境界線上の2人
本日最後の授業が終わった。
ぞろぞろと教室を出て行く集団に混ざって廊下に出た私は、階段脇に備え付けられたコンクリート製のベンチの上に腰を下ろす。
そして軽く息を吐き出すと、左目に着けていた眼帯を外した。
閉じたまま、長時間軽く圧迫され続けていた瞼を労るつもりで、もみもみと指でマッサージする。
「あれー?」
不意に掛けられた(気がした)声に、私は両目を開けて周囲を見回した。
前後の授業の入れ替わり時間である今、目の前では無数の人間が行き交う。
知人。
知り合いって訳じゃないけど知っている顔。
そもそも見たこともない顔。
様々な顔が両の視界で無軌道に近付いては遠のき、目の前を横切り――私は軽い人酔いを起こしそうになって数秒、ぎゅっと目を閉じた。
私は左目のマッサージに戻る振りをして瞼を閉じ、そちらの視界を一旦シャットアウトする。
そうして右目の視界が辛うじて捉えたのは、内側の死角に見切れるように立ってこちらを見ている、同じゼミの女子だった。
ああ、「こちら側」で合ってたか。
「城本さん、今日はこれで終わり?」
「うん、今から図書館寄って、それから帰るつもりだけど」
もみもみ、ぐにぐに。
彼女に向き直って、左の目尻を指で押したり回したりする私。
それを珍しいものでも見るような目で眺めていた彼女が、不意に「言っていいのかな」という控えめなトーンで話し掛けてくる。
「えっと……私も終わりなんだけどさ、その。ゼミの皆とバスで駅前出るんだけど……城本さんも、来ない?」
……何でそんな恐る恐るなのよ?
バスというのは大学と駅を往復する通学用シャトルバスの事で、運行時間は決まっているにせよ、学生は無料で乗り降りが出来る。
最終バスは5コマ目終了の30分後。
今は4コマ目が終わった所なので、帰りを考慮しなければ余裕で駅前までバスで出られる時間だ。
駅前はそれ程栄えているという訳ではないけど、ファミレスやカラオケ、居酒屋と言った遊ぶ場所はぼちぼちあって、私も友人や彼女のようなゼミ友とたまに利用している。
だから自分ではそこまで警戒される程付き合いが悪いつもりではないんだけれど、何をそんなに怯えられているのだろう? と不思議に思った私だったけれど。
数秒で、その理由は察する事が出来た。
「……あー」
私のご機嫌の基本値が割と悪い方に寄っているのが、どうやらバレてきているようだ。
なお、彼女に落ち度は全くない。
単純に、私が「ある理由」から基本的にイライラしている事が多いというだけ。
「ごめん、ホントにごめん。今日は帰ってからやんなきゃいけない事があって」
私は左目を閉じたまま、両手をぱちん、と顔の前で合わせた。
こんな事でゼミ開始から数ヶ月で孤立するなんて、正直絶対に避けたい。
かと言って、遊んでる場合じゃないというのも結構マジな話だったりする。
ウィンクしてるみたいな顔で言うような事じゃないのも解っているけど、こればっかりは許していただきたい。
「そっかぁ……ううん、気にしないで。また誘うね」
そう言って去っていく彼女に、左手でひらひらと曖昧に手を振る。
と、
「城本さん、眼帯着けてないの初めて見たけど……割と童顔だったんだね」
もっと大人っぽくてキツい感じに見えてた、と笑顔で余計な一言を添えて、今度こそ彼女は遠ざかっていったのだった。
「……解ってるっつーの」
虚空に向けて、一人呟く。
いつの間にか、目の前からは人の往来が完全に消えていた。
両の耳で絶えず聞こえ続けていたざわざわと騒々しい話し声も消え、私はこのフロアの教室が次の時間、5コマ目の授業で空きになる事を知る。
私は左目を開けて、目の前を眺めた。
大教室の中と外を隔てる灰色のコンクリ壁。
規則的に敷き詰められた赤レンガ調の広い床。
久々に見る、確かな奥行きを持って目の前に佇む、無機質で冷たい景色の中。
私は――城本
それでも時折、狂いそうになる程の孤立感を覚えるのは。
左目で見る世界に。
左耳で聞く世界に。
そちらの世界に私はいない。
世界の何処かに存在はしているかも知れないけれど、見た事のないものというのは、いないものとさして大きな違いがない。
