境界という名の二等分線

 基本的に、私という人間は自室に篭りがちである。

 勿論、外は人が多くて嫌というのもあるんだけど、何より外に出るのにいちいち眼帯とイヤホンを装着するのが面倒なのだ。


 大学通学中、また授業中なんかは仕方ない。

 ただし、授業が終わってしまえば、仲間内の付き合いでもない限り直帰。

 そして朝まで部屋を出ない。

 自分にとって楽な生活――眼帯とイヤホン、耳栓から可能な限り解放されたライフスタイルを追求した結果がこれだ。

 この生活サイクルは、もはや習性と呼んでもいい。


 眼帯を着けるようになった頃から、私は好んで家から出なくなった。

 両親は交通事故がトラウマになっているのだというような事を言っていたけれど、実際のところそんな深刻な理由じゃない。

 とは言え、「ただ面倒なだけ」と片付けてしまうと語弊があるので、言い回しを変えよう。


 単純に、自衛手段を講じてまで外に出る理由がないのだ。


 私にとって外に出る事とは、つまり「見なくていいモノを敢えて見に行く行為」に他ならない。

 そんな無駄な事をする気にはとてもなれない。

 なので、


「ただいま――あれ、起きてたんだ」

「起きてたも何も、帰ってきてから一回も寝てないわよ。お帰り」


 中嶋君が突然夕方からのアルバイトを始めた日には、私は正直驚いてしまった。


 どうやら私は、彼の外界に対する認識が自分と同じだと勝手に思い込んでいたようだ。

 中嶋君が私のように使い物にならない方の目と耳の感覚を、眼帯だのイヤホンだので殺している姿を、私は一度も見た事がない。

 その理由自体は知っているけれど、それにしても私と同じ状態で働くなんて正直信じられない、というのが私の素直な感想だ。

 一体中嶋君と私は、何が違うのだろう。


「……その右目と右耳抱えて、よく平気で動けるよね、中嶋君って」

「慣れだよ、こういうのは。城本さんも就活前に一回働いてみたらいいのに」


 あんたはお母さんか。

 私はふい、と目を逸らすと、足元に置いていたミネラルウォーターのペットボトルを持ち上げた。


 私が彼にアルバイトを始めた理由を尋ねると、彼は「四六時中同じ部屋で男がウダウダしてたんじゃ落ち着かないでしょ?」と笑っていた。

 その時は別に気を遣ってくれなくてもいいよ、とつい反発してしまったけれど、実際彼がいない時間というのは、私にとって思った以上に貴重な時間だった。


 思えば、これまで私は、常に何処かで「誰かが突然引っ越してくるんじゃないか」という心配をしながら生活していた。

 けれど現状、既に左の世界のこの部屋には中嶋君が住んでいる。

 それも最初から。

 当初はどうしてくれようと思ったけれど、それこそ互いが互いに気を遣っている部分は多少あるとは言うものの、今となっては彼がいる事は決して苦ではない。

 逆に、向こうのこの部屋が彼の物であるという事実のお陰で、私はこれまでのような心配をしながら日々を送る必要がなくなったのだ。


 あの引っ越しの日から今日で11日目。

 こんな状況で、我ながらよく続いていると思う。

 もっとも、一緒に暮らしているのが中嶋君でなければ、私がここまで安定した毎日を送れたかは定かじゃない。


「先に風呂入るよ」

「うん。分かった――分かったからここで服を脱ぎ始めるなって何回言えば解ってくれるのかな!」


 後は彼の、良く言えばフリーダムな(悪く言えば雑な)一人暮らしマインドが抜けてくれさえすれば、より快適に暮らせるのだろうけれど。


 * * *


 流れ者生活を送ってきた私達の共通事項として、極端なまでに部屋の中に娯楽がないというのが挙げられる。

 引っ越しが多く、またいつ何時引っ越さなければならないようなタイミングが訪れるのかが判らない以上、家財として部屋に置いていいものは限られる。


 余計なものは極力削ぎ落として身軽でいる事。

 これが私達の生きる知恵だ。

 ……そう言うと何だかかっこいい気がしてきた。


 事実私の持ち物には本やCDのような、自制しなければどんどん増える類の物はないし、先日はつい誘惑されてしまったけどベッドやソファーなんかの大型家具もない。


 まぁそれでも、俗世を絶って何かしらストイックな思想に帰依した覚えもなければそんなつもりもないし、そもそも情報弱者に身をやつす事は女子大生として屈辱の極みである。

 そんな訳で、ほぼ唯一の娯楽として、寝る前にノートPCを開き、ネットでいろいろ見て回るのが私の習慣となっていた。


「……中嶋君」

「ん、何?」


 何じゃない。

 小テーブルの上、正面にノートPCを置いて頬杖を突きながら、私はイライラと指で天板を叩く。


「近い」

「そうは言っても画面が小さいから」


 私の抗議に返ってくる、背後から画面を覗き込んだままの彼の返事は、非常に上の空。

 私は思わず声のボリュームを上げた。


「ニュースくらい自分のスマホで見たらいいでしょ! それかバイト代で自分で買いなさい、ノーパソでもタブレットでも!」


 私の唯一の娯楽は、気付けばこの半透明の同居人に邪魔されるようになっていた。


「ニュースはどうでもいいんだけど、その後城本さんがYouTubeで見る動画の方が本題なんだって」

「私はそっちがどっちかっていうと見られたくないんだけど! 寝ろ! 今すぐ寝ろ!」


 別に男子が好むような、なんかいかがわしい動画を見る訳でもないのに、何でそこまで彼が食いつくのか、私にはちょっと解らない。


 私が見る動画は、基本的にMV。

 それもオルタナやHR/HM、ラウドロックなんかの激しめのやつ。

 元々、主に左側が原因となる外界の雑音を強制シャットアウトするのに、可能な限りやかましい音楽を追求していたところ、落としどころになったのがこの辺のジャンルだった。

 ……思えば色々聴いてはみたのだ、ハードスタイルやシュランツ、スピードコアなんかのハードテクノ系も含めて。

 ノリは嫌いじゃなかったけど、大音量で聴いてるとだんだん延々頭を金槌で叩かれてる気分になってきて、それ系については常に聴くものではないなと判断した。

 とは言え、女子大生として大っぴらに重金属崇拝者である事を公言出来る訳もなく、ひっそりこっそり、自宅だけで楽しんできたつもりだ。

 当然それをこの部屋でも、と思った所で、食いついてきたのが中嶋君である。


「DragonForce聴いてる女子とか初めて見た……」


 その時、声を掛けられる瞬間まで中嶋君の存在を忘れていた私は、うわあああみたいな奇声を上げてノートPCを閉じたのだった。


「解った。私カーテンの向こう行くから、中嶋君も安心して寝てください」

「えー」

「えーじゃないの。ていうか、中嶋君は中嶋君の娯楽を楽しんでたらいーじゃん? 別に私の画面だけが娯楽じゃないじゃん?」


 ノートPCを持って立ち上がった私を抗議的な目で見上げる中嶋君に文句がだだ漏れる。


 とは言うものの、中嶋君が個人的に何か娯楽に興じている姿を見た事がないのも事実だ。

 もしかしたら、彼は私以上に無趣味だったりするのだろうか。


 私がカーテンの向こうに行ってしまうと、諦めたのか彼が立ち上がって歩いて行く足音が聞こえた。

 数分後、何かが擦れるような微かな音が左耳をくすぐり出す。

 規則的なような、そうでもないような。

 断続的に聞こえるその音が気になって、私はカーテンを少し持ち上げて外を窺った。

 そして私の左目に映ったのは、自分の寝床になっているエリアの壁に寄りかかった中嶋君が、スケッチブックを広げて何かを描いている所だった。


 そう言えば、藤枝さんに絵を描けってせがまれていたんだっけ。


 何だろう、ちょっとモヤモヤする。

 あれだけ言って、自分でカーテンの奥に引っ込んでおきながら、いざ中嶋君の意識から外されてしまったのに気が付いたら――


(……馬鹿か私は。これが普通なんだっての)


