第3話

 今度こそ帰ろうか、と店に背を向けて帰ろうと歩を進めたとき、それは突然耳に突き刺さってきた。


「おめえ、マジふざけんなって! うぜーなぁ!」


「うっさい、あんたが浮気したからでしょ⁉ そっちこそふざけんな!」


 カップルの喧嘩だろうか。駅前の広場で、そこそこ人通りもあるというのに、大声を張り上げる二人。触らぬ神に祟りなしか、と知らないふりをしようとしたが、気になってちらりと見ると相手の女に見覚えがあった。


 あれは確か、クラスメイトじゃなかったっけ。名前は確か、川上葵。


 周りに興味がなかろうが、カースト制度をよく知っておくことで守られる立場がある。どうせクラスが変われば忘れるし、大人になったら関わることすらないだろうから、と記憶のメモリに少しばかりクラスの一軍の名前を保存してあったのだ。それに彼女は、終業式のときにボクにぶつかってきた人だ。

 高校のクラスメイトで、かつカースト上位の女かと思うと、ボクの足はぴたりと固まってしまった。まるで足だけ石にされてしまったようだ。

まさかこんなところでクラスメイトに会うなんて。ここからボクの通う高校に進学した同級生は一人もいないはずだ。そういう進路を選んだのだから。


 なら、あのガタイのいい男の地元、ということなのだろうか。特に遊ぶような場所もない、ただのベッドタウンに来る用事なんて、カースト上位はないはずだろうから。

 その男に見覚えは、散々な毎日を過ごしてきた小中の記憶を遡ってみても、全くない。そもそも同い年のようには見えなかった。


 広場にちらほらといる周りの人間は、二人を白い目でちらりと見ながらこそこそと話しているように見える。ボクも取り巻きの一人なのに、周りの人間がとても薄情に見えた。

 そうこう思考を巡らしている間もどんどん言い合いはヒートアップしていく。

 瞬きをするほどの刹那、鈍い音が響いた。その様をただ眺めることしかできなかった。


 まるで世界が静止してしまったかのように辺りは一瞬で静寂が貫いていった。女はすぐに地面に倒れ込んだ。相手は拳を完全に握りこめていた。

 周りにいた広場の人間はそそくさとその場を後にしていく。無常な世の中だ。ただ一瞬の出来事でも、何が起こったかなんて明白なのに。


「もう連絡してくんじゃねえぞ、重ぇんだよお前!」


 と吐き捨てて、男はどこかへ消えていった。そんなことが起きたのに、ボクはその場から未だに動けなかった。ただ繰り広げられるその出来事から、目が離せなかった。

 シンとした広場に一人、彼女は取り残された。しばらくは動けまいか、と思っていたが、座り込んだままではいなかった。すぐに立ったが、顔だけは下を向いて、派手なヒールを鳴らしながら走り出した。まっすぐ、こちらに向かって。


 そして、ボクの肩に小さな衝突が走った。終業式と同じくらいの感覚で。


 終業式のときよりさらに明るい茶色で染められ、軽くウェーブがかった髪はボクのすぐそばで揺れた。その後につん、と鼻を刺激する香水の匂いが漂う。

 ぱ、とあげたその顔は、やっぱり終業式にボクにぶつかってきた人と、右頬が腫れていること以外は全く同じ顔だった。


「あれ、君……。もしかして小泉くん? 同クラだよね? なんで、てか、見てた?」


「あ、まあ……えっと、見てた、けど。その、大丈夫?」


「大丈夫って言いたいところだけど、まあ痛いよねー。びっくりしちゃった。なんだよアイツぅ」


 久しぶりの同級生との普通の会話が、まさかこんな形になると誰が想像できただろう。目の前で怒りながらも笑って見せる彼女と、ボクはまともに会話をしているのだ。終業式ではごめんすら届かなかったのに。

 無理して笑う顔を作って見せる川上さんを見ると余計に痛々しい。どうしてこんなときでも笑えるんだろう。人間、ひいては女性というのはつくづく不思議だ。これが、同情というやつなのだろう。


 物語でも女性は決まって辛いときに笑う。そして隠れて泣くのだ。たった一人で。

同世代に今まで思いもしなかった感情がボクを支配していく。こんなのは、知らない。人と関わってこなかったツケだろう。こんなとき、物語の知識しかないボクには何と声をかければいいのかわからないまま、突っ立っていることしかできない。