私は確かにここにいるのに、私はこの景色を確かに見ているというのに。
左目と左耳が捉える世界に、私の居場所は何処にもない――それを、絶えず突き付けられているからなのだと思う。
左手を見つめると、左目が捉えた地面が同時に視界に映って、まるで透けているかのよう。
私は溜め息ひとつ、右手で握りしめていた眼帯を慣れた手付きで装着し、常にポケットに入っている音楽プレイヤーに巻き付けたイヤホンを解いて両耳にねじ込んだ。
音楽は流さない。
そもそも私の左耳は、イヤホンから流れる音を正常に拾うようには出来ていない。
だから、敢えて聴く必要はない。
これらは、私が正常である振りをするための小道具に過ぎないのだから。
私は七分丈ジーンズの裾から覗く、少し冷えたふくらはぎに力を込めて、苛立ちを散らすように勢いよく立ち上がった。
いっその事。
左の世界なんて、大地震とか核戦争なんかで滅んじゃえばいいのに。
* * *
城本 咲、20歳。
大学2年生。
趣味は音楽鑑賞と読書。
そう馬鹿正直に言うと、「もうちょっと話が広がりそうな言い方はないのか」と言われたりするけど、そんなものがあれば漠然と音楽鑑賞とか読書とか、そんなつまらない事を言わずにもっと具体的な事が言えるというもの。
事実、趣味と呼べるほど打ち込んでいる事なんて何ひとつないので、要は暇潰しとして利用する手段を並べたらこうなるというだけの話。
見た目にも特徴と呼べるほど、人と違う所がある訳じゃない。
髪の色は少し根元が黒くなってきた茶髪、髪型は外ハネのレイヤーを掛けた肩までのストレート。
服装だって、特にお金を掛けているでも、逆に極端にお金を掛けないでもない。
平凡で没個性。
何処にでもいる、いたって普通の女子大生――
図書館に向かう道すがら、自分の姿を思い浮かべながら、頭の中でそんな感じの自己分析を行う。
気持ちがささくれた後の儀式のようなものだ。
言うなれば自分に対する自己紹介――違うな、自己確認だ。
さて。
特別な趣味もなく、見た目にも特徴がない平々凡々とした私だけど、自己紹介をすると名前はともかく、顔だけは一発で覚えてもらえる確率が高い。
その理由が、びっくりするほどキレイとかカワイイとかなら、もうちょっとチヤホヤされる日々を送っているのだろうけれど、生憎とその辺りはいたって普通だ。
たまにさっきの彼女が言ったようにギャップに対して言及される事こそあれ、残念ながら今まで顔でいい目に遭った事はない。
にも拘わらず、顔を覚えられやすい理由は2つ。
1つは、私が常に左目に眼帯を着けているから。
別に眼病を患っている訳じゃない。
単に左目が使い物にならないので、「ないもの」として生活するには眼帯が必需品であるというだけの話。
見える見えないの話だけなら、ちゃんと見えてはいる。
けれど、この左目は全く使い物にならない。
と言うのも、見えるべきものが全く見えておらず、見えなくていいものが見えてしまっているのだ。
見える風景自体は右目とほぼ同じ。
海や山、建物や道路なんかは左右とも全く同じで、左側の景色に殊更違和感を覚える事はほとんどない。
けれど。
その風景の中で動いている人や自動車が、全く別の動きをしているのだ。
ごく自然に目の前に繰り広げられる風景でも、左右の視界の中で動くものが何一つ重ならずに動き回っているなら、それは全く別の世界と言えると思う。
例えば、左目に眼帯を着けて、右目だけで見る風景の中では、行き交う人々はごく自然に私を認識して動いている。
それが知っている人なら声を掛けるし、知らない人でも、例えばぶつかりそうだったりすると避けてくれるし、当然私も避ける。
けれど、眼帯を外して左目で見る風景の中では、誰もが当たり前のように私の前を遠慮なく横切り、避けもせず、ぶつかる事もなく通り抜けてゆく。
私が右目で見えるものを自分の世界だと信じられるのは、単純に右の世界の存在だけが私を認識していて、私自身も右の世界のものだけに触れられるからに他ならない。
私の五感そのままの、所謂当たり前な事が通用するのは、右目で見ている世界だけなのだ。
