第2話

 父親はボクが二歳の頃に出て行ったと聞かされた。夢追い人だったと母さんは語る。そんな二人の下に生まれたボクは、およそ日本人からしての普通を持ち合わせていなかった。

 なんの因果か、母さんが惚れこんだ父親はアメリカ人だった。写真は一枚もなく、あまりにも母さんと似ていない自分が父親の写真のようだった。


 ボクはハーフとしてこの世に生まれ、父親からブロンドの髪と灰色の瞳を受け継いだ。その二つを持ち合わせたボクに待ち受けていたのは、人と違うというただ純粋で曲げようもない事実で、そして辛い現実だった。

 小学校、中学校とこの二つは酷いいじめの材料と変わり果てた。目をなじられ、髪は染めていると先生に告げ口され、半ば無理矢理髪を染めさせられた。

 髪を染めると周りの元の髪色よりも黒が目立ち、一層周りと違うということで徹底的に孤立し、毎日何かが破れているかなくなっているか壊されている状態で帰宅を余儀なくされた。


 これには母親もかなり学校へ強く反発し、かなり講義をしていたようだったが、ボクは何の抵抗もしないまま、というよりそんな余力もないまま毎日を過ごした。

 母さんはその間もせっせと働き続け、バリキャリでありホステスであるという二足の草鞋を履くことを余儀なくされた。そんな母さんを、ボクは恨めずにいた。

 何をするにも一人のボクを退屈させないようにと買い与えてくれた、本や流行の音楽が唯一の救いだった。そうしてどんどん読書と音楽がボクの支えになり、そして孤立を加速させていった。

 けれどそれがなければ、ボクはどこかのタイミングでベランダから身を投げていただろう。それほど『人と違う』ことは罪なのだろうかと思うボクに、母さんはいつも寄り添い、そしてボクの為に働いている母さんに対して、幼心ながらに常に感謝がついて回った。


 そうして酷い小学・中学の思い出を捨て去りたいと願いながら卒業。その頃にはボクの心は完全に閉ざされ、せめて母さんの世間体だけは守るという、ただそれだけのためだけに進学。

 それと同時にボクは髪をさらに黒く染め、前髪を伸ばして伊達眼鏡をかけた。レンズで蓋をした世界は随分と狭く見える。

 ボクが感じているこの世界には何もない。ボクが知る、そしてボクだけが没頭できる何かは誰かの創作物で、そして借り物の居場所。

 ひとたび現実に戻されれば、そこにはボクの世界は何もない、空っぽな世界が広がっているだけだった。


  ◇


 まだまだ夏休みが始まったばかりだというのに、学校から出された課題を一週間ですっかり片付けてしまい、ただ時間を持て余す毎日と成り果てた。長期休みの醍醐味である毎日を惰性過ごすという快楽にボクはどっぷりと浸かりきっていた。そもそも課題を溜めこむのは最も効率が悪いと、なぜ誰も気付かないのかが不思議で仕方がない。

 日差しが最高潮に照り付ける時間に起きて、人間として必要最低限のことを済ませ、夜明けが来るまでページをめくり、外が薄明りに包まれる頃に眠る。そんな毎日。


 最後に外の空気を吸ったのは、母さんがどうしてもソーダ味のアイスキャンディが食べたいというので、二人でコンビニに行ったときだ。それももう一週間も前のことになる。

 学校なんて頭からすっぽりと抜けきった状態のボクは、無心でベッドに寝転がりながらページをめくっていた。ヘッドフォンから軽快なギターソロが聞こえたころ、終業式に買った五冊目の積み本を読了した。

 本を閉じて大量に詰まった本棚の空いたスペースに立てかける。そろそろ本棚も増設しなければ収まりきらないかもしれない。

 オレンジ色の光が部屋を包むころ、まだ物語の中にいるかのような頭を無理矢理起こそうとベッドの上で座った。

 ヘッドフォンを取って首にかけ、ふるふると軽く頭を振ってだんだん現実へ戻る。空っぽの世界へ、戻っていく。


 自室を出て短い廊下を通り過ぎ、リビングへ入ると、むわっとした空気がまとわりつく。日本の四季は美しいと言われがちだが、ボクは夏が苦手だ。湿気は多いし、部屋は蒸し風呂みたいになるし、無駄に暑いし。こうして自室の外に出るのも嫌になる。


