境界線の淵、世界の果て

 中嶋君の帰りを待つ、左右合わせても一人きりの部屋の中で、私は以前祖母が亡くなったという知らせに、慌てて実家に帰った時の事を思い出していた。


 あれは、昨年の冬の話。


 祖母は幼い頃から、孫の私をとても可愛がってくれた。

 私の母は彼女の長女で、家が近かったこともあり、祖母は何かにつけて私の家に来てはいろいろと世話を焼いてくれた。


 けれど、私の左目がおかしくなってからは、年に数度しか会わなくなった。

 私が自室に篭りがちになったという理由もあるけれど、祖母は丁度その頃から頻繁に体調を崩すようになっていたのだ。

 元々活発な女性だったけれど、そんな人ほど体の自由が利かなくなってから悪化するのはあっという間。

 思うように体が動かないという不満とストレスは確実に彼女を蝕み、会う度に、祖母は老いていった。


 そして、私が高校に上がる頃には認知症が進行し――最終的に、私は彼女にとって見知らぬ他人になってしまった。


 2年ぶりに見る祖母の体は随分と小さく、私がその死体を祖母だと認識するのには数秒を要した。


 生きている人と亡くなった人とは決定的な違いがあると思う。

 全く動くことのない死人の顔は良く出来た人形のよう。

 それを目の当たりにした瞬間、遺された人達は、目の前にあるのはもはや人ではなくモノに過ぎないのだと思い知らされる。

 その現実を受け入れるためには、私の祖母のケースのように、その人の生が死へと緩慢に推移していく様を見届ける時間というのが、実は結構重要だと思う。


 死んだ人は決して生き返らず。

 遺された人は、それを受け入れるしかない。


 元より他に選択肢が存在しないのならば、その残酷な現実を受け入れるに足る時間が必要なのだ。


 それでも。

 そんな感傷はお構いなしに訪れるのが、人の死というもの。


 大抵の場合、大切な人の死はある日突然訪れるものだ。

 あの日あの時、何の前触れもなく、藤枝さんが亡くなったように。


「キレイだったよ」


 藤枝さんのお通夜から戻ってきた中嶋君は、一言そう呟いた。

 その瞬間の彼は、きっと既に「藤枝さんの死を受け入れること」を受け入れていたのだろう。

 とは言え彼の傷は深く――翌日、火葬場へと向かうリムジンを見送ってきたと言って帰ってきた中嶋君は、その後の3日間、一歩たりとも外へ出ることがなかった。


 そんな彼の悲しみを思えば、私が「辛い」なんて言えやしないのは解っている。


 けれど、それからの私は私で、それなりに大変だった。

 出来るだけ彼を独りにしたくなくて、知り合いからの飲みの誘いも断ったし、サボってもセーフな授業は極力サボった。

 外せない授業がある日も、可能な限り急いで帰ってきた。


 とにかく独りきりになった彼が、変に思い詰めてしまうことだけが怖かったのだ。

 正直な所、彼のためと言うより自分のためだったのかもしれない。


 そして。

 日が進むにつれて、中嶋君は少しずつ立ち直っていった。

 夕方のバイトにも復帰して、葬儀から丁度一週間の今日からは大学にも行くようになった。

 藤枝さんと過ごしたことを思い出として、それを正視するのは辛いに違いないけれど、それでも彼は、ようやく彼らしく前向きに歩き始められたのだと思う。


 そんな中嶋君に、私は何が出来るのだろう?

