ボクの世界には君だけでいい

仮名

第1章 夏休みは友達の始まり

第1話

 通知表には可もなく不可もない成績の評価が並んでいた。中の中。ボクの評価なんてそんなもんだった。去年からほぼ変わらない小さな紙きれを、ズボンのポケットにねじ込んだ。

 こんな茶番をあと一年半もしなければならないかと思うと、夏休み前というのに気分が滅入る。


 特別に秀でたことなんて一つもない。趣味は読書と音楽鑑賞。絵に描いたようなつまらない人間だ。

 目の前で夏休み中の過ごし方について注意している先生も、そんな話に聞く耳をもたないクラスメイトも、皆まとめてつまらない人間とも思う。

 誰かにとって影響を与える人間なんて、ボクの世界には自室の本棚に収まっている本たちを書いた人か、ヘッドフォンに繋がれたiPodから流れ出すミュージシャンくらいだ。


 その他大勢のつまらない人間に、ボクは全く興味がない。ボクの世界につまらない人間なんていらない。

 だからといって刺激もほしくない。このままの生活が一番だ。誰かに見られることを、ボクは欲していない。むしろ見ないでほしい。

 とはいえなんの意味も持たない眼鏡越しに見える教室は、常に退屈そのもの。長期休みだからといえど、土日の休みが一か月ちょっと続くだけだろうに。

 肩ひじをつきながら首に一筋の汗が流れたとき、つまらない学校生活に一区切りをつけるチャイムが鳴り響いた。


「夏休みだからと言ってハメを外しすぎないようにな。以上!」


「きりーつ」


 ガタガタと椅子を鳴らしながら、一応立ち上がって礼をする。担任の川田先生は礼を見届けるとさっさと教室を後にした。


 ……ボクもさっさと帰ろう。


 椅子に掛けていたリュックに手をかけてヘッドフォンを付け、ボクも先生に倣って教室を出ようとしたとき、肩に小さな衝突を感じた。

 ちらりと下を見ると、明るい茶色に染められたロングヘア―が揺れていた。教室カースト上位だからといって我が物顔をするグループの一人だ。ボクの一番興味のない人種。それでも一応ヘッドフォンを少しずらして「ごめん」と謝る。

 ボクの小さな詫びが聞こえなかったのか、こちらをちらりと見てからすぐにグループの中へと入っていってしまった。


 なんだよ。せっかく謝ったのに。


 ヘッドフォンを付け直して下駄箱へ向かう。小さなイラつきも、今日はなんだか足が軽い。

 結局土日の休みが一か月ちょっと続くだけの休みで浮かれているのはボクも同じということだ。


 帰ったら読みかけの本を読み切ってしまおう。出された課題はさっさと終わらせて、せっかくの夏休みなのだから二十冊は読もう。そういえば八月にはよく聞く数組のバンドが新譜を発売するとか言ってたっけ。


 そんなことを考えながら、駅へと続くアスファルトの道を歩いた。日差しはビームのように強く、地面はそれを鏡のように反射してボクの体を火照らせていく。背中に垂れる汗が少しだけ気持ち悪い。


 学校の最寄り駅は地元よりもかなり開発が進められていて、チェーン店がちらほらと軒を連ねている駅ビル化されていた。

 その中に大きな本屋がある。入学してから何度もお世話になっている本屋の冷気に当てられてふらりと立ち寄ると、涼しい風が一気にボクを包み込んで店内へ誘う。

 普段この本屋に、ボクの通う高校の制服に身を包んだ学生を見ることはほとんどない。そんな現実が若者の活字離れを強調しているようだった。ただ、ボクにとってはかなり都合の良い、むしろ都合の良すぎる場所。それが本屋と言うオアシスだった。


 入ってすぐの雑誌コーナーを過ぎた辺りで軽く周りを見渡すと人はまばらだが、同じ制服を着た人たちもちらほらと見受けられる。そういった人は参考書コーナーを行ったり来たりを繰り返していた。三年の先輩だろうか。はたまた同級生だろうか。まさか一年という訳ではなさそうだが。制服の着こなし具合を見れば、という点で。

 そんな人らを横目に、ボクは真っ先に物語のコーナーへと足を進める。特に欲しい新刊などはないが、良さそうな一冊が見つかるのなら、と綺麗に並べられた本をじっくりと眺める。