 案外淋しい気分になるんだな、なんて思ってしまう自分に呆れる。

 どんだけ我儘だ、私は。

 どうやら、この奇妙な共同生活が、私の中で新たな当たり前になりつつあるらしい事を、悔しいけど……認めるしかないみたいだ。


 * * *


 朝起きて間仕切りのカーテンを少し開けると、中嶋君の姿が部屋の中にないのに気が付いた。

 ぼんやりと枕元のスマホを拾い上げ、小さなディスプレイを見ると今日は火曜日――成程、確か先週も必修の授業があるとかで、彼は朝早く出て行ったんだっけ。


 一方の私は昼からの授業なので実に余裕である。

 何ならもう一眠りする事も出来――


「……ないわね」


 もう一度スマホを睨んだ。


 現在時刻は10時半。

 午後の授業が13時15分開始なので、今からシャワーを浴びて、支度をしてから出発したら大学に着くのは大体12時。

 学食で軽く昼食を摂って何とか間に合う時間である。

 むしろ、今から余裕こいて二度寝なんてしようものなら遅刻は確実だった。

 そして、そうと理解するとかえって布団が恋しくなるのは何故でしょう。


「ふわわ……」


 欠伸ひとつ、立ち上がって布団を畳む。

 窓から望む空には重そうな灰色の雲が敷き詰まって、その光景がまた気だるさを助長して何とも憂鬱。


 もうホント、このまま二度寝してしまいたい。


 嫌々気合いを入れて着替えを引っ掴み、シャワーを浴びる。

 いっそ冷水か43度以上の熱湯を浴びたら目も覚めるだろうけれど、風邪を引いたり肌が真っ赤になるのもよろしくない。

 そんな訳でいつもと同じ、40度のお湯を頭から被る。


 髪を洗う最中、シャンプーの甘い匂いが漂う中、泡を流すために目を閉じていると、危うくそのまま寝てしまいそうになった。

 しっかりしろ咲、ここで溺れても中嶋君は見付けてくれるだろうけれど、彼じゃ救急車も警察も呼べないぞ。

 ホントにあの半透明の住人は、いざと言う時全く頼りにならないんだから――


 髪を乾かした後、急ぎ気味で顔と眉と目を作る。

 こんなもんかと思って時計を見ると既に11時50分……ゆっくりしすぎた。

そろそろ出ないと授業には間に合っても昼食抜きは確実。


 トートバッグを掴んで立ち上がり、後ろ手でカーテンを閉める。

 靴箱もない玄関の壁に立て掛けた傘を手にアパートの通路へ出ると、少し湿った生暖かい風が鼻先を撫でていった。


 ……はて、ドアを閉める直前、玄関にもう一本安っぽいビニール傘が見えたのは気のせいだろうか?


 * * *


 結局私が大学に辿り着いたのは、当初の予定より遅れに遅れて12時20分。

 ゆっくりは出来なくても、昼食を掻き込むだけなら何とかなる時間だ。


 その食事もかけうどんで簡単に済ませてしまったので、教室棟の掲示板の前には思ったよりも早く着く事が出来た。


「もしもーし」


 お友達へ休講の連絡でもしようというのか、大きな声で電話をする声。

 そんなにでかい声で喋らなくても、相手には聞こえてると思うんだけど――

 あれ、でも今の声は知ってる気がする?


「もしもし、城本さん?」


 そうこうしていると、とうとう名指しで呼ばれてしまった。


 慌てて左目の眼帯を外すと、目の前にはスマホを耳に当ててエア通話真っ最中の中嶋君が立っている。

 私と目が合ったのを確認すると、彼はくるりと掲示板へと向き直った。

 私も彼に倣ってスマホを取り出し、掲示板に一歩近付く。

 お互いの目には隣同士に見える立ち位置だ。


「学内でかち合うのは初めてだね」

「そういや同じ大学なんだっけ、世界が違うだけで」


 出会って最初の夜、お互いの身辺について話し合った時、中嶋君と私は同じ大学に通っている同い年だと知った。

 まあ、そうでもなければわざわざあのアパートを選ぶ事はないと思ってはいたけれど。


 そもそもあの立地にメリットを覚えるのはここの学生くらいだ。

 何せ大学と駅が両方徒歩圏内。

 昭和の匂いを感じさせる木造2階建てという外観、地価が安い土地にあって敢えて6畳1Rという狭小っぷりを抜きで語れば、私達のような流れ者にとって放っておく手はない物件だ。


「城本さんはこれから授業?」

「うん、午後の2コマが終わったらすぐに帰るけど……中嶋君、バイトは?」

「今日はないよ。でも、ひょっとしたらサークルで遅くなるかも」

「ふーん」


 サークル、という彼の一言で思い出すのは、例の「藤枝さん」の顔だった。

 ……そっか。

 そりゃ彼だって、私なんかより好きな人と一緒の時間を過ごしたいに決まってる。


 一方、私は家に帰ってもする事なんて特にない。

 何となく、アルバイトやサークル活動に明け暮れる中嶋君のリア充っぷりが羨ましく思えた。


 私と彼は何が違うんだろう――既にお決まりになった疑問に気を取られ、彼との会話が途切れる。

 左の視界に映る中嶋君が首を傾げてこちらを窺うのが見えた。

 その瞬間、


「あーいたいた、咲ー?」


 突如、聞き慣れた声で呼び掛けられた。

 スマホを耳に当てたまま振り返ると、左右の世界を縦横無尽に行き交う学生達の姿の中、辛うじて右の視界に茉莉の姿を捉える事が出来た。

 そして、次の瞬間、


「格君、ここにいたんだ?」


 その声に振り返った中嶋君の視線の先、藤枝さんがにぱっと笑って手を振っていた。


「それじゃ、またね」


 彼に笑顔を見せて踵を返す。

 うん、私が彼の邪魔をする訳にはいかない。


 それにこちらもタイムリミットだ。

 私はスマホケースをぱたん、と閉じて、茉莉に手を振って見せた。


「あれ、咲……眼帯は?」

「あー……うん。ちょっと外してみたんだ。ある人の真似がしてみたくなってさ」

「ふーん? 大丈夫ならいいんだけど」


 不思議そうに首を傾げた茉莉のツリ目に不敵なスマイルひとつ、ちょっとだけ後ろを振り返ってみる。

 左目の視線の先、2人並んで掲示板を眺める中嶋君と藤枝さんの姿が見えた。


 中島君と話すためだけに一旦外しただけのつもりだったけれど、それも悪くはないかなと思う。


(私も眼帯を外せば……)