 ――最近、私はそればかりを考えている。


 * * *


「――き、さーきー?」

「……え、ああ。ごめん」


 呼ばれて慌てて正面を見ると、テーブルの対面に座った茉莉が半眼で私を睨んでいた。


「いいけど。スプーンの上にカレー乗せたまま何分止まってんのよアンタ」

「あ」


 指摘されて口に運んだカレーライスは冷え切って何だか粉っぽかった。

 見ると、同じカレーライスを同時に食べ始めたはずの茉莉は既に完食しており、私の皿のそれは半分以上手付かずだ。

 苦笑いひとつ、私は昼食を再開する。

 ……ぬっる、全然美味しくない。


「悩み事ですか、城本せんせー」

「んー、そうかも」


 適当に答える。


 彼女はあまり他人事に深入りするタイプではなく、こんな事を聞いてくるのは実際珍しいと思う。

 だからと言って、真面目に答える理由は私にはない。

 これは彼女に理解を求められる類の話ではないのだ。


「オトコ関係?」


 思いもよらぬ追撃に、私は思わずスプーンを動かす手を止めると、上目で茉莉を見る。

 涼しげな顔で水を飲んでいる彼女は、プラスチックの湯飲みをテーブルに置くと、自分のふわふわの髪先を指先でくるくると弄び始めた。


「ここんとこ妙にそわそわしてたじゃん、咲」

「……そうかもね」


 そこまで解りやすかっただろうか、と自分の行動を振り返る。

 ああ、確かに――イヤに早く帰ったり授業をサボる回数が増えたり、何となく大学に彼が来てやしないか探してしまったり……思い返せば十分挙動不審だったわ。

 そんな自分の異常さを、誰かに指摘されないと気付けないなんて、重症もいい所だと思う。


 左右の世界の区別をしないのは部屋の中だけと決めているつもりだった。

 けれど、中嶋君が塞ぎ込んでいる間も、大学や道端で彼の姿を探してしまう。

 それは、私がいない間に彼が立ち直ってくれてはいないかという期待も勿論だけれど。

 どちらかと言えば、私が見ていない間に彼がいなくなってしまわないかという恐怖が大きな理由だった。


 そして、そんな自分に気付く度、苦笑してしまう。

 私の右目は現実しか見えなくて、そこに中嶋君の存在はない。

 だからこそ、彼がこの世界にいないということを私が忘れることもない。

 けれど、彼と一緒にいる時間が長くなるにつれて、私にとっての左右の世界の境界があやふやになっていくのもまた、事実だった。


 私にとって左の世界とは、崖っぷちから眺める景色のようなものだ。

 それをそうと認識出来るのは、自分の目の前に崖と谷があることを知っているからに他ならない。

 その明確な境界を見失ってしまえば、私はいつかこの世界から落っこちてしまう気がする。

 それは、考えるだに恐ろしい。


「まぁ、何に悩んでんのかは知らないけどさ」


 茉莉はテーブルに肘を突くと、バーのカウンターにでもいるかのように両手で湯飲みを挟み持って、にやりと笑った。


「どんどん悩んで、いい方向を見付けるといいよ。愛しの彼も、絶対咲の事は手放したくないはずだし」

「……はぁ?」

「いやさ、ずっと言おうと思ってたんだ。眼帯外した咲、可愛いよ?」


 こいつは何を言っているんだ。

 まぁ、最後の一言はともかく、茉莉の言葉は間違ってはいないと思う。


(どんどん悩め、か……)


 今の所、私がこの件に関して「悩み続ける」以外の選択肢を見出せないのは事実だ。

 茉莉には話せないし、中嶋君にだって打ち明けられない。


 でも――

 実際中嶋君は、私のことを、私の世界のことをどう思っているのだろう?


 * * *


 午後イチの授業が終わってから掲示板を覗くと、次の授業は教授が急病だとかで休講になっていた。

 こうなったら特に居残る理由もない。私は早々に大学を後にした。


 工場通りを抜けて、コンビニがある交差点に差し掛かる。

 夜の工場通り、雨の住宅街。

 そして早朝のコンビニと――あの交差点。


 アパートと大学を繋ぐこの道を通る度に思い出す二つの出来事は、毎度私を憂鬱にする。

 だから、気分が乗らない時は、敢えてその道を外れて県道側から帰ることも珍しくなかった。


 本当は、今日だって気が進まない。

 昼食の後も、茉莉との会話が尾を引いて、3コマ目の授業はずっと上の空だったのだ。

 それでも、敢えて私がこのルートを選んだのは、


「もしもし、中嶋君」


 彼があの交差点にいると、確信的に思ったからに他ならない。


 中嶋君は俯き、交差点に供えられた花束を見つめていた。

 私の声に気付いて顔を上げた彼は、頼りなさげな笑顔を私に向ける。


「それね、多分大学の友達だと思うけど……女の子がお供えしてたよ」

「そっか」


 私は先日、女の子が3人固まって、交差点角地の電柱に花束を供えているのを見たことを思い出した。

 あれは何日目の帰り道だっただろう?


「皆強いな。俺なんて、ここに来るのに1週間も掛かったのにさ」

「それでいいんだよ、中嶋君は。今まで近かった分……こういう時って、遠ざかっちゃうもんだと思うよ」


 我ながら気休めにもならない言葉だと思いながら、私は中嶋君の目を見ないで呟く。

 いつの間にか、中嶋君の視線は花束に戻っていた。


 当然ながら彼は通学用のバッグしか持っておらず、藤枝さんに手向けられるようなものはなさそうだ。

 私は俯く彼の顔を覗き込んだ。


「ねえ、ここを真っ直ぐ行ったら県道に出るよね」

「ん? そうだね」

「じゃあさ、今からあのケーキ屋さんに行こうか。バナナとキャラメルのババロアを買いに行こう」

「え……?」


 突然頭を叩かれたように目を見開いた中嶋君は、困惑したように視線を泳がせた。

 いきなりの提案に戸惑っていると言うよりは、私が口走った単語に思う所があるような、そんな表情。

 けれど、そんなことは百も承知だ。


「でね、中嶋君はここでソレ食べるの。そして感想を伝えなさい、藤枝さんに」

「……」

「聞いてたよ。確かに中嶋君、あの時『今度来てみます』って言ったでしょ? 約束、果たしなさいよね」


 そして、少しでも胸に詰まってるものを軽くして欲しい。

 そこまで言いやしないけれど、そんな願いを込めて、私は中嶋君の目を真っ直ぐに見据えた。


「……そうだね。確か近くに花屋もあった気がするし、行こうか」


 肩を竦めて笑って見せた中嶋君の顔が何だか泣きそうに見えて、私は笑い返しながら少しだけ目を伏せた。


 県道に出ると、花屋はすぐに見つかった。

 小ぢんまりとした店内を眺めて少し悩んだ後、中嶋君が選んだ花は向日葵だった。

 贈り物ですか? と笑顔で尋ねる店員に曖昧な笑みを返しながら、中嶋君は向日葵と鮮やかな緑の葉というシンプルな、けれど明るい花束が出来上がってゆくのをじっと見つめている。