「てかなに? 地元ここなのぉ?」


 にっこりと笑う彼女は、まるでその話題から遠ざけるようにボクへ話題を振る。


「うん、そう。そこの本屋に行ってた。川上さんは、その」


「葵でいいよ!」


「……あ、おい?」


「そうそう! あ、お、いっ! あんまり名字で呼ばれるの好きじゃないんだよねぇ」


「じゃあ、葵……?」


「そ、葵! へへへ」


 にっこりと笑って髪をいじりながらボクの全身をいったん見てから、なんかイメージ通りだわ、なんて言ってまた笑って見せた。徐々に暗くなっていく商店街に街灯がつき始め、やがて看板の光や街灯たちがはっきりとボクらを照らす。

 それによって余計に腫れが目立って、ボクは思わず目を逸らした。最初から目線を合わせないようにはしていたけれど、それでも女性のそういった姿は、フィクションだろうとノンフィクションだろうと見るに堪えない。川上さんを改め、葵は髪をいじるのをやめて、携帯をいじりながらまた口を開いた。


「てか、いっつもヘッドフォン付けて本読んでるイメージだけど、いつも何読んでんの?」


「あー、えっと、いつもバラバラだけど、今日買ったやつで……、川上、いや、葵、が知ってそうなのは『リアリティ・リアリティ』かな。最近映画化したやつ」


 少しの沈黙に視線を戻すと、彼女は一瞬だけ眉をひそめた。その表情が伺えたことでまた目線を逸らす。ボクの視界はいろんなところを行ったり来たりを繰り返してばかりだ。


「あー……。読んだことはないけど。それ確か彼氏が途中でDVするやつだよねぇ。今の、私みたい……っ」


 どうやら映画のほうを見たようだった。語尾が震えたと思って彼女に視線を戻すと、笑顔を張り付けられた人形のように立ちすくんでいた。刹那。


 ぽろ。


 彼女の頬を透明な液体が零れ落ちた。顔は笑顔が張り付いたままなのに、両目からぼろぼろと涙が頬を伝い落ちる。


「あれ、なんでだろ? 化粧はげちゃう、んだけどっ」


 そうおどけながらも葵の涙は止まらない。ハンカチなんて気の利いたものは持ち合わせてないし、ボクはまた立ちすくむしかできなかった。

 しかし、ボクの目の前で嗚咽を漏らしながら泣く葵。そしてボクは気付く。周りの視線は、紛れもなくボクに当てられていると。


 途端に喉の奥がひゅ、と閉まりそうになった。状況だけ見れば、ボクが葵を泣かせている図に見えるだろう。だからこそボクに集中する、視線たち。

冷や汗が噴き出し、目の前の葵を放っておくこともできず、でも視線を浴びせられるのはこの上なく苦手だ。過去の記憶が呼び戻されていく。好奇の目で見る、銃弾よりも鋭い視線たち。


「ちょっと、いい?」


 咄嗟に彼女の手を掴んで歩き出す。冷や汗に比例するようにボクの手は冷たく、そして葵の手は熱い。そんなことを気にしている暇もないほど、一刻も早くここを抜け出したかった。


 確か。近くにカラオケがあるはずだ。まだ時間は十九時を過ぎたくらいだろうから、まだ時間はたっぷりとある。入ったことは一度もないけれど、大体こういう施設は高校生の場合、二十二時までの利用が許されていると相場が決まっている。

 手早くカラオケに滑り込み、慣れない受付を済ませて印刷された部屋番号へ急いだ。カラオケ店に入ったのは初めてだが、個室であるということを知識として記憶しておいてよかった。


 広すぎず狭すぎないコの字型の部屋に入ると、葵は端っこに座った。ボクもそれに倣って、対面側のソファへ、葵の真正面にならない位置に腰を下ろした。

 カラオケの画面から様々なアーティストの紹介PVや、アニメの番宣なんかがポップな声色で流れていく。

 対面に座った葵は下を向いたまま嗚咽を漏らしている。なんと声をかけていいかわからず、とにかく落ち着くまではここから動けないだろうと悟った。人と関わらないと決めているとはいえ、ボクも一応人間だ。この場で帰る勇気も持ち合わせていない。


 声をかけようか、でも切り出し方は……。そう考えながら、やっぱり言葉は出てこないまま、モニターの宣伝が一周したころ。

 彼女は下を向いたまま口を開いた。


「なんでいつも、こうなっちゃうのっ、かなぁ……っ」

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