境界の終焉、新たな世界

 左の世界のアパートが全焼した火事は、あの晩未明、1階から出火したのだそうだ。

 死者は3名。

 また、5名が顔や手足に火傷を負うなどの重軽傷。


 ――私が左の世界の大学図書館で盗み見る事が出来た情報は、そこまで。


 アパートの部屋数は10。

 満室だったかそうでなかったか、その辺りは今となっては一切判らない。

 つまり、誰が亡くなって、誰が怪我を負って、誰が逃げ延びたのか――そもそも全員が該当者なのかはもう判らない。


 つまり私には、中嶋君が生きているのか、それとも死んでしまったのかを知る術がない。

 今もって、彼の生死は全く判らないままだ。


 そして、毎日大学の敷地内でそんな彼を捜す私も、生きているのか死んでいるのか解らない日々を送っている。

 それこそ悪霊か何かのように、ただ彼の影を追い求めるだけの生き物と化している。


「咲?」


 背後から茉莉に声を掛けられた私は、少しだけ振り返って、また目の前に視線を戻す。

 目の前には掲示板前の人だかり。

 いつだったか、中嶋君と藤枝さんが並んで立っているのを遠くから眺めた景色。


 ここの学生なら一日に一度は必ず訪れるであろう場所――なのに、7日目の今日も、私が探している顔は左の世界の何処にも見当たらない。


 もしも、生きているなら。

 大学に通い続けられるなら、必ずここに来るはずなのに。


 この7日間、彼は一度もここには姿を見せていない。


「ちょっと、咲……?」


 その意味を思って、呼吸が震える。

 あの日を境に彼がここに姿を現さなくなったのは、彼が左の世界の何処を探しても、もう存在しないからなのではないかと。


 ああ、それなら。

 左の世界なんてもう見えなくていい。

 彼がいない左の世界に、意味なんてない。


 だから、私の左目なんて、もう――


「止めなって! 咲、血が、血が出てる!」

「……あ」


 茉莉に顔から左手を強引に引き剥がされて、不意に我に返った。


 左の上瞼がひりひりする。

 右目で見降ろした自分の左手の指は、何かに爪を立てるように固く曲げられていた。


「だって……左目、要らない」

「要らなくない! 何言ってんの咲、何があったの!?」


 ヒステリックな声を上げる茉莉に視線を移す。

 左目に彼女は映らず、私には彼女が透けて見える。


 ほら、この通り。

 私の左目は使い物にならないんだ。

 私は思わず笑ったけれど、それは笑い声にすらならず、掠れた音が喉から漏れただけだった。


「だって、見えないの、何も」


 呟いて、空を仰ぐ。

 今日は梅雨の晴れ間だって、スマホのアプリに配信されたニュースで見た。


 生温かく、湿った風に額を撫でられて、私は思わず瞼を細める。

 そして、左右の差異が存在しない青空をぼんやりと眺めた。


 それは世界の果ての崖から足を踏み外し、背中から谷底に叩き付けられるまでの刹那に、視界に焼き付いた空の色と同じ……鮮やかな青。

 その鮮やかさが目に痛い。


 一瞬、そこに当て所なく漂う赤い風船を見た気がして、私は一筋だけ涙を流した。


 そっか。

 これが「世界が死んだ」って感覚なんだね、中嶋君。


 * * *


 その日の晩。

 私を心配した茉莉は、大学が終わるとそのまま私の部屋にやって来て、いろいろと世話を焼いてくれた。


 奢りだと言って袋から出てきたのは、金色と紺色が目に眩しい高級ビールの瓶。

 20歳になりたての春からバーでアルバイトをしているという彼女は、以前宅飲みをした時に比べると明らかに注ぎ方が上手くなっていた。


 流し台には普段活躍の場があまりないフライパンと食器が洗って置かれている。


 普段から料理をしているという彼女が作る夕食は、素直に美味しいと思えた。

 冷奴とゴーヤチャンプルーという選択だけが謎だったけれど、きっとビールと料理でワンセットなのだろう。

 あんたのバイト先、バーじゃなくて実は居酒屋なんじゃないのか、とも思ったけど、美味しかったので全く文句はない。


 そんな彼女は今、私の隣で微かな寝息を立てている。

 勿論この家には布団なんて一揃えしかないので、同じ布団、同じ毛布でくっついて添い寝。

 中嶋君がいたらと思うと、とてもこんな事は出来ないけれど。


 ――私はそっと眼帯を外した。


「いっ……」


 傷口に張りついていたガーゼが引っ張られ、痛みに思わず顔が歪む。

 昼間のアレで、結構深く傷付けてしまったらしい。

 ガーゼに付着した乾いた血を眺めて、何とも馬鹿な事をする奴だな……と他人事のように思った。


 左目を開けると、そこには月も星のない闇空が広がっている。

 明かりを消した部屋の天井を眺める右目の視界もまた、黒一色。


 右も左も、等しく何も見えない世界が、こんなに安心するものだなんて思いも寄らなかった。

 あれだけ壊れてると思っていた、中嶋君と出会う前の私の頭は、今思えば随分とマシだった気がする。


「中嶋君、何処にいるの?」


 枕元のスマホを手繰り寄せ、吐息だけで囁いて――刹那、自嘲に思わず口元が歪んだ。


 ああ。

 やっぱり私、壊れてる。


「中嶋君のせいなんだから。責任取ってよ、マジで」


 笑っているような顔で呟いて、スマホケースを閉じた。


 馬鹿みたいに半開きにした唇が震えて、私はそのまま泣き出していた。


 * * *



「つまり、咲が最近おかしかったのは、だいぶ前から好きだった男に逃げられたからだと」


 15日後の授業終了後。

 私は芙莉に連行された先――情セン地下の喫茶店で、彼女からの事情聴取だか取調だかを受けさせられている。


「だから……逃げられたんじゃないってば」


 割と見当違いな彼女のまとめに意義を唱える私。


「そうは言うけどさ。告白した次の日から行方も生死も不明だなんて……」


 うーん、と唸りながらストローを咥える茉莉の前、私は居心地の悪さを覚えながら、ちびちびとこの店名物であるミックスジュースを口に含んでいる。


 あれから、事態は全く動いていない。

 進展も後退もないまま、時間だけが徒に流れている。


 私はと言えば、先週のあの日のような取り乱し方をする事はもうなくなった……と、自分では思っている――思っているんだけど、やっぱり端々におかしなところが見え隠れするのだろう。