対して左の世界は見えるだけで触れられず、誰も私の存在を認識していない。
要するに、左の世界は見えているだけなのだ、見える必要なんて全くないのに。
加えて左耳も普通じゃない。
右の世界の音と、左の世界の音をどちらも拾ってしまう。
こっちが真剣にテレビを見ているのに、常に別の番組の音声が被っているようなもので、正直に言ってしまえば雑音以外の何ものでもない。
けれど、これに関しては日常的な騒音が1.5倍になる位の害しかないので、授業や試験など集中しなければいけない場面でもなければ、あまり気にもならない。
逆に集中しないとヤバい場面、例えば講義中は左の世界でも別の講義をやっている最中という事がほとんどなので、非常に困る。
耳栓は必須だ。
とは言え場面に関わらずうるさいのはやっぱり嫌なので、耳栓代わりのインナーイヤータイプのイヤホンが今やほぼ顔の一部。
そして、このイヤホンが2つ目の理由である。
そんな訳で、知人が私を説明する際なんかは、大抵「いつも眼帯とイヤホンを着けてる子」で通ってしまうのだ。
やった。
やってない。
全く別の世界を見てしまう左目と、その世界の音をも拾ってしまう左目――焦点が定まらず、通常より1.5倍も騒々しい世界。
そんな狂った感覚でも何となく生きていられるのは、多分、それを処理する脳味噌がぶっ壊れてしまっているからなのだと思う。
そんな自虐的な自己確認と分析を一旦断ち切るべく、私は深呼吸ひとつ、辿り着いた7階建ての建物の外観を眺めた。
大学情報センター。
大学図書館を内包する、正門脇にそびえ立ったコンクリ打ちっぱなし、灰色一色の要塞めいた建物。
正門から見える位置に建っている幾つかの建物の中でも異彩を放つこの情報センター、通称情センは、一般解放された際のイベントホールやギャラリーの会場として利用される事もある、言わばこの大学の顔的な建物だ。
正門側には緩いアールを描いた半円状の巨大な外壁がそびえ立ち、その中は2階までぶち抜いた円形のイベントホールとなっている。
階段状に狭くなる3階から上のフロアは図書館エリアであるせいか窓が極端に減り、外から見るとさながらコンクリートで出来た積木のお城のよう。
そんな厳つい建物に私が頻繁に出入りするようになったのは、単純に3階から7階の大学図書館に用があるからだ。
学食や喫茶店など、落ち着ける場所を探して敷地内を転々とし続けた私は、やっぱ図書館が一番じゃね? という、割と当然の結論に辿り着いた。
何せ左の視界と左耳の騒がしさは、文字通り私にはお構いなし。
それから逃れるには、そもそも静かで人があまりいない場所が最適なのだ。
そんな訳で、私はすっかりこの情セン、その中にある図書館の常連となっていた。
エレベーターで7階に上がり、雑誌コーナーから適当にビジュアルアート系のムックを数冊引っこ抜く。
大学院の紀要が並ぶ書架のすぐ傍、滅多に人が来ない閲覧テーブルでぼんやりと時間を潰すという、何とも生産性のない暇潰し。
私が授業終わりにわざわざここに来るのは、単純に真っ直ぐ家に帰りたくないからだ。
一人暮らしなので家族がどうとかそういうのは関係ないし、当然寂しいとか人恋しいとか、そういうのは全くない。
でも、私にとっては割と切実な理由で、私は自分の家に帰りたくない。
(……っても業者が来るのが18時だから、終バスで帰るとして残り1時間くらいか)
なお、今日はこの後部屋に業者を上げる予定がある。
ゼミ友の誘いを断ったのもそれが理由だ。
それでも家に帰りたくない気持ちは変わらないので、自然と授業が終わればここに足が向く。
不毛な行為なのは百も承知だけれど、ここじゃなければ情セン地下にあるちょっとお高い喫茶店ぐらいしか、実際人が来ない場所がないのだから仕方がない。
そして生憎、喫茶店に日参出来る経済力なんて私にはない。
て言うか、人が多い事自体は問題じゃないのだ。
問題なのは「こちら側」で人が多い所は、漏れなく「向こう側」でも人が多いという事。
世界が違っても所詮同じ人間、特に同じ大学の学生が考える事なんて似たり寄ったりだ。
例えば学食。