 その行為に意味があろうとなかろうと、彼の姿と姿勢を知った上でなら、気が済むまで試してみる価値はあると思った。

 私と彼は見えている世界が同じなのだから、これできっと条件は一緒だ。

 これで私も解るかもしれない――あんなに楽しそうな顔で、自分の世界を生きていられる中嶋君の気持ちが。


 * * *


「ん……ぅ」


 体に妙な痛みを覚えて目を開ける。

 ぼんやりとした視界は薄暗いというよりも真っ暗に近く、不審に思った私は顔を上げて辺りを見回した。


 4コマ目の授業中はほとんど寝ていた気がする。

 授業が終わって茉莉と別れた後も眠気は消えず、家に帰る前に何処かで一眠りしたい欲求に駆られて図書館にやってきた。

 それから真っ直ぐいつもの席に着いて、テーブルの上に突っ伏した所までは覚えているけれど――

 はっきりしない頭でスマホケースを開き、そこに表示された時間を見て、


「って、7時半!?」


 私は思わず大声を上げてしまった。


 慌ててバッグを引っ掴み、既に無人のレファレンスカウンター前を駆け抜けてエレベーターへ向かう。

 この図書館が閉まるのが丁度19時半。

 ひょっとすると、正面入り口はもう閉まっているかもしれない。


 しくじった。

 人が来ない所を選んで寝入ったのは私のミスだけれど、まさか司書のおっさんにも存在を気付かれないなんて。


 幸い、3階の貸出カウンターにはまだ人が立っていた。

 無人のはずの階上から下りてきた私の姿に驚くカウンター内のお姉さんに会釈ひとつ、イベントホールを横切って、既に日が落ちた屋外へと飛び出す。


 通学バスの運行が終わった正門前は人影もまばらで、唯一軽音サークルの練習の音が微かに聞こえてくる程度。

 しんと静まり返った、覚えのない空気に、新鮮さよりも不気味さを強く感じる。


 そう言えば私、こんな時間まで大学にいた事がないんだ。


 とにかく早く家に帰らなければ。

 中嶋君にはすぐに帰ると言ったのに――


 心配を掛ける掛けないとかじゃない。

 胸の中で膨れ上がってくるのは、単純に約束を破った時のような自己嫌悪だ。


 私は正門を抜けると、人気の絶えた工場地帯を縦断する道路へと足を踏み入れた。


 住宅街の近くに並ぶ工場は、当然だけれど17時頃には機械を止めて終業となる。

 事務仕事で残っている人が多少いるかもしれないけれど、この時間ともなればどの工場も多分無人だろう。


 微かに錆びた鉄とオイルの匂いが漂う道路脇。

 立ち並ぶ工場は宵闇に落ちて暗黒の谷を作り出し、まばらな街灯だけでは周囲の不気味さを払拭するには全く足りていない。


 気が付くと、いつの間にか私は早足になっていた。


 そして次の瞬間。

 私の耳は、背後からの足音を聞き付けていた。


「……っ」


 それは私の足音よりも早いペースでリズムを刻み、少しずつ、少しずつこちらへ近寄ってくる。

 ああ、そう言えば掲示板に「夜の一人歩きには注意しましょう」って注意文が貼り出してあったっけ――


 足音がすぐ後ろまで迫った瞬間、私は思わず悲鳴を上げていた。


「いやあ……!!」

「落ち着いて、ケータイ出して城本さん!」

「えっ?」


 涙で滲んだ視界を左に向けると、スマホを耳に当てた中嶋君がじっと私を見ていた。


 まさか。

 今の足音は君だったの?


「ああもう、早くケータイ出せって! 後ろ、ライト消した車がずっと後付けて来てんだから……!」

「!?」


 苛立ちも露わなその声、そして言葉に、私は慌てて手首に傘を引っかけると、バッグから取り出したスマホを耳に当てた。

 一方、隣を歩く中嶋君は左目を閉じて背後をじっと注視している。


「大丈夫、まだ10メートルは距離がある。出来るだけ大きな声で話しながら歩こう」

「う、うん」


 怖くて振り返る事が出来ない私の代わりに怪しい車を睨みながら、半ば後ろ歩きのような状態の中嶋君が囁いた。


「……いやー、授業が終わった後図書館で寝ちゃってさ、気付いたらこの時間だったんだよねあっはっは!」

「はあ……羨ましい事で。俺より何時間多く寝てるんだか」

「仕方ないでしょ? それに、起きられただけ奇蹟よ。もうちょっとで図書館に閉じ込められる所だったんだから!」


 ヤケになって大声で喋る内容はとても威張って言えたものじゃなかったけれど、遅くなった言い訳をさっさと済ませてしまいたかったのだから仕方がない。

 溜息ひとつ、呆れたような顔で私を一瞥すると、中嶋君は瞼を細めて左右に視線を巡らせた。

 その顔は険しく、依然危険な状況が続いている事を否応なく気付かされる。


 不安に駆られて伸ばした左手が、虚しく空を切った。

 私はそれに気付いて――持て余した左手で胸元を押さえる。


 今、私……中嶋君の手を握ろうとしなかった?


「城本さん、俺の合図で走って。目標は……あそこだ」


 正面を見ると、50メートルほど先にコンビニの看板が見える。

 工場地帯と住宅地の間にあるお馴染みのコンビニだ。


 視線の先に見える歩行者用信号は青。

 あの交差点はこの道と交わる方が優先道路なので、間もなく目の前の青い光は点滅し、赤へと変わるだろう。

 1、2、3……7カウントで、青い光が点滅を始める。


「走れ!」

「えっ、あ……!」


 その瞬間、中嶋君が短く叫んだ。

 その声に弾かれ、前につんのめりながらも私は必死で地面を蹴った。


 横断歩道に差し掛かった瞬間、歩行者用信号が赤に変わる。

 まだだ、まだ走れ!

 そのまま横断歩道を駆け抜けた私がコンビニの駐車場に駆け込んだ時には、頭上の車両用信号機も色を変え、工場通りを横切って逆側の車が流れ始めた。


「はあ、はあ……は……」


 傘の柄を握り締める手が震える。

 繰り返す荒い呼吸も何だか震えていた。


 助かった……のだろうか?