今日は遂に茉莉に「いい加減に全部白状しろ」とキレられてしまった。


「さっきも言ったじゃん、彼が住んでたとこが火事で全焼したの。亡くなった人も何人かいたそうだけど、それが誰だか判らないし……んでそれから、一度も姿を見てないの」

「そもそもそれがね?」


 ずず、と氷の隙間から水分を吸い上げる音を立てた茉莉が、ストローから口を離すや否や突っ込んでくる。

 やめなさい、お行儀の悪い。


「大体そんな大惨事なら、間違いなく新聞沙汰になってるでしょうが」


 茉莉の視線に思わず目が泳ぐ。

 泳いだついでに周囲を見渡す。


 コンクリ要塞情センの地下らしく、コンクリ打ちっぱなしの壁に囲まれた喫茶店内に、メニューの全体的なお値段の高さと中途半端な時間が相まって、人影はまばら。

 電球色の間接照明やポップな張り紙で、コンクリ壁特有の冷たい雰囲気は多少和らいではいるけれど、それでも殺しきれない圧迫感に気分も沈んでくる。


 何ならカツ丼でも頼もうかと思うレベルで、私の置かれた状況は、何処か刑事ドラマの取調室じみていた。


 およそ1時間前、3コマ目の授業終了後。

 私の言葉を確かめたいと言う茉莉に連れられて、私達はここにくる前に上の図書館に寄った。


 図書館司書課程も修められる本学の誇る大学図書館は、おおよそ図書館に存在するであろう殆どの機能、蔵書のジャンルが備わっている。

 当然新聞については、大昔のマイクロフィルムから今日の朝刊まで取り揃っていて、こと県内の新聞沙汰については、その気になればどれだけでも調べる事が出来た。


 ただ、当然の事ながら、そこにあの火災の記事は存在しなかった。

 流石に別の世界の新聞まで取り寄せる事は不可能なのだから、私にとってそんなのは当たり前だ。

 そもそも、自分の意志だけで白黒ハッキリ出来るなら、既に私は自発的に新聞に手を出して、予想ずくの肩透かしを食らっていると思う。

 ――自覚はしていなかったけれど、そんな事を思う位には、私の心は磨耗しているのだろう。


 待つ苦しみ。

 探す辛さ。

 そして、何も得られない悲しみ。


 私の思いに比例して、それらはまるでグラインダーのように私の心を大きく粗く削ってゆく。


 擦り切れるにはぼちぼち十分な時間、それらを繰り返して、こうして断片的にでも茉莉に話せている事自体、心が限界を訴えている証なのだと思う。


 もう十分だから。

 全て諦めて、正常な私に戻ろう。


 そう訴える私がいる一方で、まだ諦めたくない私もまた、確かに存在する。

 茉莉に全てを明かさないのがその証拠だ。


 諦めるには早い、なんて格好いい話じゃない。

 そもそも、これは私が足掻いてどうこう出来るような事じゃないというのは、流石に頭がおかしい私だって理解している。


 それでも足掻きたい。


私が出来るささやかな抵抗が、彼との再会を諦めない事だけだという、単純な話なのだ。

 だから、決定的な言葉は避けるし、私の左目と耳の事――私が世界のボーダーラインの上に立っている事も口にはしない。


 間違っても、茉莉を信じられないんじゃない。

 中嶋君にとって生前の藤枝さんがそうであったように、私をこちらに繋ぎ止める楔が茉莉なのだと、私は思っている。

 だから、万が一にも彼女の立つ世界を曖昧にしたくはないし、彼女に愛想を尽かされるような事をするのも、あってはいけない。


 だからこそ。


「結局よく解んないままだよもー……」


 そう言ってぺちゃあ、とテーブルに突っ伏した彼女に、


「あの馬鹿は私が頑張って見つけるよ。だから茉莉は、私がヤバいと思ったら容赦なくひっぱたいてね」


 私は笑顔でそう言える。


 今か? という顔で拳を握り締められたのは流石にちょっと焦ったけれど。


 * * *


「それじゃ、あたしはぼちぼち行くわ。実行委員の招集かかってっから」


 ふー、とわざとらしい溜め息ひとつ、ゴト、というオーク材の椅子が床を擦る音と共に茉莉が立ち上がって呟いた。


 彼女の言う実行委員とは、文化系と運動系のサークル、それぞれの代表と有志からなる学園祭実行委員の事だ。

 中嶋君と藤枝さんが所属する美術サークルも――向こうにもそういう組織があるならば当然、これからの時期本格的に絡んで行くことになる、学園祭の運営本部。

 考えてみれば、中嶋君が表紙を手掛けるはずだった文芸サークルの部誌も、ひょっとしたらその関係だったのかもしれない。


 なお、茉莉は小洒落た名前のデザイン系だか何だったかのサークルに所属していて、楽しそうだからという理由で実行委員に立候補したただのパリピ女である。