 およそ本と呼ばれるものなら大抵好んで読んでいるが、その中でも物語は特に気に入って読んでいた。ジャンルは不問。純文学だろうがミステリーだろうが恋愛物だろうがライトノベルだろうが、およそ物語と呼ばれるもの全てが読書対象だ。ついでに詩集等も付け足しておくとしようか。

 人間が想像もつかないことを書いて、それを世にばらまいて人間を物語に没入させる人を、世は作家と呼ぶ。


 そんな作家という職業に憧れこそ抱き、幼い頃は夢に見たものだが、現実離れしすぎた幻想を見続けるのは危険だと知っている。多くの人間が挫折し、そして自分が自分に期待をすることの危険さは計り知れない。人とまともにコミュニケーションを取ることもままならないボクなんかが、何かを作り出すなんておこがましいにも程がある。

 だからこそ、ボクは物語の世界が好きだった。どこにもあり得ない、それでいて実はすぐそばで繰り広げられていてそうな、そんな物語の世界。

 ボクの世界がこんなに退屈なもので閉じられていると感じているからこそ、物語の世界に自分をトリップさせることに一種の麻薬のような中毒性を見出していた。

 周りと決定的に違う容姿にコンプレックスを感じ続け、いつしか最小限の関りに留めているボクの世界に対しての、唯一の刺激が物語だった。

 そんなことを考えながら二時間かけて吟味し、三冊の物語を手にして地元までの電車に揺られた。


 その間に流れ出るベースソロに身を委ねた。歌詞も一つの文学と知ってから詩集を読むようになり、今やバンドミュージックばかりをヘッドフォンで聞く毎日。

音楽の歌詞はリズムに乗せる分、物語よりもストレートだ。それがどうにもボクには性に合っていたようだった。

 二十分ほどで地元の駅に着くと日差しはまだまだ元気そうで、電車内の効きすぎて最早寒いほどだった冷風がもう恋しい。改札を出て十分歩いた先に見えてくるマンションの五階部分にあてがわれた一室が、ボクと母さんの根城だった。

 ヘッドフォンを首にかけて、音楽を止めた。耳が汗で少し濡れている。肩で耳の汗をぬぐいながらエレベーターで五階まで上がる。

 玄関を開けると、珍しく赤いエナメルのヒールが揃って鎮座していた。


「ただいま」


「おかえり~! 思ったより遅かったね」


 年齢を感じさせない若々しいスーツ姿で母さんはひょっこりと顔を出した。今日は夜も仕事がありそうな雰囲気だ。にっこりと笑ってボクを出迎えた母さんの顔には、会社用ではない化粧が施されている。


「まだ昼過ぎだけど……。まあ本屋寄ってたから。今日は夜も仕事?」


「そう~! 今日は午後休もらってたから早く帰ってこれたってのに、例のゴミ親父が謝りたいから出てきてーだって。謝るくらいなら最初から触ってくんなってね」


 ダイニングテーブルに座って、ポケットにねじ込まれっぱなしだった通知表を机に出す。くしゃくしゃになった紙屑をゴミ箱へ投げた。我ながらナイスシュート。

 昼はバリバリのキャリアウーマン。週に三日ほどはスナックで働くホステス。そんな顔を持つ母さん。そこまでして働かなくてもいいのに、彼女はせっせとボクの為に働いている。

 出て行ったきり音沙汰もない父親の代わりとして。


「こんなに暑いのに、ヘッドフォンなんてもっと暑いんじゃないの?」


「別に、普通」


「そ。あんたがいいならそれでいいけどさ。あと、やっぱり母さんはその眼鏡、あんまり似合ってないと思うな。さ、お昼まだでしょ? 一緒に食べよ」


 眼鏡をくい、と指で押し上げた。視力は両目とも眼鏡なんていらないほどにはいい。が、ボクは両目を俗にいう伊達眼鏡で隠す。この忌々しい目を、全世界の人間から。母さんはボクと同じじゃないからそんなことが言えるんだ。

 と、実際に言える訳もない不満を心の中で沈めながら、母さんがキッチンから大皿に乗った山盛りのからあげを運んでくるのを眺めた。

 テレビをつけると、来週からさらに日差しが強くなるでしょう、なんて半そでのシャツ姿のキャスターがにこやかに天気予報を伝えていた。

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