 冷蔵庫からアイスキャンディを取り出して、すぐに自室へ戻る。

 アイスキャンディの袋を剥くと、ソーダ色のバーが随分魅力的に映った。そのまま噛り付くと人工的に作られた、およそソーダっぽい味が口の中を駆け回る。


 しかし、だ。


 さっき読み切ったので積み本は最後。まだ夏休みは丸々一か月もある。しかし図書館はそろそろ閉館の時間になろうとしている。

 ならば行先は一つ。駅前にある小さな本屋だ。

 邪魔くさいなとは感じたものの、どうせ明日も明後日も、今もやることがない。行くのなら思い立った今日が妥当というものだろう。

 ゲーミングチェアに腰かけて、窓から見える風景をぼんやりと眺めた。


 この部屋にパソコンはないが、母さんに「本を読むときに普通の椅子じゃ腰が痛い」と訴えた次の日に母さんが唐突に買ってきたものだ。

 後々に調べると意外と高くて申し訳なくなったのを覚えている。しかし母さんの突発的な行動にボクは結果的に助けられている。この椅子もいい例だろう。


 夕方ではあるが、外はやはり暑そうだ。窓が微かに結露している。さっき決意したところなのに、急に面倒くさい気持ちがふつふつと湧き出てくる。

 そんな気持ちを振り払って椅子から立ち上がった。白無地のTシャツはそのままでいい。

 ベッド下の引き出しからジーパンを取り出して、ジャージからそれに履き替えた。口に頬張ったアイスキャンディを一気に棒から引き抜く。割と大きい塊を口の中で転がしていると、奥歯がツンと冷える感覚がした。


 眼鏡を持って洗面所へ向う。鏡に映るのは目元を覆う前髪。そこから覗く忌々しい灰色の目。それを見ないように自分の頭部へ視線を移す。


 耳にかかるほどの横の髪も昔からのくせ毛のおかげで、好き勝手に跳ねている。くしゃくしゃと整えたフリをして、眼鏡をかけた。そろそろ黒染めもしなければならないだろうか、少し金色が混じり始めた髪に、思わずため息が漏れた。

 いったん自室に戻って、小さなウエストポーチに財布と携帯とカギを突っ込んで引っかけ、完成。サンダルに足を突っ込んで振り返った。


「いってきます」


 返ってこない挨拶を玄関扉の向こうに残してカギを閉めた。ここから駅までは徒歩で十五分ほどかかる。特に急ぎでもないし、今日は歩いてでの移動だ。少しくらい運動しなければ体にも悪いだろう。

 近所の小学生たちがボクの横を走り抜けていく。そのたびに生ぬるい風が体を包み、やっぱり自転車の方がよかったかと半ば後悔しそうだった。


 暑さに耐えながらひたすら歩くと駅に向かう道すがらにある、小さな商店街に差し掛かった。ここを抜けるといつも通学で使っている駅の改札に着く。

 駅の前は小さな広場みたいになっていて、大体カップルやらなんやらがたむろしている。こんなに暑いのによく外でやるな、と思う。せめていちゃつくなら見えない所でやってほしい。目のやり場に困るから。

 流行っているのかよくわからないインド料理屋を通り過ぎ、整骨院のその隣に、最近古すぎて取り換えられた田村書店の看板が見える。


 古い本屋の自動ドアがガタガタ、とつっかえながら開く。看板より自動ドアを直せばいいだろうに、不格好に開いた自動ドアからは心地のいい冷風が飛び出してきた。

 夕方とはいえ外の気温はかなり高く、ボクの体温を容赦なく上昇させていた。本屋の中に入るだけで火照った体が喜ぶほどには。

 涼やかな店内に一息つくのもつかの間、ボクは早速辺りの本を物色する。


 今日の気分はミステリーと過去の文芸作品かな。まだまだ読んだことのない作品が沢山ある。

 あ、この本「このミス」の大賞取ったのか。知らない作家だけど大賞が付くくらいなのだから面白いだろうな。

 これは確か映画化されたやつだな。恋愛物はあまり読まないが、ここまで人気なのだから面白いのだろうか。映画はまだ見てないけど、読んでみて面白かったら映画も見てみるか。

 これはずっと読んでいなかったけど、日本三大奇書と呼ばれるくらいなのだし、さぞ中身は鬱屈としているのだろうな。ずっと手を出していなかったが、そろそろ読んでみてもいいだろうか。


 気が付けば六冊も文庫本を抱えていて、何冊か戻そうかと考えて、やっぱりそのままレジへ持っていった。


「ぁざーす」


 気の抜けそうな声と共に店員の手が、これまたやる気のなさそうにゆっくりとレジに通していく。


「ブックカバーはご利用でしょーかー」


「……いいです」


 ブックカバーを付ける前から袋に詰めていた店員は、ぽそりと会計を呟いた。福沢諭吉をトレイに置いて、釣りは樋口一葉と小銭が少々。

 手にした六冊分の重みを感じながら本屋から出ると、少しだけ涼しくなっているような気がした。

 さっきもアイスを食べたけど、こんなに暑いしシェイクでも買っていくか、と本屋の隣にあるファストフード店に入ってチョコシェイクを注文する。ワンコインでできるちょっとした贅沢だ。

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