「結構歩くんだよなー会議室まで。前の文化系クラブハウスがまだあった頃はそこでやってたって話だし、まだ全然近かったんだけど」


 にも関わらずそこそこ面倒くさそうな様子なのは、本人もたまに愚痴っているけれど『思ってたのと違った』という事らしい。

 そりゃあ、大学構内全域をフルに使って、サークルというサークルが全て参加する学園祭の運営が楽勝なワケがないでしょうよ。

 挙句に情センから会議室が遠い事にまで文句を付けだす始末だし。


「そんなに違うんだ?」


 テーブルに伏せられた伝票に指を伸ばしながら、さして興味もなかったけれど相槌代わりに聞いてみる。


 そして。


「裏門から入ってすぐの所に池があるじゃん? その辺にあったんだって。5年ほど前にどっかのサークルが飲み会でやらかして、全焼したから建て替えたらしいよ? 土地が余ってたのがそこしかなかったって、敷地奥の坂の脇にね」


 茉莉の言葉に、私の指が止まる。


 裏門とは、正確には職員駐車場と隣接した車両用出入口の事で、普段私達学生が利用する正門以外に大学構内に出入り出来るもう一つの門だ。

 守衛室付きの鉄ゲートであり、主に教職員と外来者専用となっている裏門は、私のような一般学生にはほぼ縁のない場所なので、今まで気にも留めていなかったけれど――


「……関係ない事聞くんだけどさ」


 伝票の手前で浮かせたままだった右手をテーブルの上に下ろして、私は口を開いた。

 顔を上げて、立ったままこちらに顔を向けた茉莉と視線を交わす。

 怪訝に首を傾げた彼女が、少し煩わしげに「ん?」と反応してから3カウント後。

 私は瞼を細めて尋ねた。


「文芸サークルの部誌って、学園祭で初出しするものなんだっけ?」


 私の質問が意外だったのか、茉莉が眉根を寄せる。


「そうだけど……つーか、今日の会議もその件だわ。表紙頼んでる美術サークルから、その件の進捗が上がってこねーって文芸サークルが文句言ってるってさ。美術の藤枝さんにそこんとこスケジュール確認するっていう喧嘩の仲裁みたいなクッソ面倒くさい……って咲! 何処行くのよ! つーかあたしが払うの⁉」


 * * *


 全焼。

 私にとっては心臓を掴まれるような響きの言葉だけれど、重要なのはそこじゃない。


 矛盾があったんだ、それこそ最初から。


 中嶋君は左の世界のこの大学に通っていて、けれどあの日までこちらの「彼女」の存在を知らなかった。

 こちらの世界で「彼女」が美術サークルの人間ではなかったとしたら、そういう事もあるかもしれない。

 大学構内は広くて、学年も、もしかすると学科すら違うのならば、すれ違う事すらないまま四年間を終える可能性は決してゼロじゃない。


 けれど、藤枝さんが向こうと同じく美術サークルに所属しているのならば話は別。

 それでも生じた矛盾の正体が……これだ。


 私は裏門そばの池、そしてその先の空き地を睨みながら、左手の中指で眼帯を下にずらすように外して、押さえつけたままずっと閉じていた左目を薄く開き……深く息を吐き出した。


「ハンカチ、返さなきゃいけないからね」


 口実はそれで十分だと思う。

 私は「彼女」に、藤枝さんに会わなくてはいけない。


 左右の世界は何もかもが違う訳じゃないし、何だったら大まかにはそう違いがある訳じゃないけれど、ここまで状況が一致することなんてあり得るんだろうか?

 美術サークル、滞った表紙、そして藤枝さんの存在。

 焦点の合わない世界で、多分唯一はっきり見えるものがそこにある、そんな気がする。


 私は踵を返して、空き地に透けた古びた建物――向こうの世界にそのまま残った、文化系サークルのクラブハウスに背を向けた。


 刹那。


「……あれ……?」


 例えるなら脳を小刻みに揺らされたような違和感を覚えて、思わず左手で頭を押さえる。

 目を閉じてもいないのに、左の視界がブラックアウトした。

 次の瞬間、自分の掌が視界を覆っていた事に気付いて、


「や、やだ」


 その意味を悟り、私は震える息を吐き出した。


 慌てて左目を擦ってみる。

 小さな瘡蓋で覆われた治りかけの傷が引きつれた痛みを感じたけれど気にしない。


 次の瞬間、キン、という一瞬の耳鳴りが左耳に走って、縋るように振り返った先には見慣れない建物がぼんやりと姿を現した。


(まだ……まだ早いよ、そんな、急に)


 間違いない。

 今、私は境界線そのものを見失いかけた。


 ようやく何かが、ぼんやりとでもわかりそうな矢先にこれはない。

 何のケジメも付けられていないのに、私から向こうの世界を、中嶋君がいた証拠を奪わないで欲しい……!