 問題のバナナとキャラメルのババロアはこちらの世界でも取り扱っていた。

 味はどうだか知らないけれど、お店の名前が同じなのでそう大きく変わることもないと思う。


 それぞれの世界で自分用のケーキを買った私達は、やがて交差点に戻ってきた。


「もう向日葵なんて置いてあるんだね」

「俺もびっくりした。まだ6月の頭だし……まぁ、お陰で紗希さんに似合う花束が見繕えたと思う」


 プラスチック製の透明なスプーンを摘んだ中嶋君が花束を見下ろした。


 お互い様だけど、交差点でケーキを立ち食いする様というのは絵的にどうなのだろう。

 近頃の大学生なら仕方ないと笑って許してもらえるだろうか。


 ちなみに、バナナとキャラメルのババロアは確かに美味しかった。

 キャラメルのババロアの上には甘い焼きバナナが乗せられ、上を向いたバナナの断面は甘苦くキャラメリゼされている。

 プラスチックのスプーンで掬い、口に含むと、飴の苦味とバナナ、ババロアの甘味が舌に溶けていく。

 成る程、これは人に勧めたくなる味だ。


「……夢の中で怒られないかな、俺」

「いいじゃん。そん時は『美味しかったです、さすが紗希さん』って笑っときなさいよ」


 私が物真似を交えてそう言い放つと、中嶋君は情けない顔で笑った。


 空を仰ぐと、西に傾いた太陽が薄曇りの空を白く染めていた。


 もうすぐ梅雨。

 梅雨が明けなければ、夏の太陽は輝かない。


 そうだ、私達はほんの少し早く梅雨を迎えてしまっただけなんだ。


 このまま中嶋君が元気を取り戻して、次の季節を迎えて――

 その時私達はどうしているだろう?