眼帯を付けずに一人で食事を摂っていたりすると、「相席してもいいですか」の一言もなく、勝手に目の前に見知らぬ人が座ってくる。
向こうには私の存在なんて目に入らないから当然ではあるのだけれど。
まあ考えてもみてほしい。
自分には全く関わりがないとは言え、知らない人が自分(と同じ椅子に座っている誰かさん。多分友達)に向かって親しげに話しかけてくるという光景は、何とも気持ちが悪い。
もっとも、これは大学の構内に限った話じゃない。
駅前の喫茶店で知らない人が自分(と同じ椅子に座っている誰かさん。多分恋人)に向かってフォークに突き刺したケーキの切れ端を差し出しつつ「あーん」とかされた日には飲んでいた抹茶オレを吹き出しそうになった。
あれはトラウマになる。
なった。
そんなこんなで可能な限り人目を避ける生活を続けていたものだから、知り合いからはすっかり孤高の人扱いだし、何なら世捨て人なんて呼ばれた事もある。
比較的知り合って日の浅いゼミ友ですら、そんな理由で日々イライラしている私にさっきみたいなビビった視線を向けてくるのだから、まったく理不尽な話だ。
そうして俯いたまま、優しくない世界に身を置く我が身の不幸を憐れんでいると、突然向かい側の椅子を引く者が現れた。
誰よ、こんな辺鄙な処に……思わず眉間に皺を寄せて顔を上げると、見知った顔の女が呆れたように私を見降ろしているのが見えた。
彼女は露骨に不機嫌そうな顔で、肩まで伸ばしたふわふわの茶髪を指でかき上げながら、睫毛の長い吊り目でこちらをガン睨みしている。
「……まーたこんな所にいた」
溜め息と一緒に呟きひとつ、彼女――西岡
私は咄嗟に言葉が出ず、半眼でこちらを見つめる彼女を、開いた本を摘んだまま気持ち数センチ引いて眺めた。
白いノースリーブのシャツに白黒迷彩柄のショートパンツ、肌が透ける程薄いカーディガン。
そして美人。
私とは対照的に露出度高めで派手好みな彼女は、これでも入試で知り合って以来の息の長い、私には本当に貴重な親友だ。
「講義の合間に外国文学のノート写させてーとか言っときながら、行方眩まして人に探させるなんて。いい度胸ね、咲」
「いや……あはは。茉莉なら見付けてくれるかなって」
机の上に置いていた眼帯を着けながら、私は曖昧に笑って見せた。
そう言えばそんなお願いをしていた気がする。
確かに自分から頼みごとをしておいてこんな所に引きこもっているのは、ちょっと悪かったかもしれない。
自分にとってここに来るのが当たり前すぎて、その辺りに全く気が付かなかった。
大きめの胸を机にのっけるように前のめりで頬杖を突いていた茉莉は、私の露骨な作り笑いで更にご機嫌を損ねたようで、上体を起こして椅子に体重を預ける。
「あーあ、探すのすっごいめんどくさかったから、やめよっかなーノート貸すのー」
「申し訳ありません私が悪うございました。家じゃ写せないから今この場で写させて下さい。お願いします先生」
ぷい、と顔を逸らした茉莉に向かって平身低頭。
そんな私の言葉に引っ掛かりを覚えたのか、彼女は一転、きょとんとした顔を私に近付けてきた。
「何よそれ、家じゃ写せないって」
そこで初めて、自分が余計な事を口走ったと知る。
「んー……ちょっと。引っ越すの」
「はあ!? また!?」
予想どおりのリアクション、どうもありがとうございます茉莉さん。
でもあんた声が大きい、落ち着け。
とは言え、彼女が呆れるのも無理のない話ではある。
これと言って趣味がない私だけれど、他人に言わせておけば「趣味だろソレ」と言われる位、引っ越し頻度が高いのだ。
勿論趣味なんかじゃない。
正直、私だって出来る事なら引っ越しなんてしたくはない。
けれど事実として私は明日、新しい部屋へ引っ越しする事になっているし、今夜来るのだって荷物を運び出す運送業者だ。
面倒くさいので荷受けは明日でお願いしているけれど。
「これで何度目だっけ、引っ越し」
「5回目。大学入ってからね」
「……」
うんざりした顔で私を眺める茉莉の視線が痛い。
私は視線を芙莉から少しずつ書架の方へ流しつつ、
「……天井にね、浮いてる人型の染みがどーしても気になって。多分事故部屋なのよ、上が」