それとも、彼を失った世界を、私自身が終わらせようとしているの?


 足早に工場通りの帰路を抜けて部屋に戻り、眼帯を外して左目を開ける――そこに虚空が横たわっていることを確認する。

 朝起きたらそれが綺麗さっぱり消え失せているんじゃないか……そんな不安を抱えたまま、私は彼を失った風景の中に身を投げ出した。


 そのまま日が暮れ、宵闇が降りて。

 意識を手放したのが何時だったのかは記憶にない。


 * * *


 目の前を幾つもの景色が去来する。


 手を繋いだ中嶋君が隣にいた。

 ひとりきり、アパートの焼け跡を一瞥して通り過ぎた。

 車に撥ねられた瞬間に自分の死を自覚した。


 どれも当たり前のように、それぞれの場面に違和感を覚える事なく受け入れている私に気付いた。


「言ったじゃん。こっちとそっちは『可能性』という壁で隔てられた並行世界だって」


 背後から聴こえたのはいつか聞いた言葉、そしてずっと聞きたかった声。

 その声を両耳で受け止めながら、私は掠れた声を絞り出す。


「今のが、そうだって?」


 同じ世界で中嶋君と過ごす事も、初めから彼とすれ違う事すらなく日々を過ごす事も、そして、8歳の頃に交通事故で既に命を失っている事すら、有り得ない事ではないのだと。


「どれがいい?」


 おどけたような問い掛けに、私は首を横に降った。


「……ホント、中嶋君って性格悪いよね」


 そういうんじゃないんだよ。

 私は、あのまま君と一緒にいたかったんだよ。


「ねえ、何処にいるの?」


 縋り付く思いを隠しもしないで尋ねた私に、けれど中嶋君から返ってきたのは困った様に笑った気配だけだった。


「俺はここにいるよ」


 そしてそのまま、背後から抱き締められた。


「好きだよ、咲。一度も、名前を呼べなくて……ごめん」


 咄嗟に返す言葉もなく、いつの間にか溢れ出していた涙が頬を流れるのも気にせずに、背中から私の肩を抱く手の甲に、そっと指を重ねる。


「いいよ、絶対に見つけ出して……何度でも、呼んでもらうから」


 重ねた指が体温を感じた次の瞬間、その感覚が消え失せた。

 まるで初めから存在していなかったかのように。


 これは夢――中嶋君と私だけの夢。


 ここはきっと境界線の上じゃなく中心で、彼と私がたった一度触れる事が許されたもう一つの世界、或いは二つの世界が混ざり合った何処か。

 永遠に失われた、二人が暮らしたあの部屋の代わりとして現れた――恐らくは一夜限りの夢に過ぎない。

 言うなれば「世界の中心」の夢だ。


 そう、夢でしかないんだ。


 それでも……そうだとしても、背中から抱き締められた感触も、体温も残っている。

 思い出せるし、絶対に忘れない。


 ここで確かに彼は「俺はここにいる」と言った。

 だとすれば、現実でここに当たる地点へと辿り着く事が、きっと彼を見つけ出す唯一の手段なのだろう。


 中嶋君と私、左と右の世界が交わった「世界の中心」。


 ここで可能性を選び取る事で世界が変わると言うのなら。

 もしかすると、あの瞬間、私が見た景色のどれかを選ぶ事も出来たのかもしれない。


 都合のいい理想か。

 現状のリセットか。

 或いは全てなかった事にして、自分が実は死んでいた事にしてしまうか。


 ……冗談じゃない。

 私は今抱えているこの気持ちを手放したくなんてない。


 この世界に生きる私のまま、望む結末を手に入れなければいけないと思う。


「好きだよ、格。必ず会いに行くから、私の事……ちゃんと憶えててね」


 恋をして、失って、一度は壊れてしまったけれど、それでもこの気持ちは今の私のもの。

 幾つもの可能性から選んだ、現在進行形の私そのものなのだから。


 * * *


 気がつくと、目の前にはあの朝に見た半透明の青空が広がっていた。


 きっと、このおかしな世界はいつまでも続くものじゃない。

 明日になれば……もしかするとあと半日、或いはあと1分で消えてしまうかもしれない。


 だから、もう時間はない。

 明日、私はこの意地悪な世界と――私自身の世界と決着をつけなくてはいけない。


 解決していない事はまだまだある。

 何ひとつ保証なんてものもない。


 何より、この狂った世界を見据えたまま、今の私のままで、何処まで辿り着けるのだろうか――


 * * *


 授業終了後。

 私は構内のはずれにある文化系サークルのクラブハウスを訪れた。


 サークル未所属の私には無縁と言っていいクラブハウス――旧棟が火事で焼け落ちてから急遽余った土地に作られたというこの建物は、学内でも特殊な造りの建造物だ。

 建物自体は2階建てなのだけど、坂道の真下から道路にべったりと沿うように建っているせいで、坂の中腹辺りで完全に1階部分が実質地下1階になる。

 坂の頂上ともなれば、何故か建物の屋上に植えられた芝生が地上階になって、1階と2階はそれぞれ地下2階と1階のように見える。