 やがて信号が変わったのか、八つ当たりじみたハイビーム走行で、黒いワゴン車がコンビニの脇を走り抜けてゆく。

 それを見送った中嶋君は肩を竦めると、安堵したように大きく息を吐き出した。


「あー……もう、びっくりした」


 その気の抜けた、もうすっかり聞き慣れてしまった彼の声を聞いた瞬間、涙の気配に鼻の奥がつん、と痛む。


「ツレと学食で飯食って帰ろうとしたら、城本さんが1人で工場通りに入って行くんだもん。そっちの掲示板を見ておいて正解だったよ」

「ごめん、なさい……」


 申し訳なさで中嶋君の顔が見られない。

 昼間「いざと言う時全く頼りにならない」なんて思ってしまった事。

 そして、彼に心配を掛けてしまった事。

 全てが申し訳なくて、そんな自分が情けなくて――


「ありがとう……中嶋君のお陰で、助かった」

「ん、無事で何よりです」


 けれど、怒って当然なこの場で、彼の声は軽やかだった。

 それが温かくて、けれど怒られるよりも何だか堪えて――俯いたまま、私は喉の奥から込み上げる嗚咽を止められない。


 コンビニから先、アパートまでは、ひたすら住宅が並ぶ中を歩く事になる。

 この辺りなら民家の明かりもあるし、街灯の数が増える事もあって、工場通りと比べると断然明るい。


 何とか落ち着いた私と、そんな私を待っていてくれた中嶋君が並んでコンビニの駐車場を出た瞬間、


「あ、雨……」


 ぽつぽつと水滴が頭を濡らし始め、私は慌てて傘を開いた。

 部屋を出る時咄嗟に傘を手に取った自分を褒めてあげたい。


(……あれ?)


 そう言えば、玄関にもう一本見覚えのない傘があったような気がする。

 私の傘じゃないとしたら、あれは中嶋君の――


「ごめん、気休めでいいから傘に入れてくれない?」

「わ、っ」


 そう言うと、中嶋君は突然私に肩を寄せてきた。

 いきなりの事に驚いた私だったけれど、全く意味がないと理解しながらも、傘の左半分を彼に譲る。


 そして、全く見当違いだと理解しながらも。

 心臓の鼓動が速くなるのを抑えられない。


 私のペースに合わせて歩く中嶋君の髪や肩がじっとりと濡れていく様を横目で眺めながら、何も言う事が思い付かないまま無言で歩く事、およそ2分。


「……中嶋君てさ」

「ん?」


 沈黙に耐え兼ねて会話の口火を切った私に、中嶋君が視線を流す。

 私は彼の顔を見ないまま、先を続けた。


「何で私を気にしてくれるの?」

「……」


 彼からの返事はない。

 私は俯いたまま、まくし立てるように更に続けた。


「私なんて、そもそも君の世界には全く関係ない人間なんだよ? 私達が話してる今だって、端から見たらただの独り言なんだよ? 私も君も、一緒にいても本当は1人なんだよ……今も、これから先も、ずっと」


自分が吐き出した言葉が自分にそのまま突き刺さる事なんて、承知の上だ。


「……だってさ」


 雨は激しさを増していく。

 髪から水滴を垂らしながら、中嶋君は可笑しそうに笑った。


「やっと自分と同じ、世界のボーダーラインの上で生きてる人と会えたんだ。だから大事にしたいって思ってるんだけど……変かな?」


 その言葉に、私は思わず目を見開いた。


 実の親にさえ理解してもらえないであろう、狂った左目と左耳。

 そして、それを当たり前と思ってしまう狂った頭。

 そんな世界で生きる自分自身を正常だと思った事なんて、ただの一度もない。

 世界からズレた異端者である自分を理解出来る人間なんていないと思うからこそ、深く付き合う友人も作らず、恋にも目を背けて、これまで独りきりで生きてきたのだ。


 もし私の事を理解してくれる人がいるとしたら、それはきっと私と同じように狂った世界に生きる人に違いない。

 例えば、私の隣でずぶ濡れになってへらへら笑っている彼のように。


(そっか、彼が……)