 今この時は不安しかなくても、きっと私達だけのあの世界の果てで、2人して何となくダラダラと過ごしているのだろう。

 そんな希望的観測が、この瞬間、私にはたまらなく愛おしく思えた。


 * * *


 明け方からの雨は全く止む気配を見せず、その日の授業が終わった私が帰ろうという時間になっても、未だしつこく降り続いていた。


 雨の日は建物間の移動が本当に億劫だ。

 大学の地下が通路で繋がっていたらいいのにと毎回思う。

 特にこんな酷い雨の日は、傘を差していても気が付けば膝下がずぶ濡れになっていたりして不愉快と言ったらない。


 4コマ目の授業が終わり、雨宿りついでに立ち寄った学食は案の定と言うか何というか、同じような目的で集まったと思われる学生で賑わっていた。

 勿論これは私の主観による感想で、左右それぞれの世界で見れば大したことのない密度である。


 私は、その中に見知った顔を見付けて足早に近寄った。

 バッグからスマホを取り出し、耳に当てる。


「もしもし、中嶋君。何してんの?」


 私の声に気付いて顔を上げた中嶋君は、自分もスマホを取り出すと苦笑いを浮かべた。


「試験の範囲が発表されたって言うから写させてもらってるんだ」


 言われてテーブルの上に視線を移すと、広げられた教科書とルーズリーフが2枚。

 何ページ目の何という項目か、までがきっちり書かれた紙を見ると、どうやら出席さえしていたら割と楽に単位が取れる科目のようだけれど――


「授業、出なかったの?」

「たまたまだよ。今日はずっと部室にいたから」


 彼が言うには、昼休憩の時間にサークルの部会があったらしい。

 その時話題に上った話の続きをしていたら、結果的に3コマ目の授業をサボる羽目になったのだそうだ。


「文芸部から部誌の表紙デザインの依頼が来てるらしくて。それに手を出してみようかなと思ってさ」


 そう呟くと、彼は紙の上でペンを走らせる作業を中断して肩を竦めた。


「もっといろいろ描け、って言われちゃったからね。折角だから、目的があった方がいいかなって」

「凄いじゃない。いいなー」


 文芸部の部誌は、何度か学内の売店でも見たことがある。

 左の世界も同じような扱いなら、上手く行けば中嶋君が表紙を描いた本が売店に並ぶって事か。

 それは大役だし、純粋に凄いと思う。

 思わず声を弾ませた私に、中嶋君は「それでこの様じゃ仕方ないけどね」と苦笑して見せた。


「先に帰ってていいから」

「ん、そうする……雨も小降りになってきたみたいだから」


 左目を閉じて窓の外を眺める。

 一時地面が水飛沫で真っ白になる程強く降っていた雨も、今見ると水溜りを波紋でぐしゃぐしゃにする程度に弱まっていた。

 小雨と呼ぶには些か雨足は強いけれど、これなら私の小さな傘でも家に辿り着けそうだ。


 ちらりと中嶋君を見ると、彼の隣に、テーブルに引っ掛けられた傘の取っ手が見えた。


 今日は早朝から大降りだったので彼が傘を持ってくるのは当然なのだけれど、雨と中嶋君という組み合わせを思うとつい余計な心配をしてしまう。

 彼が帰る頃には雨が止んでるといいな――そんなことを考えながら、私は中嶋君に「また後で」と言い置いて学食を後にした。


 * * *


 さすがに雨の日は余計なものを見ながら帰るのは危険だ。

 私は正門から出た所で立ち止まり、傘を肩に引っ掛けると左目に眼帯を着ける。

 それだけで降り方が随分マシに見えるのは、単純に視界に入る雨の量が減るからだろう。

 実際傘に当たる雨の勢いは右目で見える程度なのだけれど、倍の激しさに見える雨の中を歩くのはちょっと嫌だ。


 時刻は既に夕方の5時を過ぎており、工場通りからいつものモーター音や、鉄板を加工する甲高い回転のこぎりのような音も聞こえてはこない。

 鼓膜を震わせるのは雨の音と、雨粒が傘を叩く音、そして水の膜が張ったアスファルトの上を歩く私の足音だけ。

 他の学生は皆県道側から駅に向かって帰るのだろうか、振り返っても誰かが後ろを歩いている姿は見えなかった。

 そして目の前に視線を戻すと、


「?」


 水色の傘がこちらに向かって、揺れながら近付いてくるのが見えた。


 服装からして女の子だと思う。

 背格好は私とそれほど変わらなく見えるので、恐らく学生だろうか。

 今から授業ということはないだろう。

 既に5コマ目の授業時間は半分以上過ぎてしまっているし、彼女の歩調に焦った様子は微塵も感じられない。。

 事務関係の窓口も5時で終わっているし、そうなるとサークル絡みかな――あれこれ考えているうちに、私の耳が傘の持ち主の足音を聞き取ることが出来る程にお互いが接近して……擦れ違う。


 その瞬間、傘の下の顔を垣間見て――私は思わず立ち止まった。


 彼女はと言えば、そんな私を全く気に留める様子もなく、歩幅もそのままに歩み去って行く。

 その後ろ姿に振り返った私は、


「……うそ……」


 茫然と、吐息だけで呟いていた。


 長い黒髪にこざっぱりとした白いシャツと膝丈パンツ。

 不快指数78の蒸し暑い雨空の下でも軽やかなその姿には見覚えがあった。


「藤枝さん……?」


 一体何故?