 空気も何処か異質。

 4畳程度の部室が幾つも並んだ建物の外観は、文化系の人間が徒党を組んだ団体がひしめき合っている、という字面そのままのカオス。

 何しろ、扉の前に各々看板を掲げた個々のサークルには、見事なまでに統一感がない。

 軽音、演劇、文芸、ゲーム等々。

 それぞれの部室に出入りするのは、同じ人種なのを疑いたくなるレベルで個性の違う学生達。


 中嶋君もこの中の一人だったのだろうか――そう思うと、別の意味で彼の住んでいる世界が違う気がしてくるのは、多分気のせいじゃないと思う。


 ただ、私は別に学内怪奇スポット巡りをしに来た訳じゃない。

 メインの用事は、あの日藤枝さんに借りたまま返せていないハンカチを、彼女に直接返す事。

 そして、左の世界と状況が酷似した、文芸サークルの部誌問題に触れる事だ。


 昨夜見た夢は、鮮明には憶えていない。

 けれど、確信めいたものはある。


 あの引っ越しの日まで、こちらの世界と向こうの世界は決して交わる事のない並行世界だと思っていた。

 けれど私と中嶋君は事実出会い、そこには有り得ないはずの混線が生まれた。


 その中心にいるのが、藤枝さんという存在だ。


 こちらの世界の私と、向こうの世界の中嶋君、そして、双方に存在した藤枝さん。

 世界の中心点があるとするならば、それはきっと彼女。


 触れられないなら、届かないなら、交わる地点に触れる以外もう試せる事はない。


 何が起こる訳でもないのかもしれない。

 けれど、左の世界が今にも私から失われようとしている今、出来る事はもうこれしかないのだ。


「つってもコレ、初見には難易度高すぎて……」


 時間がないのは百も承知だけれど、目の前の建物は私を歓迎しているようにはとても思えなかった。

 そもそも、どの部室も基本的に外観から活動内容が推し量れない。

 美術系サークル、という情報しか持っていない私には、正直どれがそうなのかが全く判別がつかないのだ。


 刹那。


「あれー?」


 頭を抱えている私の耳に、記憶に突き刺さったままの声が聞こえた。

 慌てて振り返ると、そこには。


「ずぶ濡れの子じゃん。久しぶり!」


 相変わらずの笑顔で私に手を振る藤枝さんがいた。

 ていうか、やっぱりそれで憶えられていたんですね。


 彼女の所属する美術サークルは、部室こそあれ活動自体は個々人やりやすい場所でそれぞれ行っているのだという。

 部員がここに集まる時は、月に一度の合評会の時、そして(件の部誌のように)年に何度かある学内での仕事依頼が入った時位のものらしい。

 だからなのか、招かれた部室は外観で想像していたよりも整然としており、決して居心地が悪い空間ではなかった。


「まあ、基本的に誰も来ないのをいい事に、あたしが結構私物化しちゃってるんだけどねー」


 そう言って紙コップに冷蔵庫から出した緑茶を注ぎながら藤枝さんが笑う。

 要するに、これらも彼女の私物という事らしい。

 私は差し出されたお茶に会釈ひとつ、傍らに置いたバッグから紙袋を取り出した。


「ハンカチ、お返ししようと思ってたんです。でも何処に行けばお会いできるのか分からなくて」

「あー。確かにお互い、同じ大学って事位しか分かんなかったもんね」


 そうして、私達は初めてお互いの名前を交換する事が出来た。


 ひとつの用事を終えられた安堵に気持ちが緩みかけたけど、私にはまだここで確認しなければいけない事が残っている。

 今のはあくまで、口実に過ぎない。


「そう言えば」


 私は眼帯を外して、正面から藤枝さんの顔を見据えた。


「こちらのサークルって、文芸部の部誌の表紙を手掛けられてるって伺ったんですけど」


 不躾にも程があるだろうというくらい、私は単刀直入に踏み入る。


 あの日、中嶋君からその話を聞かされた時、大役だなぁなんて呑気な感想を抱いた事を思い出した。

 実際大役には違いないのだ。

 文芸サークルの事情なんて知らないけれど、年に一度学園祭で発行する部誌の表紙、言ってみればその年の集大成的な本の顔を、他サークルとは言え担う事はそう安易な話じゃないはず。


 それが滞っている、その理由は?


 これが左の世界なら理解できる――恐らくサークルの中心人物だった藤枝さんが亡くなったすぐ後、大役を請け負う事になった中嶋君までも行方不明とあれば混乱もするに違いない。

 だとしたら、この世界では――


「え、あ。うん……そうだよ」


 付き合いの浅い人間がするには失礼に過ぎる私の言葉を、それでも藤枝さんは肯定する。

 けれど、彼女の返事は、あからさまな程に歯切れが悪かった。


「今年はどんな絵を描く人が担当されるんですか?」


 だからこそ、そのまま踏み込まなくてはいけないと感じた。


 あちらの世界では中嶋君が担うはずだった、この大役を担うのは誰だ?