 思わず立ち止まる。

 そんな私の気配を感じられない中嶋君は、そのまま歩いてゆく。


 そして、彼が信号のない交差点に足を踏み入れた瞬間、右から交差点に差し込むヘッドライトが見えて――


「危ない!!」


 私は思わず叫んでいた。


「えっ?」


 目を見開いた中嶋君が振り返る。

 そんな彼を通り抜けて、猛スピードで白い車が交差点を走り抜けてゆく……どうやら、今のはこっちの世界の車だったらしい。

 それを理解してなお、胸の奥で痛いくらいに跳ね続ける鼓動が収まらない。


 私はその場に膝を突くと、水溜まりの地面にぺたんと座り込んでしまった。

 ジーンズの生地を越えて、下着までじわじわと冷たく濡れていく。

 けれど、立ち上がろうという気持ちさえ起らない。


 今、私はとても怖かった。

 今も、これから先もずっと関係ないと。

 そう自分で言い切った彼が死んでしまう事を――私は心の底から恐れた。


 だって、私は彼の言葉で気付いてしまったんだ。

 中嶋格という存在が、私にとってどんな意味を持つのかという事を。


「大事にしたいって思ってるんだけど……変かな?」


 ううん、全然変じゃない。

 私も凄くそう思うよ、中嶋君。


 * * *


 耳障りなアラームの音で目を開ける。


 掴み寄せたスマホのディスプレイに表示された時刻は8時。

 今日は2コマ目から授業があるので、もっと寝ていたい欲望を叩き伏せて、そろそろ朝の支度をしなければいけない。


 体を起こし、這い寄ったカラーボックスから着替えを引っ張り出す。

 私はボサボサの髪を手櫛で落ち着かせて、間仕切りカーテンを少し開けた。


 真っ先に、部屋の奥を見つめる。

 逆側の壁添いに敷かれた布団で、中嶋君はまだ眠っているようだ。


 ――あの後。

 部屋に帰り着いて、濡れた服を脱いでシャワーを浴びてからパジャマに着替えて。

 少し遅めの夕食を食べた後も――それこそ眠るまで、私は今まで感じた事のない感覚に浮かされたような心地だった。

 左目の視界に中嶋君がいる、それをずっと確認していたような気がする。


「疲れただろうし、今日はもう寝ちゃいなよ」


 そう促されて、カーテンの向こうの布団に入っても、完全にカーテンを締め切ってしまうのが怖かった。

 いよいよ意識が朦朧としてきて目を開けていられなくなった頃、中嶋君からもうカーテンを締めるように言われて、その言葉に素直に従ったのを微かに憶えている。


「上がったの、かな。雨」


 ベランダに歩み寄り、外を窺う。

 昨夜は一晩中雨が降っていたようだけれど、今窓から見る限りでは、傘を差して歩いている人の姿はない。

 それでも空の色は依然灰色……今日も、念のために傘を持って出た方が無難かもしれない。

 私は肩を竦めると風呂場に入り、もそもそと着ているものを脱いでカーテンを閉めた。


 住人が寝ているのだから当然とは言え、片目の視界が薄暗いのは何とも落ち着かない。

 これまではそんな光景――左目に映る同じ部屋に生活感の欠片もない光景こそが落ち着くと思っていたのに。

 身勝手な心境の変化に、思わず浮かんだ自嘲で口許が歪んだ。


 そうは言うものの、今左右ともに明かりが点いていたとしたら、それはそれで大問題だ。

 風呂、トイレに明かりが点いている時はお互い進入禁止、というのが、中嶋君と私の取り決めたルールなのだから。


 体を拭いて下着を着ける。

 今晩あたりコインランドリーに行かなきゃなー、と思いつつ、ジーンズを掴もうと手を伸ばした私は、そこにあるべきジーンズがない事に気付いて思わず溜め息。


「うわ、置いてきちゃった……」


 まだ抜けてるぞ、しっかりしろ咲。


 とりあえずキャミソールの上に裾の長いシャツを羽織って戸を開ける。

 そろそろと部屋の中に足を踏み入れてカーテンに手を伸ばし――


「んー……?」


 刹那、薄く目を開けた中嶋君と目が合って、私は思わず固まってしまった。


「……城本さん、風邪薬か解熱鎮痛剤、持ってない?」

「持ってるけど……私が持っててもしょうがないでしょ」


 寝惚けているのだろうか、普段の彼なら有り得ない左右混同っぷりだ。

 苦笑ひとつ、私はささっとカーテンの中に引っ込むと、顔だけを外に出して中嶋君を見つめた。


「体調、悪いんだ?」


 昨晩の事を思い出す。

 下半身ずぶ濡れとは言え一応傘を差していた私と違い、中嶋君はずっと濡れっ放しだった。

 それでも私を気遣って、私が眠るまで付き合ってくれたのだ。

 そもそも、元はと言えば彼があんな長時間雨に打たれ続けたのは私のせいであって――


(いざと言う時役に立たないのって、むしろ私の方よね……)


 苦しそうな中嶋君に何もしてあげられない事が悔しい。


 私はジーンズを履くと、ぼんやりと天井を見つめる彼の枕元に座った。


「誰かに薬持ってきてもらうってのは?」

「誰もこのアパートの場所知らないんだよね……ん?」


 諦めたように力ない笑みを浮かべた中嶋君は、次の瞬間何かに気付いたように、充電器が刺さったままの枕元のスマホを手に取った。

 いつもの半分ほどの速度でメールを打った彼が気だるげにスマホを元の位置に戻すと、程なく着信を告げる電子音のメロディが流れる。

 その何処かで聴いた覚えのある旋律は、初めてこの部屋で迎えた夜にも一度耳にしたもので――


「すいません紗希さん、こんな朝早くから……え、今からですか?」


 少しだけ明るく聞こえる中嶋君の声を聴きながら、私は無言で立ち上がるとカーテンの向こうへと向かった。

 布団を畳み、積み上がった安っぽい綿の感触に背中を預ける。

 ドライヤーを手に取ると、俯いて垂らした髪に熱風を当てた。

 モーターと風の音でカーテンの外の声は掻き消され、中嶋君が「彼女」と何を話しているのかは耳に届かない。


 暫くしてドライヤーを止める。

 少しパサつく髪を掻き上げて耳を澄ますと、通話は既に終わってしまったのか部屋の中は無音だった。


「藤枝さん?」


 カーテン越しに無造作な問いを投げ掛ける。

 すぐに中嶋君の「んー」という曖昧な返事が聞こえた。


「学校行く途中に薬届けて欲しいってメールしたんだけどさ。病院に連れてってくれるって」

「ふぅん」


 自分でも驚くほど冷やかな私の反応に、彼が更に言葉を続ける気配はない。

 少しだけカーテンを開けて向こうを窺うと、顔色の悪い中嶋君がのそのそと布団を畳んでいた。


「敷いたままにしとけばいいのに。授業休むかもしれないんだから」

「人来るのにそんな訳にもいかないだろ」


 ……良く言うわ、そんな真っ白な顔をして。

 私の呆れ顔に気付いたのか、中嶋君はこちらに愛想笑いを浮かべて見せた……んだと思うのだけれど、私にはそれがどう見ても苦笑いにしか見えなかった。


 やがて着替えを掴んだ中嶋君がバスルームに入ってゆく。

 残された私は寝床のカーテンを開けると、その脇――この6畳間の真ん中に腰を降ろして頬杖を突いた。


 共有スペースとして敢えて置き場所を重ねたこの丸テーブル以外は、左右の視界で家具や本なんかが重ならないように置かれている。

片方の視界だけで見ると双方実に滑稽だ。


 私はカラーボックスの抽斗から新しい眼帯を引っ張り出すと、それを左目ではなく右目に着けた。

 それで私の部屋の光景は消え失せ、目の前には触れない世界――中嶋君の部屋しか見えなくなる。


 私は冷蔵庫の上、壁に立て掛けられた例の絵を見つめた。


 灰色の世界の中、色褪せずに回り続ける回転木馬。

 中嶋君の世界で永遠に失われた彼の宝物。

 それが、触れない別世界に未だ存在すると知った時、彼はどう思っただろう?


 思い出なんて砂のお城のようなものだ。

 灰色の景色は時間という名の風に削られ、少しずつ元の面影をなくしてゆく。

 それが悲しいから、人は写真や映像を撮って、思い出を記録しようとする。


 けれど、大切なものが既に失われていた場合――それが大切だと気付いた時には、既にそれが自分の思い出の中にしか存在しないと知ってしまった時。

 どうすれば、人はその思い出を風化させず、自分の世界に留めておけるのだろうか。


 中嶋君はその答えとして、思い出の景色を絵画として描き出した。

 それがこの遊園地の絵。


 けれど、その実この絵は、純粋な思い出の景色なんて呼べるものじゃない。

 彼が捻くれているのは、単純に思い出の中の風景を描くのではなく、目の前にある廃墟の中に別世界の虚像を敢えて描き込んだ所だ。


 これは確かに彼の思い出に他ならない。

 けれど、実際この絵にはもっと多くの複雑な感情が込められていると思う。

 それはきっと自分の世界への諦めと、私の世界への憤り……そして憧れ。

 どちらの世界の物ともつかない夜空を漂う風船は、きっと彼の心象そのものなのだろう。


 きっとこの人は、見えてるものが自分とは違う――それは藤枝さんが中嶋君を評して言った言葉。

 最初は左右の視界の事が頭に浮かんだけれど、確かに中嶋君は彼独自の視点で世界を見ているとこの頃思う。

 私と同じ世界を見ながら、それでいて私とも違う景色を見ているような気がする。

 そのヒントが、この絵に隠されているような――


「……あーもう、やめやめ」


 不意に胸騒ぎを覚え、私は眼帯を外した。


 無理に答えを急ぐ事なんてない。

 何のために昨日から裸眼で生活してみようなんて考えたか思い出せ、私。

 こんな一枚の絵からプロファイリングの真似ごとをするんじゃなくて、日々の生活の中で彼と同じ物を見る事で、彼の事を理解したいと思ったんじゃないか。


 今や、私は中嶋君の存在を大切に感じているし、彼が暮らす左の世界そのものまで肯定しつつあった。


「……あれ?」


 そんな自分の気持ちに違和感を覚えた。


 左右の世界が混ざり合ったこの部屋にいると、不意に自分の立ち位置が曖昧になる事がある。

 私は間違いなく右の世界にいて、普通の人には左の世界なんて見えやしない事も知っているのに、中嶋君の向こうに透けて見える私の部屋の家具やカーテンを、時折どうしようもなく邪魔に感じてしまう事があるのだ。