 彼女は亡くなったはずだ、この先の交差点で、私の目の前で車に撥ねられて――


 いや、ちょっと待って。

 彼女が亡くなったのは左の世界の出来事。

 それに、藤枝さんは実家生だと中嶋君が言っていたじゃないか。


 私は眼帯を外して、少しずつ遠ざかる彼女の後姿を睨んだ。


 駄目だ、今彼女に大学に行かれては困る。

 だって、そろそろ中嶋君が帰路についていてもおかしくない時間だ。

 彼が彼女の姿を見ることになったら、それは――


 私は踵を返して大学へ引き返した。

 藤枝さんに声を掛けるのは最後の手段だ。

 出来れば中嶋君が工場通りに入る前に彼を呼び止めて、県道経由で帰りたい。


 眼帯を外した視界は勢いを増した雨に遮られ、3メートル先はモザイクが掛かったかのようにはっきりとは見えない。

 やがて、遠ざかっていた藤枝さんの水色の傘がはっきりと見えてきた。

 彼女を追い越そうと真っ直ぐ前を向いて速度を上げようとした、その時。


「あ……」


 その奥で立ち尽くす、茫然とした顔の中嶋君の姿を視界の先に認めて。

 私は言葉を失い立ち止まった。


 思い浮かんだのは――赤い風船が夜空を漂う、あの絵に描かれた光景。


 藤枝さんは中嶋君を通り抜けて行く。

 しばし彼の向こうに透けて見えていた彼女の姿と水色の傘は、やがて立ち込める霧のような雨足に掻き消されるように色を失い、やがて見えなくなる。


 私達は何もなくなった空間を挟んで向かい合っていた。


 ――違う。

 この瞬間、中嶋君は私を見てはいない。


 やがて中嶋君の右目が私の姿を捉えた瞬間、苦いものを飲み下したような顔を背けた彼は、踵を返して足早に大学の方へと引き返して行った。

 私から――私がいるこの世界から、逃げ出すように。


 私は暫くその場から動くことが出来なかった。


 単純に、私は迷っていたのだ。

 彼の気持ちを汲んで、このまま帰って彼を待つか。

 それとも追い掛け、追い付いて彼を説き伏せるか。


「――中嶋君!」


 けれど、そんなことは考えるまでもない。


 視界は煙のような雨で霞み、灰色の空が世界から色彩を奪ってしまったのか、視界を流れる景色は酷く色褪せて見える。

 無機質な工場の壁は、私に否応なく息絶えた遊園地を思い起こさせた。


 あの瞬間彼が目の当たりにしたのは、彼の世界で失われてしまったものが私の世界で生き延びている光景。

 事実、ここは中嶋君が描いたあの遊園地と同じだ。

 いや、残酷さの度合いで言うならば、あの絵とは比較にならない。

 そんな光景を見せ付けられた中嶋君を放って置けるはずなんて、ない。


「中嶋君、待って!」


 スマホも持たず、叫ぶように呼び掛ける。

 やがて、私を追い越していったはずの水色の傘を右の視界に捉えた。

 擦れ違う瞬間、怪訝な顔で私を一瞥した藤枝さんの顔が右の視界に入ったけれど気にしない。

 そもそも、この世界の彼女は私達には無関係だ。


 脇目も振らず、私は走る。


 既に藤枝さんを追い越して、ずっと遠くにいる彼は足早ではあるけれど決して走っている訳じゃないのに。

 それなのに、どれだけ頑張って走っても、ヒールの高いサンダルと、一歩踏み出す度に跳ね上がる水飛沫に足を取られて全然前に進まない。


 目の前を歩く中嶋君になかなか追い付けない――彼の背中は遠のく一方だった。


「あ……」


 刹那、勢いよく地面を蹴ったつま先が砂利を踏みつけて滑ったのか――目の前の景色が急降下して、私は気が付くとアスファルトの上にうつ伏せに倒れていた。

 膝を擦り剥いたっぽい……雨水が染み込む冷たさとともに、じわじわと痛みが広がってゆく。


 次の瞬間、追い討ちとばかりに、大量に鉄パイプを積んだ4トントラックが、通り過ぎ様に水溜りの泥水を跳ね上げて行った。

 トラックを追いかけるように吹き抜けた風が、地面に落ちた私の傘を弄び、転がしてゆく。


 その場で倒れ伏した私は、もう上から下まで水浸しだ。

 あまりの情けなさに思わず笑い出しそうになったその時、


「大丈夫?」


 上から降ってきた声に、私は思わず顔を上げた。


 そこには。

 眉をひそめ、心配そうに私を見下ろす藤枝さんがいた。


「ごめん、タオルがあったらよかったんだけど……ハンカチでいいかな? あんまり役には立たないけど」

「……ありがとう、ございます……」


 両手を突いて体を起こす。

 差し出されたハンカチを受け取ると、藤枝さんはほっとしたように微笑んだ。


 どうやら話が通じる相手かどうかというレベルで警戒されていたらしい。

 突然叫んで走り出したかと思えば、派手にすっ転んで水浸しになっている自分を省みると、それも当然なのだけれど。


「何か大変なことがあったんだね」

「……はい、大事な人が、手の届かない所に行ってしまう気がして」


 何を言ってるんだ、私は。

