置き土産を残し、エゴを押し付けて産み落とされた後、出て行った理由がどんなものかは知らないけれど、結局ボクらは二人で生きている。


 いじめに遭ったことも、ボクが視線に極端に怯えるようになったことも、全ては父親のせいだ。

 ボクは未だに、そんな子供のような駄々をこねながら、父親を恨み続けている。そうしなければ、きっと家から一歩も外に出ることができなくなりそうで、とても怖い。

 シャワーを浴びた後だというのに、無駄に自分の目を凝視していたせいでじっとりと汗ばむ感じが気持ち悪い。ドライヤーでさっと乾かして自室に戻る。


 こないだと同じジーパンに、Tシャツはもう適当でいい。尻にあるポケットに携帯を突っ込んで、首にヘッドフォンをかけて、眼鏡を持って洗面台に戻る。生乾きの髪をくしゃくしゃと適当にドライヤーで乾かしながら整えて眼鏡をかける。

 いつも通りの自分。代り映えのない自分を見て自然とため息が出た。特に理由はなかった。昔からため息をつくのは癖だ。冷水を出して、歯を磨いて準備は完璧。

 ポケットから携帯を取り出すと、あと二十分で約束の時間だ。


『もうちょっとで着くよ~』


 そんなメッセージを確認して、いつものウェストポーチを引っかけて、人と会うという小さな勇気と覚悟を胸に家を出た。

 むわっとした空気がまとわりつく。清々しいほど晴れ渡る空と、大きな入道雲。これぞ夏という世界に、ボクは少しだけ怖くなった。


 こうして何もしないまま一年が過ぎていくのだろうか。

 誰とも関わらないまま一人で死んでいくのだろうか。

 それはとてつもなく、寂しいことなのではないだろうか。


 だけどやっぱり、怖い。この目を持って生まれてしまったこと。それによって起こったいろんな出来事は、やっぱり人と関わることを恐怖させる。そんな同学年や元凶である父親を恨みながら、ボクは全く関係のない他人にも疑いをかけながら生きていたのだ。

 マンションの外に出て足を動かしてはいるが、このまま立ち止まってしまいでもしたら、きっと駅前にはたどり着けない。

 そんな気がして、ヘッドフォンを付けた。いつもより音量を上げて、じっと下を向いて、ただひたすら歩いた。


 彼女だってボクの目のことがバレたら、きっと好奇な目で見るに違いない。何も信じたくない。何も考えたくない。端から人なんぞに期待するから勝手に裏切られた気分になるだけだ。どうせこれが最初で最後のこと。きっとそうだ。そういえば、カラオケでも同じようなことを思ったような……。


 ……やめた。これ以上考え続けていたら気が狂いそうだ。一歩も動けないなんてことになるくらいなら、無心でいたほうがよっぽどマシだ。

 そう言い聞かせながら動かした足は、やがて見慣れた商店街へとたどり着かせる。広場についてすぐに、肩を叩かれた。

 振り返ってヘッドフォンを取ると、茶色かったはずの髪が金となり、後ろで一つにまとめ上げた葵がにっこりと笑っていた。


「やっほ、小泉くん」


 足元はかかと部分がかなり高い黒のヒール。すらっとした足を惜しみもせず露出させるショートパンツに、青のストライプが入ったカッターシャツをシュッと着こなしていた。

 胸元は大胆に開けられていて、シルバーのネックレスが光っている。まくられた腕にも手先にもリングやらブレスレットやらが散りばめられている。

 その姿にボクは昔の自分を思い出して、好んでその色にした葵の心情が全く持って理解ができずにいた。


「なんか思ったよりも早く着いちゃってさぁ」


 はは、と笑って見せる葵の左薬指には、やっぱり何もつけられてはなかった。


「すぐそこのファミレスでいいよね?」


 相変わらず小さいカバンを提げた彼女は、広場を超えた所にある路面店のファミレスを指さした。ほんの少しだけ汗ばんだおでこと、若干焼けた肌が住む世界の違いを物語っている。

 今すぐに逃げ出したくなる衝動をなんとか押さえつけて、目は逸らしながらやっと声を絞り出した。


「あ、いや、ボクほんとにごちそうなんていいよ、ほんとに」


「なぁに言ってんの! 助けてくれたお礼だっつってんでしょ、黙って受け取っといてよぉ」


「勝手にしたことだし、それにほら、そんな喋ったことないし、さ」


 ちらりと見ると、目をまん丸にさせた彼女は快活に笑って見せた。


「なに言ってんの? あたしらもう友達じゃん!」


 鳩が豆鉄砲を食った気分だ。友達って、こんな風になるのか?


 こんなにもお互いのことを何も知らないのに?

 ボクの人生において、俗にいう友達というのには無縁だったからか、友達の作り方というのは全くもって知らない。見知らぬ誰かと友達になるという状況は、ボクの世界には存在していないものだ。


「ほら、行くよぉ」


 広場を突っ切り、さっさとファミレスへ向かっていく彼女に、ボクは黙ってついていくしかできなかった。そんなことより、さっきの言葉の方の衝撃が余りにも強かったのだ。


 友達、友達か。


 それはどう作るのが正解だったのだろう。葵のような性格だったら、こうしてLINEの連絡先に入ったら友達と呼べる存在が増えていたのだろうか。

 ここまで考えて、ボクは前髪をくしゃりと乱した。ボクは何を考えているのだ、とバカらしくなってきた。

 カースト上位のただの戯言だ。きっとこの外出で夏休み中に葵と会うことはないだろう。これが終われば、またただのクラスメイト。


 そう。ずっと前に自分で決めたことだ。誰とも関わらず、ただひたすら時が経つのを待ち、一人で生きていくと。これ以上ボクの世界を乱されないように。

 色づいたように錯覚させられた感覚も失せ、ボクの世界は以前の様に何もなくなっていく。それでいい。ボクはずっと、これでいい。


「二名、禁煙席で~」


 さっさと受付を終わらせて、先へ進んでいく葵についていく。ありふれたボックス席に案内されて、メニューをこちらへ寄越してきた。


「なんでも好きなの頼んでね! あたし結構お腹空いてっからさ、がっつり食べちゃおー」


「いや、だからさ」


「あ、ドリンクバーいるよね。ドリンクバーってどうやったらモト取れるんだろねぇ」


「……聞いてる?」


「なにぃ?」


 パラパラとメニューをめくりながら、ボクの話なんて一つも聞いてなどいない。またため息が一つ零れ落ちた。


「めんどって思った?」


 こちらをまっすぐ見る葵と視線がぶつかる。咄嗟に視線をメニューに下ろして、首を振った。


「そうじゃなくて……。ごめん、ならその気持ちに応えることにする」


「おっけ! じゃあ店員呼ぶよー!」


 その瞬間呼び出しボタンを躊躇なく押した。待ってくれ。ボクはまだ決まっていない。必死にメニューを眺めるボクなんかはお構いなしで、店員さんがこちらに向かってきた。

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