 私は、中嶋君の絵の引力を知っている。

 ただ一人、彼にしか描けない世界があり、そのセンスを私は知っている。


 私にとってあの絵は、付加情報が濃すぎて、手放しで褒めるには業が深すぎて。

 それでも、彼の絵の引力それ自体は、私のような素人でも素直に認める事が出来る。


 認める――そう、認めよう、正直私は今苛立っている。


 この世界で彼の役割に嵌まった人の絵は、彼の代わりが務まる程のものなのだろうか。

 正直言って、私は絵画なんて高尚なものを愛でる趣味はない。

 私の趣味は音楽鑑賞と読書だ。

 けれど、贔屓目を抜きにして、中嶋君の変わりを務めるからには、生半可では認めたくないのも事実だ。


 数瞬の沈黙の後、俯いた藤枝さんが口を開いた。


「……今年はね、まだ決まってないの」


 けれど、藤枝さんが抑えた声で答えた内容は、そんな拍子抜けなものだった。


「まだ、って――」

「違うの! ホントは、あたし個人が推薦したい人がいたんだよ……今年の、5月までは」


 一瞬声を荒げた後、すぐに消え入るようにか細くなってゆく、一言で言えば悲痛な声。

 そして、私は今まで見た事がない彼女の表情を目の当たりにしていた。

 いつだって軽やかに、綺麗に笑う人だと、私は彼女を勝手にそう思い込んでいたのだと思う。


 今目の前にした藤枝さんは、眉を寄せて、今にも泣きそうな顔で私を見つめていて……私は喉の奥が灼けるような感覚を覚えた。

 彼女にそんな顔をさせたのは、他ならぬ私だ。

 踏み込んだ一歩の下に地雷が埋まっていたような気持ちだった。


 拍子抜けだと――そんな傲慢な考えを、私は即座に撤回する。


 5月。

 それは、向こうの藤枝さんが亡くなった頃。

 中嶋君の世界が、藤枝さんの死によって殺された時期に他ならない。


 ――右と左。

 明確に分かたれた世界、それを分断する境界線が、今まさにぼやけてきたのを――私の立つこの境界線が、世界が、マーブル模様を描いて曖昧になっていくのを感じる。


「彼の絵が好きだったの。もしかしたら、彼の事も、多分」


 訥々と、呟くように藤枝さんが続ける。

 そして、その顔が、何処かで見た事がある顔だなんて私は思った。


「まるで、あたしとは違う世界を見てるような絵だった。彼にしか描けない世界があるんだって……あたしはそう思ってた」


 ――ああ、と。

 私は既視感の正体に気付いて目を伏せた。


「5月のある日を境に、ここにも、大学にも来なくなって……連絡もつかなくなっちゃったんだ」


 彼女は、きっと私と同じなんだ。

 そして、彼女の言う彼とは――恐らく正解なので口には出せない。


 つまり。


 藤枝さんと私は、中嶋君に惹かれて同じく彼を見失い。

 中嶋君は、藤枝さんに惹かれて彼女を亡くし。

 中嶋君と私は、思いを通わせた矢先に離ればなれになった。


 私達3人は、そういう形の三角関係だったのだ。


「彼がいなくなる前の夜に、あたし……彼の前で死ぬ夢を見たの」


 それは――

 私が何かを言う前に、堰を切ったように溢れてくる藤枝さんの言葉、そして涙。


「車に撥ねられてね、脳挫傷で殆ど即死。それを俯瞰で見ていたあたしは、あたしの亡骸を抱えて泣いてる格君も見てた」


 ぐい、と目許を拭う藤枝さんの言葉を、私は黙って聴く。


「あたしは多分、知らないうちに彼を傷付けてたんだと思う。何かを間違えちゃったから、彼はいなくなったんだって……そう思うの」


 目を伏せたまま、私は左手をぎゅ、と握り締めていた。


 私が左の世界での現実の光景として目の当たりにした自らの死を、夢で見たと藤枝さんは語った。

 それが、自身が中嶋君を害した罪のメタファーであるかのように。


 ――逆に。

 私の見ていたあの光景は、本当に現実だったのだろうか?

 私が触れたくて仕方がない、向こうの世界で出会った中嶋君は、現実のものではなかったのだろうか?