 彼女にそんなことを言っても仕方がないのに。


「元々手なんて届きっこないんです。でも、決定的に離れてしまうと思ったら、すごく、怖くて……」


 雨足は明らかに強くなっていた。

 髪を伝って止め処なく落ちてくる水が頬を、鼻筋を伝って水溜りに落ちてゆく。

 ……この水の何割かが塩辛いだなんて、私だけが知っていればいい。


「……そっか」


 藤枝さんは微かな声で囁くと、ゆっくりと私から離れた。

 そして数秒後、体中に強く打ち付ける雨粒が突如止み――驚いて顔を上げた私の目の前には、先程飛ばされた私の傘を差しかける藤枝さんがいた。


「だったら急ぎな? 落ち着いたらでいいから、立って追っ掛けて……絶対、その人を見失ったらダメだよ」


 初めて見る、藤枝さんの真剣な表情に、私は思わず数瞬見惚れてしまう。

 ゆっくりと、言い聞かせるように……厳しくも優しいトーンで囁いた藤枝さんは、薄く笑ってぐい、と私に傘を握るよう促してきた。


「……あ……」


 そうだ、彼女はこういう人だ。

 キレイで、軽やかで、大きな目でじっと前を見つめている人。

 そんな人だからこそ、中嶋君は彼女のことを好きになったんだって。


 唐突に思い知らされた私の頬を伝い、誤魔化しようのない涙が零れ落ちる。


 ああ、どうして――

そんな貴女が、彼の前からいなくなってしまったんですか。


「よしっ、じゃああたしは行くよ。学内で会ったら、どーなったか教えてね!」


 私の手に傘を握らせると、彼女はくるりと水色の傘を回して踵を返す。

 確かな足取りで歩き去る彼女の先には中嶋君が立っていて――再び中嶋君を通り抜けると、やがて彼女の姿は雨に掻き消されるように見えなくなった。


 中嶋君の顔は止め処なく雨水が流れ落ちる傘の向こう、その表情は伺えない。


 私はずぶ濡れの重い体でゆっくりと立ち上がった。

 その瞬間、膝からは血の色の泥水が流れ落ちていく。

 ああ、結構酷く擦り剥いたみたいだ。

 傷口がひりひりする。

 けれど、そんなことに構ってはいられない。


 私は服と同じくずぶ濡れのバッグからスマホを取り出して、濡れた髪が貼り付く耳に当てた。


「何突っ立ってるの? 帰ろうよ」


 その科白に、中嶋君の身体が微かに揺れる。

 私はそれ以上は何も言わない。


 二度は言わない。

 そして、譲る気もない。


 やがて、中嶋君のスニーカーのつま先がじゃり、と砂を転がす音が聞こえて、私は道を空けるように工場の壁に寄った。

 中嶋君はそのまま無言で歩き出し、私に一瞥もくれることなく先へ先へと歩き出す。

 私は、そんな彼の後ろを3歩遅れて歩き始めた。

 歩く度に傷口が痛むけれど、それでも付かず離れず、間隔を維持したまま歩き続ける。


 コンビニの前を通り抜け、住宅街に入り――あの交差点を抜ける。

 通り過ぎ様に見下ろすと、中嶋君が手向けたヒマワリの花弁は縮れ、まるで壊れた歯車のように地面に抜け落ちていた。


 やがてアパートに辿り着き、私達はお互いに無言のまま部屋に入る。

 私はカーテンを閉めると、たっぷりと雨水と泥水を吸った服と下着を脱ぎ捨てて裸になり、新しい下着とTシャツ、ジャージを身に着けた。

 濡れた髪はタオルで水気を取った後、ドライヤーで軽く乾かす。

 最低限「見られる」格好になったことを確認すると、私はカーテンを開けた。


 部屋の中心で、中嶋君は立ったまま俯いていた。


「……すれば、いいんだ」


 絞り出したような掠れた声は咄嗟に聞き取ることが出来なかった。

 けれど、ゆっくりと顔を上げた中嶋君の泣きそうな顔を見て……私はとても聞き返すことなんて出来なかった。


「教えてくれ、どうすればそっちに行ける? なぁ……俺が死ねばいいのか?」

「え、ちょっ……!」


 聞いたことのない、低く荒れた声だった。

 まるでゼンマイが伸び切りかけたオモチャのようにぎこちない動きで私に詰め寄る中嶋君の声と、その泣きそうな顔に、どうしていいか解らないまま思わず後ずさる。

 刹那、中嶋君は崩れるように、フローリングの床に膝を突いた。


「何で、俺はそっちにいないんだろう」


 一瞬前の声が何かの間違いだったかのように、彼が嘆いた言葉は弱々しく震えていた。


「俺はこれから先も、自分がこっちで永遠に失くしてしまったものがそっちで生きている様を、見せ付けられるのかな……?」


 初めて中嶋君と出会った日の夜、彼は自分に見える世界を指して「可能性という壁で隔てられた並行世界」と言った。

 どちらかの世界で何らかの選択肢を違えた結果が、部屋の片隅に飾られたあの絵のような光景として目の前に現れるのだと。


「何かを決定的に間違えてしまったんだ。だから、きっとこの先も俺は大切なものを失い続ける――その度に俺の世界が死んでゆく。何で俺はそっちにいないんだろう……俺の世界が死んでゆく度に、そっちの世界は卑怯な程鮮やかに見えるって言うのに」