 それは間違いなく、私の目の前に現実としてある景色で、カーテンに至っては自分が望んで取り付けたものだというのに。


 ここで暮らし始めた当初は全く逆だった。

 左の世界なんて自分にとってはノイズでしかなく、自分の部屋までもがそのノイズに塗れてしまうのが腹立たしかった。

 それが何時からか、私は中嶋君の存在を認め、彼の存在を当たり前として受け入れ――そして、彼を失う事を恐れているだなんて。


「はっは……あー、重症かも」


 ダメだこりゃ。

 彼を理解する以前に、そもそも自分の頭の中が理解出来ない。


 苦笑ひとつ、前髪を掻き上げて立ち上がると、バスルームの扉が開く音が聞こえた。


 私の目の前、白いシャツにくたびれたジーンズ姿、頭にバスタオルを被って部屋に戻ってきた中嶋君の表情は覗えないけれど、そのキレのない動きから体調の悪さを推し量ることは出来た。

 沈黙に耐え兼ねて彼に声を掛けようとした、その瞬間、


「あ」


 不意に響いたのはスチール製の扉をノックする音。

 その音に、中嶋君は頭にバスタオルを被ったまま踵を返した。


 出迎えた中嶋君の低い声と可愛らしい声が絡み合う。


 私は部屋とベランダとを隔てる窓ガラスに背を預けると、部屋に戻ってきた二人をぼんやりと眺めた。


「ほら、そこに座って」


 藤枝さんの言葉に、おとなしく中嶋君がクッションに座る。

 すると、藤枝さんは突然中嶋君の濡れた髪をわしわしと乱暴に拭き始めたのだった。


「ちょ、紗希さん……」

「いいじゃん、誰が見てる訳でもないしさ」


 いや、まぁバッチリ見ているんですが。


「調子どう、動けそう? 一応薬も持ってきたんだけど……」

「ああ、大丈夫です。一緒に、行きます」


 一緒に、という言葉にアクセントを置いた科白の後、中嶋君は横目で私を見た。

 思わずドキッとして彼を見つめ返すと、いつになく積極的な調子で、彼はその先を続けた。


「紗希さんここ地元でしょ。俺、あんまりこの辺のこと知らないし、出来たらこの辺を案内してくれるとありがたいです」


 それは、私も一緒に、ということだろうか?


「これから暫くはここに住むんだし、いろいろ知っておいた方が安全だし、ね?」


 それは、多分馬鹿なこの私のために。

 そんなことを言われたら、納得するしかないじゃない――


「うん……そうだね」

「そうだね! 調子がそれ程悪いんじゃなかったら、案内したげるよ」


 けれど。

 彼の言葉に頷くのは、私だけじゃないんだね。


 * * *


「元気なおじーちゃん先生がいる病院と、最近出来た小奇麗でそっけない病院、どっちがいい?」


 オススメは前者! と明るく笑う藤枝さんに、困ったような苦笑いを返す中嶋君。


「すいません、後者で」

「えー」


 そんなやり取りを交わす二人の隣を歩いていた私は、スマホを手に一秒立ち止まり、また歩き出す。

 突然立ち止まった私を不思議そうに振り返った中嶋君は、私がスマホを耳に当てているのを見て、自分も慌てた様子でスマホをポケットから取り出した。


「もしもし、どうしたの?」

「お取り込み中のところ悪いんだけど。中嶋君が病院に行ってる間、私はどうしてたらいい?」

「あー、ちょっと待ってね……」


 その辺りのことは何も考えていなかったのか、中嶋君は電話を下ろすと藤枝さんに顔を向ける。

 私は思わず肩を竦めた。


 私は別に風邪を引いている訳でもなければ怪我もしていない。

 それ以前に病院にかかる持ち合わせもなければ保険証も持ってきていない。

 だからと言って受付を素通りして雑誌を読んで血圧を測って帰るというのも不審だし、そんなことをした日には本当に風邪を引いたりお腹を壊したりした時に病院にかかり辛くなってしまう。


 そもそも暇潰しに病院行くとか私は老人か。

 結論として全力で却下。


「紗希さん、病院の周りにお店とかあります?」

「んー? コンビニしかないよ」

「そうですか。帰り寄ってもいいですか?」

「いいよー」


 頼まれごと? と首を傾げる藤枝さんに「ええ、まあ」と曖昧に答えた中嶋君は、改めてスマホを耳に当てると、後ろを歩く私に聞こえるように、少し大きな声で尋ねてきた。


「病院帰りにコンビニに寄るから。それでもいい?」

「……わかった、置いてかないでね」

「了解」


 こんな時間にコンビニに入って小一時間立ち読みというのも店側にはいい迷惑だろうけれど、個人的には病院の中で待つより健全に感じるので、申し訳ないけれどそうさせてもらうことにする。


 やがて、踏切の先に以前買い物に行ったホームセンターが見えてきた。

 藤枝さんは踏切を渡らず道を左に折れ、駅前へと続く線路沿いの道をひたすら歩く。


 やがて辿り着いた病院は、藤枝さんが最近出来たと言うだけはあって綺麗なものだった。

 何処かのデザイナーが設計したのだろうか、随所に円のアールを取り入れた白い建物の外観はまるで小洒落た事務所のようで、そうと言われなければとても病院には見えない。

 それほど広くない駐車場には、既に左右とも数台の車が止まっている。


 唯一気になったのは、院長の苗字と思しき病院の名前が左右で異なることだった。

 つまり中嶋君からこの病院の評判を聞いた所で、私としては全くアテにならないということである。

 これは気を付けなければいけない。


 病院の向かいにはこれまた新しい調剤薬局があり、そこから50メートルほど先、通りを渡った先に見知ったコンビニの看板が見えた。


 病院に向かう二人を見送り、案の定客が全くいないコンビニの中に足を踏み入れる。

 手相占いで運命がどうの、と書かれた女性向け雑誌を手に取ると、私は適当に中のページを開いた。


(何やってんだかね、私も)


