第7話

 本を読んでも集中できない。こんなことは今まで一度もなかった。夜中まで読む癖が抜けないせいで、寝つきも随分悪い。

 日付が変わっても眠気はやってこないし、かといって物語も一向に頭に入っては来ない。さてどうしたものか。


 ヘッドフォンをかけてベッドに寝転がり、天井を見つめる。特に代わり映えもしない部屋の風景。

 ベッド脇にある二つの本棚にはびっしりと本が並べられている。勉強机とは言い辛いデスクには卓上ライトと教科書やらノートやらを並べて、その前には部屋には少々不格好な椅子が鎮座している。

 小脇にあるボクの腰ほどしかない棚にはCDたちが並ぶ。上段には小さいCDプレイヤーと母さんが誕生日に買ってきたBOZUのスピーカー。

 ラックの横には三段のタンス。これは母さんが買ってきて組み立てさせられた。


「高校生なんだから服も増えるでしょ」とかなんとか言っていたが、結局そこまで増えなかったうえに組み立てにはかなり骨が折れた。

 日曜大工をする父親の気持ちがわからない。かなりきつい仕事だったことを思い出し、強く思った。最も、父親の存在意義もわからないのだが。


 耳元をくすぐるのはバンドミュージックたち。腕で目を覆ってみても、周りを見渡しても、やっぱり眠気は訪れない。電気をつけたら余計に眠れないことは今までの経験で既に習得している。

 だけどやることもなければ、考えることもこれといってない。ただ時間とバンドミュージックだけが通り過ぎていく。

 ヘッドフォンを引きはがしてトイレに立つと、トイレの扉は開けっ放しになっていて、光が漏れていた。

 その扉から足が伸びている。あぁ、これは厄介なことになりそうだ。


「母さん」


 声をかけてみても反応はない。揺さぶってみても返事はない。酒の匂いが立ち込めて、便器の中は吐しゃ物で濁りきっている。

 居間の扉を開いて、冷蔵庫からペットボトルの水にストローを差し、強めに揺さぶると、やっと母さんの意識が戻ってきた。


「大丈夫? また鈴木さん?」


「そぉよぉ」


 ペットボトルを支えながら、母さんにストロー部分を差し出すとすぐに咥えてくれた。ストロー越しに水が吸われていくところを見ると、今日はまだマシだろう。酷いときはこのまま眠ってしまうことも多々ある。


「っはぁ……生き返った気がするぅ」


 ふらりと立ち上がると、そのまま洗面台の方へと去っていった。便器から外に吐しゃ物が飛散していないのを確認して、すぐに流して消臭剤をばらまく。

 独特の匂いが立ち込めてどうにも尿意が引っ込んでしまったので、とりあえず居間へ足を踏み入れると、母さんがフラフラと入室して、テーブル前に座った。


「あんのハゲ親父……何本抜いたらエッチできるのって、それしか言えんのかぁ。あれ、私のカバンどこだぁ? あ、あっちかぁ」


 またフラフラと玄関に放り出されたカバンを取りに向かい、そして煙草を咥えながら戻ってきた。

 別に煙草くらい、どうってことはない。大人には子供にわからないストレスで溢れているからこそ、酒も煙草も許されているのだろうから。それでも母さんは滅多にボクの前で煙草は吸わない。


「明日も仕事じゃないの、起きてて平気?」


「だいじょぉぶ~。これ吸ったら寝るからぁ。あー、きもちわる」


 煙が漂い、紫煙が立ち込める。換気扇を付けて、お茶を一杯だけ入れる。これを飲んで寝よう。不本意ながらボクも明日は用事がある。


「あんまり飲みすぎんなよ」


「わぁかってる~」


 一気に飲み干して、シンクの中にグラスを置く。ふぅ、と一息ついて、母さんを見やると、携帯をいじりながら険しい顔を浮かべていた。


「……おやすみ」


「おやすみぃ、いい夢を~」


 ひらひらと手を振られ、玄関のカギが閉まっているか確認してから部屋へ戻った。

 仕事じゃないお酒はめっぽう強いのに、仕事となると話は別だ。酒は一度も飲んだことがないから、ボクはどれだけの量でそうなるのかはわからないが、一度酔いつぶれた母さんを迎えに店まで行ったことがある。


 その時はよくドラマなんかで見るワインボトルが七本くらい席上に転がっていて、そのうちの一本を握りながら眠りこける母さんがいた。

 いつもお世話になってます、なんて言ってみたら、店のおばさんがよく出来た息子だわねぇ、なんて言ってお菓子を大量に押し付けてくるものだから困ってしまった。

 ヘッドフォンを脇に置いて、今度こそと目を瞑る。静寂が部屋を満たして、耳の奥がつんとする頃、扉を二枚も突き抜けてすすり泣く声が聞こえてきた。

 ぐっと眉に力が入り、ヘッドフォンを付けてボクは今度こそ眠る体制を整えた。



 カーテンを開けっぱなしにしていたからか、瞼を突き抜けて光が眼球を刺激する。

 眠い目を半分開けて携帯を手繰り寄せると、まだ十時を少し過ぎたころだった。メッセージにはしっかりと『aoi』からの連絡が入っている。


『今日12時ね! よろ~』


 ボクが起きるよりも一時間も早く前から届いていたメッセージに、少しだけ感心した。

 学校でも確かに遅刻するイメージはない。化粧は毎日ばっちりとされているし、女子というのは本当にすごい生き物だ。カースト上位に目を付けられないよう、周りと関わらないようにするためにも周囲を観察して得た情報だ。早起きはボクの不得手なことの一つだから、余計に葵という人物はすごいと思わざるを得ない。

 さて、どう時間を潰したものか。とりあえず朝食でも取ろうか。シャワーも浴びたほうがいいのだろうか。

 同級生とどこかへ行くことは初めてのことだから、どの程度までの準備をしたらいいのかがわからない。


 ベッドから体を起こして、読みかけの本を一冊抜き取って居間へ向かう。テレビをつけると、キャスターがにこやかに「本日はこの夏で最高気温になるでしょう」と伝えていて、昨日ネットで見た予報が当たっていたことにうんざりしてしまった。

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