 嘆き続ける彼の独白に、私は彼が抱えた影を漸く知った気がした。

 それは同時に、藤枝さんが亡くなった日の朝、私が気付くことを拒否した「中嶋君の世界」というものの答えでもあった。


 彼は、私の世界を憎んでいる。

 自分が永遠に失ったものを未だ抱き続ける、こちらの世界を羨んでいる。

 そんなスクリーンの向こうの光景を憎み、羨みながら、彼はどうしようもなくこの世界に惹かれていたのだろう。


 けれど、それを詮無いことと、無駄なことと知るからこそ。

 彼は自分の世界に、自らの意識を縛り付けるために、絆となり得るものを求めた。

 そうやって自分の足場を固めてしまうことで、右目で変な世界が見えていようと関係ない、自分の世界はここしかないのだと常に自分に言い聞かせてきたのだろう。


 確かに中嶋君の見ている世界は、藤枝さんとも、私とも違う。

 私はこれまで左の世界には何の思い入れもなく、ただ邪魔だとしか感じていなかった。


 けれど中嶋君はそうじゃない。

 敢えて憎み、悪意を持って描かなければ、うっかり引っ張られてしまう程、彼はこちらの世界に惹かれてしまったのだ。


 そんな彼を自らの世界に繋ぎ留める楔として、藤枝さんは存在していた。

 狂った世界で生きる彼の描く世界を才能と呼んで認め、自分も彼の世界を見てみたいと語った、かけがえのない人。

 彼女の存在は、中嶋君に私の世界への執着を忘れさせる程、重要だったに違いない。


 そして、そんな彼女を失い、その上で私の世界で生き続けている彼女の姿を目の当たりにした瞬間に……彼の世界は、もう一度死んでしまったんだ。

 だからこれ以上自分の世界では生きていけないと、中嶋君は今こうして嘆いている。


「……こっちに来て、それでどうするって言うの」


 吐き出したのは、自分でも驚く程硬い声だった。

 中嶋君は項垂れたまま、微動だにしない。


「こっちの藤枝さんは、君と積み上げた思い出もなければ君とは出会ってもない、ただの他人なの……何度言ったら解るの? 君とこっちの世界は全く関係がないんだって」


 向こうの藤枝さんが中嶋君と出会って彼との思い出を重ねたように。

 こちらの藤枝さんも、同じ時間の分だけ、全く別の思い出を積み上げているはずだ。

 それはもう、同じ人間とは呼べない。


 中嶋君は勘違いをしている。

 そもそもこの世界の一切は、今ここで嘆いている彼の姿も見えなければ、その声も聞こえない。

 接点なんて持ち得るはずもない、それほど薄情なのだ。


 ――そう、この私以外は。


「それに何よ、『決定的に間違えてしまった』って?」


 言葉の勢いのまま、後ずさった分を埋めるように一歩、彼に詰め寄る。


「誰が? 中嶋君はまだ何も間違ってない。自分がやらかしたことの結末を見せ付けられた訳でもないのに、自分の世界を勝手に否定するな。何様のつもりなの」


 そう、あの日の中嶋君には何の落ち度もなかった。

 遊園地の件だってそうだ。

 確かに彼の世界が死んでしまったのは、それこそ何らかの可能性がもたらしたものが原因の結果なのかもしれない。


 けれどそんなものは当たり前。

何だってそうだ――何時だって、私達は物事の結果しか見ることが出来ない。


 起こってしまった結果がたまたま中嶋君にとって最悪で、更に追い打ちのように、彼が余計なものを見てしまっただけ――そんな言葉では片付けられないなんて百も承知。

 けれど、そんなことで中嶋君が生きていけなくなるだなんて。

 そんなの絶対に、許すことは出来ない。


「まだ中嶋君は何もしてない! 少なくとも私は、中嶋君のアクションでそっちの世界が変わる瞬間を見てない! 君が世界を変えるなら、私がその一部始終を見届ける……それが出来るのは、私だけだよ」


 私は怒っている。

 怒っているのに、泣いていた。

 だって、悔しいのだ。


「自分の立ってる世界を、君自身を見限らないでよ……私から、そっちの世界の意味を奪わないで」

「意味……?」

「そう」


 ここに引っ越してくるまで、何の意味も見出すことが出来なかった私の左目と左耳には、この瞬間にもたった1つの確かな意味が存在している。

 ただ漠然と見えて、何となく聞こえるだけだった世界には、今や確かな中心が存在しているんだ。

 それを否定されて、黙ってなんていられない。


「中嶋君の事だよ」


 私は屈み込み、跪いて項垂れたままの中嶋君と目の高さを揃える。


「君のことが好きだから、私はそっちの世界を受け入れられるの。君を好きになるまで、そっちの世界は単なるノイズでしかなかったんだよ」


 中嶋君が涙の跡を引いた顔を上げる。

 私は思わず笑って、彼の頭を抱き締めるように腕を回した。


 感触も温度も感じない。

 けれど、彼の息遣いを間近に感じる。

 それだけで十分だ。


「やっと、言えた」


 口を突いた言葉は独り言。

 きっとずっと前から知っていた、けれど認めるのを恐れていた事。


 ――私が、中嶋君を好きだという事。


 勿論こんなのは単なる我儘、私の気持ちの押し付けに過ぎない。

 そんなことは解っている。

 だからこの際、我儘は言い尽くしてしまおうと思った。


「こっちの世界で君の大切なものが失われたら、その時は指差して笑ってやるって言ったでしょ? それでいいよ。でも、その時は一緒に笑わせてほしい。逆に、そっちでまた君の大切なものがなくなっちゃったら、こないだみたいに一緒に泣かせてよ」