 問われれば――けれど私は、即座に現実だと答えるだろう。


 中嶋君は初めて出会った日も、昨日の夢の中でも、ふたつの世界を「可能性という壁で隔てられた平行世界」と語った。


 一歩踏み越えた先の、分かたれた世界。

 隣り合わせにある、不可侵のチャンネル。

 もしかすると、私達は誰もがそんな危うい境界線というタイトロープの上を生きているのかも知れない。

 例えばそれが不意に左へぐらついた時、その自覚のあるなしに関わらず、偶然隣の国のラジオ電波を拾うように、チャンネル同士が重なる事だってあるかも知れない。


 そして、隣り合わせの世界を同時進行で見るという、中嶋君と私にある日備わった機能が、単純にそんな欠陥なんだとしたら。

 何からの形で、世界が分かたれたその意味を――明確な境界線を失い、混ざり合ったその瞬間に。

まるで外れていたゼンマイをはめ直したかのように、その欠陥は解消されるのだろう。


 そして、今この瞬間にも、私の主観というひとつの世界は、隔てられている意味を失おうとしていた。


「……ごめん、こんな事、城本さんに言っても仕方ないのに」

「……藤枝さん、多分それ、ちょっと違うと思うんです」


 涙を拭いながら申し訳なさそうに苦笑した藤枝さんに、私は更にもう一歩踏み込んだ。


 何かを間違えた――そんな言葉に否定で返すのは、これでもう2度目だ。


 伏せていた目を開き、もう一度真っ直ぐ彼女を見つめる。

 ――思いもよらなかったであろう反論を受けて、何処か不安げに私を見返す藤枝さんを、「左右の目で」しっかりと捉える。


 そこに、いつ何時でも重なっていた左目の世界は跡形もなく。

 左耳も、近隣の部室から漏れる騒音を――私の世界で聞こえる本来の音を、正しく拾っていた。


「あの人、根っこが割と弱虫だから……ちょっとだけ、あの独特な自分の世界を見失っただけなんだと思うんです。だから――」


 動揺を隠して、私は続ける


 欠陥の解消、左の世界の消失。

 その瞬間は、本当にあっさりと訪れた。

 何だかんだで慣れ親しんだ向こう側、中嶋君を見失った左目の世界を、こうして永遠に失う瞬間が。


 もしも今じゃなかったら。

 ここで、藤枝さんに再会出来て、彼女の気持ちを聞いていなければ――私はきっと、今度こそ本当に、救いようがない程に狂っていたと思う。


 でも、大丈夫。

 たった今混ざり合ったこの世界なら、私は彼を探せる。


 いつも私が口にしていた――この世界と向こうの世界は関係ない、そんな言葉が、今度は自分に矛先を向けるけれど。

 そんな言葉こそ、もう「関係ない」。


 消えた左目の世界そのものに用はないし、そもそも最初から、私はあんな世界なんてなくなってしまえばいいと思っていたのだ。


 私に必要なのは、この目が映す「私の」世界だけ。

 そして、中嶋君という存在を、この目の先に手繰り寄せるのは、今や私の意志ひとつあればいい。

 絶対に諦めない――その意志だけで、私は私の世界を変えて行ける。


 もしかしたら、ここは中嶋君を見失ったあの世界とは全く別の世界なのかもしれない。

 例えそこに、私が知っている彼がいなくても、初めましてから始めたっていいと思う。

 私の世界なんだから、その辺は好き勝手にやらせてもらうんだ。


 だから――


「私は彼を諦めないし、きっと見つけてみせます」


 私の一番の願い――彼と手を繋いで、同じ世界を一緒に見る事。

 それは決して、果たせない夢じゃないんだ。


 きょとんとしていた藤枝さんの顔が、数秒今にも泣きそうに歪んで、そして。


「咲ちゃんなら、出来るよ!」


 いつか遠目に憧れた綺麗な笑顔で、彼女は笑ったのだった。


 * * *


 部室の扉を締めて斜め上を見上げると、いつの間にか雨が降り出していた。


 私はバッグから折り畳み傘を取り出して、クラブハウスと坂道の中腹とを繋ぐ階段を上る。

 そして坂道に上がり、急勾配で傾いだ身体が重力に引き寄せられるまま、下り坂に一歩踏み出して。


 ――走れ!