 思わず溜め息が漏れる。

 けれど、これは半分私のためでもある。

 自発的に外に出たがらない私がこの町で安全に暮らせるように、中嶋君が私を連れ出してくれたのだから。

 それは素直に嬉しい――けれど。


 コンビニに中嶋君と藤枝さんが現れたのは40分ほど経って、私が3冊目の雑誌を棚に戻した瞬間だった。

 そのまま店を出るのも気が引けた私は、朝食がまだということを思い出して、適当なサンドウィッチと500mlのパックジュースを買って店を出る。

 駐車場から店内を眺めていると、程なく同じコンビニ袋を提げた2人が扉を押して外に出てきた。


「どんな所に行きたい?」

「そうですね、このまま県道沿いを見てみたいかな」


 中嶋君の言葉で方向が決まったのか、二人はまたすぐに歩き出した。


 時刻は既に10時半。

 立ち並ぶ店も営業を開始して、病院へ訪れた頃の静けさが嘘だったかのように、いつしか県道沿いには人と車が行き交うようになっていた。


 人が、車が重なりながら私の視界を流れてゆく。

 眼帯を外して昼間の街を歩くのはおよそ10年ぶり、しかも行き交う人や車の数は、小さい頃地元で見ていた光景のおよそ2倍――


「う……」


 近隣に住んでいると思しき学生、主婦、老人が目算で15人。

 色とりどり、形も違う車が10秒におよそ20台。

 進行方向以外の秩序が乱れ、狂った視界で繰り広げられるのは、幻覚作用にも似たサイケデリックな世界。

 改めてそれを目の当たりにした私は、吐き気を覚えて思わず左目を押さえた。


「大丈夫?」


 刹那、囁く声に思わず顔を上げる。

 左目で前を見ると、スマホを耳に当てた中嶋君が微かに私に振り向いていた。


「うん……平気だよ」


 コンビニを出てからずっと握り締めていたスマホを上げて、私は口元だけで彼に笑みを返した。


 私の目の前に広がる狂った世界で、中嶋君もまた同じように生きているんだ。

 私だけいつまでも逃げていられない。

 けれど、そんな私を心配してくれる彼の気持ちは純粋に嬉しかった。


 だからこそ、膨らんでいく不満がある。

 気付いてはいけないと知りながら、だんだんそれが無視出来なくなっていく。


 どうして――


「このケーキ屋さんはオススメだよー。何度かTVでも紹介されたんだって」

「へえ、紗希さんはどれが好きなんですか?」

「いい質問だ! バナナとキャラメルのババロアがオススメだぜボーイ。あ、でも格君って甘いもの平気なの?」

「平気ですよ。今度来てみます」


 笑う中嶋君。

 近いけれどとても遠くから、それを眺める私。


 どうして――


(どうして、私はそこにいないんだろう)


 藤枝さんにはきっと一生解らない。

 中嶋君は2つの世界のボーダーラインに立っていて、その世界の景色はどうしようもなく狂っていて。

 それでも彼は、藤枝さんと私を一度に気に掛けられる人なんだって。


 それが解るのは私しかいないのに。

 どうして私は、彼の隣を歩くことさえ出来ないのだろう。


 やがて2人は県道から脇道に入る。

 暫く歩くと、目の前に見覚えのある風景が現れた。


「ここからは解るよね」


 それは工場通りと住宅街の境界に建つコンビニ。

 昨日の晩、中嶋君と私が駆け込んだ場所だ。


 病院帰りに寄ったコンビニの袋からペットボトルのレモンティーを取り出した藤枝さんは、一口それを飲んで、少し寂しそうに微笑んだ。


「……ごめんね、つまんなかったでしょ?」


 その言葉に、中嶋君が目を見開いた。


「え?」

「本当はもっと楽しい所に案内出来たらよかったんだけどさ――格君、何度も余所見してたでしょ? だから、君が見たいものはもっと別の何かだったのかな……って」


 私は俯くことしか出来なかった。


 中嶋君は藤枝さんが好き――そんなことは彼と初めて会った日から知っているというのに、私はずっと不機嫌な顔で着いて歩いて彼を困らせてはいなかったか?

 そうだとしたら、彼が藤枝さんとの散策に集中出来なかったのは私のせいだ。

 これで藤枝さんの中嶋君に対する心象を損ねてしまったのだとしたら、それはもう全部私が悪い。

 どう謝ればいいのかも分からない。


「すいません、見るべきものが多すぎて」


 中嶋君は済まなそうな顔で笑った。

 藤枝さんを傷付けてしまったことを、彼らしい言葉で詫びながら。


「まぁいいよ。そもそも、格君はあたしとは違うものが見えてる――そうでしょ?」


 そんな彼に、藤枝さんは楽しそうに笑って見せた。

 そして彼に一歩近付き、挑戦的な目で顔を覗き込んで、


「いつか見てみせるよ。君の見てる世界を」


 そう言い放ったのだった。

 当の中嶋君は照れを堪えているのか、真面目なようなニヤけているような、何とも面白い顔をしている。


「それじゃ帰ろっか。途中まで一緒よね?」

「え、あ、ハイ」


 言われてみると、藤枝さんはコンビニの袋以外には小さなシザーバッグを腰にぶら下げているだけで、大学の用意なんて何も持っていない様子だった。


 頷いて歩き出した中嶋君から4歩ほど遅れて藤枝さんが後に続き、その後ろを私が歩く。


 事実、藤枝さんは素敵な人だと思う。

 ただ相手を許すのではなくて、相手を理解して尊重するなんて真似は、私にはきっと無理だ。

 だから、私がもし中嶋君と同じ世界にいたとしても、藤枝さんが中嶋君の傍にいる限り、私と彼が並んで歩く日なんて来ないのだろう。

 そう、彼女が彼の傍にいる限りは。


(じゃあ、もしも彼女がいなかったら……?)


 付かず離れず、ゆっくりと中嶋君の後姿を見守りながら歩く藤枝さん。

 追い付いて彼女の顔を盗み見ると――彼女はどこか嬉しそうに微笑んでいた。


 私は軽く息を吐き、肩を竦めた。


 もしも、なんて意味がない。

 私達にとって、身の回りにあるこの現実が全てだ。


 きっと2人は両想いなのだろう。

 2人がそれに気付いた瞬間、彼ら距離はゼロになるに違いない。


 そして、一生掛けても中嶋君に触れることすら出来ない私には、そんな日は決して訪れない。

 そう――それが現実。


「中嶋君、私……先に帰るね」


 私は彼の後姿を見ず、俯いてスマホに話し掛けた。


「そろそろ大学に行かないと。中嶋君は休んだらいいよ」


 私の言葉に――さっきの藤枝さんの言葉が効いているのか、中嶋君はスマホを握ったまま、ただ頷いただけだった。


 視界の先、信号のない交差点が近付いてくる。

 顔を上げると、少し先を歩く中嶋君が交差点の真ん中でスマホをポケットに仕舞う姿が見えた。


 刹那、向かって右の道路から、自動車のタイヤが湿ったアスファルトを踏み鳴らす音が聞こえる。

 思わず立ち止まった私の隣を、藤枝さんが擦り抜けるように歩いてゆく。


 あれ、ちょっと待って。

 この音、どっちの音なの……?


「……ぁ……」


 私は茫然と目の前に流れたものを眺めていた。


 それは昨日と同じように、猛スピードで急カーブの先の交差点を走り抜けた白い車と。

 文字通り、弾き飛ばされるように宙を舞った――


「――」


 悲鳴を上げることすら出来ず、私はその場に立ち尽くした。


 ドン、と、重い音が聞こえたのだろう、怪訝な顔で中嶋君が振り返る。

 そして、そこにいるはずの藤枝さんの姿が消えてしまったことに気付いたのだろう、表情と呼べるものがおよそ抜け落ちた顔で視線を右に流し――上ずった声で何か叫びながら、中嶋君が走り出した。

 走らなければすぐに近付けない所に、彼女がいたに違いない。


 無音だった世界に音が戻ってくる。


 何? 轢き逃げ? かわいそうに。それでね、研究室行ったら教授が寝ててさー、机の上に髪の毛の塊が置いてあったのー。ああ、うちの娘がああなったら……。救急車呼べよ。ナニそれ超ウケるんですけど! ええ? だから轢き逃げだって言ってるだろ! 早く来いよ! もしもし、コバヤシさん? 悪いんだけどさ、契約書のPDFを俺のメアドに送っといてくれない? ねえ、あの子って藤枝さん家の……。


 ああもう左右からうるさい。

 オマエら皆黙れ。

 黙れ。

 黙って下さいお願いだから静かにして。

 私をこれ以上掻き乱さないで……!