 目の前の彼の肩が、ふる、と震えた。


 私は続ける。

 一番言いたかった事を、彼に向かって言い放つ。


「私は、中嶋君と同じ世界を見ていたいの」


 眼帯を外して生活するような単なる真似事じゃなくて、彼と同じ気持ちで、一緒に生きていきたい。

 思えば、私はもうずっと前から、それを願っていた気がする。


「……もう、笑えないよ」


 体を起こし、私を見つめた中嶋君は、


「そりゃそうだ。笑えるかよ。そっちの世界で俺が一番大切なものは」


 腫れぼったい瞼を細めて、力の抜けた柔らかい微笑みを浮かべた。


「城本さんだもん」


 私の頬を挟むように手を伸ばした中嶋君の顔が近付く。

 触れられなくて逆によかったかもしれない――こんなに顔が熱くて、緊張のあまり震えてるのがバレるのは恥ずかしいにも程がある。


 ゆっくりと時間を掛けて。

 私達は触れないキスをした。


 彼の唇の感触を思って、舌の先で唇の裏をなぞる。

 その瞬間、喉が震えて背中が微かに反る。

 唇を開いていたら声が漏れていたに違いない。


 けれど中嶋君には聞こえていたのか、それとも触れないのをいいことに調子に乗っているのか。

 いつの間にか私は彼に抱きすくめられる格好になっていた。


中嶋君も緊張しているのか、左耳のすぐ傍で聞こえる彼の呼吸の間隔が短い。

 それが何だか恥ずかしくて、ますます私の顔が熱くなってゆく。


 やがて、体を前に倒す彼に押されるように、いつの間にか私はフローリングの上で仰向けになっていた。

 瞼を細めて悪戯っぽく笑った中嶋君の顔が近付き、左の頬に啄ばむようなキスをされる。


 私は彼の髪を撫でるように手を伸ばした。


「傍から見たらエアちゅーとかエア抱っこだって、解っててやってる……?」

「お互い様だろ。そういう城本さんだって、そんな顔で……」


 私の頬を撫でるように手を伸ばす中嶋君。

 感触のないそんな行為も、彼の指先が床を擦る音を左耳が聴き取った瞬間、現実の感覚と熱を帯びて、私の身体の何処かが勝手に反応する。

 単純な音でも、視覚と合わされば十分なリアリティ。


 触れられなくても関係ない。

 想像力か何かが勝手に補完する以上、彼の手つきは、私にとって十分愛撫と呼べるものだった。


 * * *


 今日は一緒に寝ようと言い出したのは、どちらからだったか。


 日付が変わる少し前。

 明かりが消えた部屋の中央、私達はお互いの布団を左右で重ねて、眠くなるまで話した。


 カーテンを外すのはまだ恥ずかしいだとか、2人で何処か行ってみたいだとか、話した内容は他愛もない事だらけだったけれど。

 穏やかな中嶋君の顔がすぐ目の前にあるという事、それだけでとても嬉しくて、私は何度も笑った。


 きっと目が覚めたら、何もかもがこっ恥ずかしくて、まともに彼の顔も見られない気がするけれど、そこはそれ。

 今日までとは違った意味を持つ左の世界は、明日からどんな景色を見せてくれるのだろう。


 中嶋君の寝息をすぐ傍で聴きながら、私は浮き上がるような沈み込むような、不思議な眠気に身を委ねた。


 * * *


 夢を見た。


 初めにひらひらと赤いカーテン。


 遠くから聞こえるのは犬の遠吠え。


 現実感のない光景は、まるでスクリーンの向こうの出来事のよう。


 見つめている間に、触れない世界は赤く赤く、熔け落ちて。


 やがて、揺れるカーテンは暗闇の中に消える。


 ざわざわと騒ぐ観客の声が耳に障るけれど、それすらスクリーンの向こうの音に過ぎない。


 フェードアウトしてゆく景色と一緒に、やがて世界からは音さえも消えてゆく。


 やがて、覚醒とともに目を開く。


 薄く開いた瞼に映ったのは見慣れた天井と。


 決してあるはずのない、雲一つない空の青だった。


 * * *


 天井の古びた木目と、綺麗な空色がちかちかと視界に眩しい。


 昨日までと全く違う朝の視界に、一瞬私は何も考えることが出来なかった。


 視線を右に向けると、そこにはいつもより遠ざかった部屋の壁。

 そして、微かに見える近隣の家の窓。


 どうしようもない違和感に、微睡むことも許されないまま目を見開いた。


「ねえ、中嶋君……」


 呼び掛けに応える声はない。

 まだ寝ているのだろうか、それとも、もう大学へ行ってしまったのか。


 顔を右に倒したまま左手を伸ばすけれど、その指先すら何かに当たることはない。


 そんな事は当然なのに。

 当然だと知っているはずなのに。

 胸の中に熱湯を流し込まれたような感覚を覚えて、呼吸が乱れる。


 体を起こすと、目の前には見慣れない民家の窓とベランダ。

 左の世界の壁は一体いつの間にシースルーになってしまったのかと思って、次の瞬間そんなことは有り得ないと馬鹿げた疑問を打ち消した。


 右目に手を当てる。

 私は幽霊のように宙に浮いていた。


 見下ろすと、そこには黒ずんだ水溜まりと、炭化した何かの残骸。


 それが向こうの木造アパートのなれの果てだと。

 そう気付いた瞬間、私の身体がどうしようもなく震え出した。


「ねえ、中嶋、君……ねえ……」


 呼び掛ける声は、声にならない。

 吐息のような微かな声に応える彼はやっぱり何処にもいなくて。


 胸の中に流し込まれた熱湯は、やがて涙になって溢れ出した。


 涙を流せば流すほど、だんだん胸が空洞になってゆく。

 換わりに充満してゆく喪失感は、笑いたくなるほどキレイな空の色をしていた。


 私はこの時、漸く悟ったのだった。


 私は既に、転げ落ちていたのだと――世界の果ての崖を、踏み外してしまっていたのだと。

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