 刹那、胸にこみ上げた、いつか聞いた短い叫びを思い出す。


 それがスタートの合図。

 私は、アスファルトを水飛沫で白く染める雨の中へと飛び出した。


 走りながら傘を開き、サンダルのつま先で水を跳ね上げながら正門を抜ける。

 金属音とモーターの騒音が響く工場通りからは今にも化け物が飛び出してきそうだったけれど、それをも振り切る勢いでただひたすら走る。


 コンビニの前を駆け抜け。

 住宅街に入り。

 人気のない道に差し掛かった頃、流石に息が切れた。

 湿気と雨粒と汗が肌を濡らしてゆくけれど、はあはあと不規則な呼吸を続ける喉は、焼けるように熱く乾いている。


 やがて私はゼンマイが緩んだオモチャのように、ゆっくりと足を止めた。


 そこは向こうの藤枝さんが消えた場所――見通しの悪い、例の小さな交差点。


 左の世界はもう私には見えないけれど、ここであった事を、私は生涯忘れる事はないと思う。


 私は、ここで初めて彼への恋を自覚して。

 彼は、ここで大切な人を喪った。


 そして今、交差点を渡った先には、雨粒を弾く一輪の向日葵が立てかけられている。

 先月左の世界で見たそれよりも一回り大きな花の前で屈み込んだ私は、そっと目を伏せてスマホケースを取り出した。


「もしもし――ねえ、梅雨が明けたら何処に行こっか?」

「どこでもいいよ。月並みだけど、海とかいいんじゃない?」


 そうして背後から聞こえた、相変わらずの何処か気の抜けた声に、スマホを右耳に当てていた私は思わず吹き出しそうになる。


 ここに辿り着いた瞬間に、その姿を目の当たりにして……それでも、ダメ元だとしても確かめたかった事。

 彼と私が、外で話す時のルール。


 忘れたなんて言わせない。

 だって、こうしようって言い出したのは。


「おはよう、咲」


 立ち上がり、振り向いた私の目の前で、左耳にスマホを当てて苦笑いしている、君なんだから。


「悪い、ちょっと手間取った。心の準備に時間掛けすぎちゃった」


 悪い、なんて言いながら、その実悪びれもしていない顔で笑う中嶋君。


 何処にいたのかだとか、遅過ぎるだとか、言いたい事は山のようにある。

 これまで宛てもなく探し続けて、果てもなく待ち続けた事。

 それを経てここに辿り着いたのは間違いないし、この場でそれを口にするつもりはない。


けれど、今この瞬間にどうしても気になる事がひとつだけ存在した。

 それは、今私の目の前にいる中嶋君は「どちらの世界」の彼なのか――


……ただ、その疑問は、きっともう意味がない問い掛けだ。

 事実として私からは左目と耳で見え、聞こえていたあの世界は失われてしまって、自分の世界と呼べるものは唯一、今立っているこの世界以外には既にあり得ない。


 だから。


「何で、この交差点だったの?」


 確認する言葉は、それだけに留めた。


 十分だ。

 この場所は、向こうの世界でこそ私達には意味があるけれど、こちらでは何の変哲もない、ただの見通しの悪い住宅街の交差点。

 ここを選んだ理由が、多分全てだと思う。


私の問いに、中嶋君は数瞬黙り込んで……足元のヒマワリを見下ろした。


「自分がどっちにいるのか、確かめるにはここしかないと思ってさ」


 どうやらそのヒマワリは、中嶋君本人が持ってきたものらしい。


「あの部屋の鍵なんてもう持ってないし、紗希さんに会いに行くのも大事になりそうで……失踪してるらしいじゃん? ここでの俺って」

「らしい、って……」


 そんな他人事みたいに。

 呆れた視線を自分に向けた私に、けれど中嶋君は笑った。


「咲が選んでくれたんだよ。俺は咲に会いたいって思うだけで、ずっとあの場所から動けずにいた。咲がこの世界で、ずっと俺を探してくれたから……俺が、この世界でずっと生きてたっていう可能性が生まれたんだと思う」


 そして、その可能性を確定させた結果がこれだと――中嶋君はそう言った。


 世界を変えた、そういう事になるんだろうか。

 こちらの世界での中嶋君の失踪は、その整合性を取るための緩衝地帯だったという事だろうか。

 だとしたら、藤枝さんが酷い夢を見たのは私のせいという事になるし、それはちょっと申し訳なさすぎるので遠慮したい説ではあるけれど。


 それでも、嬉しいと思った。


 中嶋君の主観を思えば、厳しい事が続いたのは間違いない。

 藤枝さんを亡くし、私に気持ちを打ち明けてくれたその瞬間に、私達にとっての世界の中心だったあの場所を失い――もしかしたら命すら失ったかもしれなくて。


 彼はこちらの世界を憎んでいた。

 同時に、強く惹かれていた事も確かだ。

 そんな世界と――私という、こちらの世界との繋がりを永遠に断ち切られたあの朝から、今日で16日。

 それだけの時間を掛けて、ずっと独りで考え続けて――会いたいと、最終的にそう思ってくれたのだとしたら。


 もう一度、私に会いたいと、そう思ってくれた結果が、ここにいる彼なのだとしたら。


「私だけじゃ、無理だったと思うよ」


 私だけでここに辿り着けた訳じゃない。

 それは、彼があの夢で力をくれたから。

 そして、彼自身も、この世界を望んでくれたからに他ならない。


 あの夜――初めてキスをしたあの夜に、私達は笑いながら「これからの事」を話した。

 触れる事すら出来ない、お互いに体温も感じられない事が前提の、他愛もない話には違いないけれど、それでもあの夜交わした「これから」の話を諦めたくなかったのは、私だけじゃなくて彼もまたそうなのだと思う。


それが人を好きになるという事なのかもしれない――そう思うのは、私の自惚れなのだろうか。


 だとしたら、私はもっとちゃんと知っておかなくてはいけないし、私からもきちんと伝えなくてはいけない。

 お互いに足掻いて、塞いで、それでも辿り着いたこの16日間の気持ちを。


「まぁ、私に対する言い訳は後でじっくり聞いてあげる。でも――中嶋君はもう一人ごめんなさいしなくちゃいけない人がいるんじゃない?」


 そう言うと、やっと彼が申し訳なさそうな顔をした。


 彼にとっては、間違いなくこちらの方が問題だろう。

 藤枝さんに心配をかけて、悲しませたのは事実としても、説明する言葉は見つからないし、彼が彼女に何を伝えるべきなのかは、正直私ではわからない。


 それでも、私は知っている。

 何度となく自分の世界を殺され、完膚なきまでに叩き潰されても、必ず笑える日を取り戻せる――

 彼が、そんな強さを持った人なんだという事を、私だけは知っている。


「大丈夫、解ってる」


 中嶋君は笑ってそう言った。

 ――そんな彼だからこそ、私は自分の全て投げ打って、探し求めたのだから。


 だから、私もスマホを閉じて、彼を真似て笑う事にした。


「お帰り、格」


 その言葉を口にした瞬間、堪えていた涙が溢れ出して頬を伝い落ちる。

 今はそれでもいい。

 最終的に、顔を見合わせて笑い合うのが私達なのだから。


「ようこそ、私の世界へ!」


 * * *


 今日はこれから沢山話そう、さっき話した夏の行き先の件も含めて。

 そして、私達のこれからの事も、もう一度。


 何なら私は6度目の引越しをしてもいいと思っている。


 次の部屋は世界の果てじゃなくて、私達にとって胸を張って世界の中心と呼べる場所になるはずだ。


 思えば、左目の世界を含めて、この目で見た全てが、私を形作る「私の世界」だった。

 だから、左目の世界はきっと消えてしまったんじゃなくて――私がこれから見ていく全てとして、ひとつになったのだと思う。


 だから、私達はたくさん語ろう。

 私達のこれからの事を。


 これから見ていく全ては、君と一緒に。

 同じ世界で、同じものを見て、手を繋いで歩いて行くんだ。


 * * *


 静けさに気付いて傘を下ろし、空を見上げた。


 流れ過ぎた灰色の雲の向こうは、いつか見上げたそれよりもずっと、何倍も綺麗な――青。

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ボーダーガール 境界線上の2人 @vaniso

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