 人だかりの向こうには中嶋君がいた。

 彼の顔の下には、仰向いた藤枝さんの白い喉が見える。

 彼女に必死に呼び掛ける彼のシャツはに、車道に投げ出されていた彼女を路肩に運んだ時に染まったのだろうか――元の色を思い出せないほど鮮やかな赤が滲む。


 そんな光景を当然全く意に介さず、笑いながら歩いて行くのはこちら側の人達。


 静と騒が、喧噪と静穏が。

 あの世とこの世が。

 相反する全てがない交ぜになったような、混沌たる私の視界。


 私はその場から逃げ出していた。

 自分でも気付かないうちに、走り出していた。


 階段を駆け上り、鍵の先端を何度も鍵穴の縁にぶつけながら、ようやくスチールの扉を開ける。

 靴を脱ぎ散らかして部屋に飛び込むと、私は自分のテリトリーに逃げ込んで、叩きつけるようにカーテンを閉めた。


「はっ……あ……ぁああぁ」


 縋り付くように左目に眼帯を当ててポータブルプレイヤーを引っ掴むと、インナーイヤー型のイヤホンを耳に捩じ込んだ。

 プレイヤーの再生ボタンを押した瞬間に流れだしたラウドロックのボリュームを最大まで上げて、外から微かに聞こえる生活音さえシャットアウトする。

 ヒステリックなデスボイスと引き裂くようなギターの音、脳に何か硬いものを打ち込むようなベースとドラムの音に苛まれながらも、左の世界の音と完全に断絶出来ればそれでいいと思った。


 これで私は私の世界のものしか見えないし、聞こえない。


 それなのに、頭の中では繰り返しあの場面が――宙を舞った藤枝さんが、血にまみれて膝を突いた中嶋君の姿が。

 繰り返し繰り返し、再生される。


(もしも彼女がいなかったら)


 違う、そんなことは望んでないの。


(もしも彼女がいなかったら)


 私は、ただ。


(もしも彼女がいなかったら)


 そんな世界を思い描いて。

 意味がないと諦めただけ。


(もしも彼女がいなかったら――)


 それでも!

 思い描いたのは事実じゃないか――!!


「……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめん、なさい……」


 それが罪だというのなら。

 この通りです神様、謝りますから。

 どうか藤枝さんを、中嶋君を助けて下さい――


 * * *


 肌を焼くような暑さに苛立って目を開ける。

 体を起こすと、フローリングに横たわっていた背中がずき、と痛んだ。


 窓の外から差し込む西日が眩しい。

 あんな騒音の中で眠ってしまったのだろうか。


 ……授業、サボっちゃったな。


 握り締めたままのポータブルプレイヤーは、電池が切れて動かない。


 耳の痛みに耐え兼ねてイヤホンを外した瞬間、カーテンの向こうから聞こえた衣擦れの音に、私は目を見開いた。


 刹那、メロディのない、素っ気ない着信音が響く。

 静まり返った部屋の中ではやたらと大きな音に聞こえるその音は、5秒ほど鳴り続いていただろうか。


「はい」


 一瞬の無音の後、低く掠れた声が聞こえた。

 聞き慣れない響きに驚いたけれど、すぐにそれが中嶋君の声であることは判った。


「……はい、ええ……そうですか。解りました。わざわざすいません。はい……失礼します」


 再び訪れた無音。

 もうこれ以上逃げ場はなく、私はフローリングの床に視線を落として、ただ黙り込むことしか出来なかった。


「城本さん、起きてる?」


 疲れ果てたような声で呼ばれたけれど、それでも私は顔を上げなかった。

 上げられるはずもなかった。


「……何で、いるって知ってんの。大学行くって、言ったじゃん」

「靴があったから。城本さん、裸足で大学行く趣味なんてないだろ?」

「……当たり前、じゃない。そんなの」


 いつもと同じ軽口を叩き合う。

 それでも、笑みの一つも浮かばなかったのは、


「紗希さん、亡くなったって」


 その言葉を、何となく予想していたからかもしれない。


 また無音が訪れる。


 いっそ狸寝入りでもしていた方がよかったのかもしれない。

 けれど、何度も言うように。

 私にはもうこれ以上、逃げ場はない。


 それは中嶋君にとっても同じだろう。

 右も左もないこの部屋は、私と中嶋君にとっての世界の果てなのだ。

 だから、もしも彼がこの部屋に帰れば私がいると知って戻ってきたのだとしたら。


 私はこれ以上、逃げる訳にはいかない。

 彼が私に藤枝さんの死を打ち明けてくれた意味を、勘違いでも構わないから考えなくてはいけないのだ。


「中嶋くん……大丈夫?」

「何が?」

「……泣く?」

「誰が?」


「……私、外に出てよっか?」

「いいよ。ここに、いて欲しい」


「……ん。じゃ、おいで」


 短いやり取りの後、私はゆっくりと起き上がって、窓ガラスに寄り掛かった。

 中嶋君はカーテンを隔てた向こう側、同じように座ったようだ。

 カーテンの下から覗く彼の指先に自分の指先を重ねて、布の向こうにあるに違いない彼の右耳に、出来るだけ優しく囁いた。


「……私でよければ、ここにいるよ――ここには、中嶋君と、私しかいないよ」

「そうだね、ありがとう。城本さんがいてくれて、よかった」


 そんな言葉の後。

 程なくカーテンの向こうからは、引きつったような嗚咽が聞こえてきた。


 私には、何も出来ない。

 私には彼の髪を撫でてあげることも出来なければ、彼が泣き止むまで抱き締めてあげることも出来ない。

 かと言って「泣かないで」なんて安っぽい言葉を掛けるつもりもない。


 だから、せめて。

 彼が私にここにいて欲しいと願うなら、彼がもう大丈夫と言うまでここにいる。

 それだけが、私が彼のために出来る全て。


 ――残酷な話だと思う。

 どうしようもなく役立たずな私が、初めて彼の願いを叶えてあげられたのが、こんな時だなんて。


「……」


 俯くと、私の瞼に溜まっていた涙がぽとぽととシャツの上に零れた。

 それから暫く、私達はカーテン越しに肩を寄せ合って泣いた。


 触れ合う温もりなんて存在しない。

 それでも壊れた左耳に聞こえる、中嶋君の泣いている声は、彼が確かにそこにいるのだと。

 そう、そっと私に教えてくれていた。

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