そんな適当な事を言ってみた。
真に受けた茉莉がうげえ、という顔をするのが視界の端に映る。
勿論嘘だし、いくら費用の関係で格安物件ハンターと化している私でもそうそう事故物件に当たることはないはずだ……とも言い切れない部分はあるけれど。
もっとも、これまでの引っ越しの中で全くそういう事がなかった訳じゃない。
あれは3度目だったか、生まれて初めて金縛りに遭った時は流石に畳の裏や天井に誰かいらっしゃるのではないかと疑った。
「じゃあさ、次引っ越す部屋は思い切って、家具とかいろいろ拘っちゃえばいいよ」
「……は?」
「事故部屋は災難だけど、それにしたって咲は引っ越し多すぎるでしょ。ひょっとして自分の部屋に愛着持ててないんじゃない?」
そんな一方的な決め付けの後、おもむろに立ち上がって書架の間に消える茉莉。
呆気に取られたまま、暫くその方向を眺めていると、一冊の雑誌を抱えた彼女が閲覧席に戻ってきた。
「こんな部屋とかどうよ? ヘンテコだけど、『自分の世界』みたいな拘りを感じない?」
オレの部屋作り――そんなタイトルの雑誌をテーブルに広げた彼女が指差したのは、「テクノポップが僕の生き様です」との文句が書かれた部屋の写真。
黒とビビッドなピンクのボーダーという、ソレ何処で売ってたんだと言いたくなるようなラグの上には、卵を斜めに切ったような形の椅子。
壁に掛かっているのは、これまたビビッドな水色や黄色の丸いドットを敷き詰めたファブリック。
ちなみに卵型の謎の椅子の上には、金髪にサングラスを掛けた家主と思しき青年が誇らしげに座っている。
私が眉間に寄った皺もそのままに顔を上げると、茉莉がどや顔でこちらを見つめていた。
「何にせよ部屋なんて一番好きなもので作ってしまうべきよ。それで自分の部屋を気に入ったらさ、きっと引っ越しなんて馬鹿馬鹿しくてやってらんないと思うけど?」
「……自分の世界、ねえ」
茉莉が口走った言葉を声に乗せてみる。
私にとって「世界」は2つ存在する。
右目の世界と左目の世界。
私の本来の世界――私が右目で見る世界、その主観は、確実に左目の世界に侵食されている。
それが、私がこんなにも頻繁に引っ越しを繰り返さなくてはいけない理由だった。
自分の部屋とは睡眠時間を含めて1日の大半を過ごす大切な空間だし、日中はこうして左目を隠して生きている私だって、せめて自分の部屋では眼帯を外して寛いでいたい。
けれど、それが許されるには条件がある。
左右の世界は人の動きこそバラバラだけど、私が通う大学のように建物自体は同じという場合が殆どだ。
ピラミッドみたいな世界遺跡や日本各地の寺院やお城は勿論、スカイツリーや六本木ヒルズなんかも向こうに存在するのは、左の世界のTVや雑誌でチラ見して把握している。
ただし、右の世界にて火事で全焼した建物が左の世界にはまだ存在しているという光景を見たことがあるので、火災や自然災害で消滅する建物に少し違いが発生するという事はあるらしい。
おそらく住んでいる人間それ自体も、基本的に同一人物なのだろう。
私は私自身を見かけたことは一度もないけれど、実家に住んでいた頃は左右どちらにも両親の姿があって非常に混乱したのを憶えている。
ただ、あちらの両親の間には私は生まれなかったようで、家を出るまでついぞ自分に出会う事はなかった。
ともあれ、多少の違いはあるかもしれないけれど、人の考える事なんて同じだろうし、政治家はどちらでも政治家だし、アパートの大家だってどちらでもアパートの大家なのだと思う。
だからアパートも左右同じ場所に存在しているし、いわんや部屋なんて全く同じ位置。
つまり、私が暮らす部屋は、左の世界でも同じく誰かが住む可能性があるという事だ。
当然左の住人には私の姿は見えない。
けれど、いくら見えていないからと言って、寝ても覚めても別人のプライベートが視界に被るのは正直御免だ。
私が暮らすにあたって最低の条件は「その部屋が左の世界で空き部屋かどうか」という事。
それが満たせなくなった時点で引っ越し決定、5回目ともなればもう慣れっこである。
今度解約した部屋は長く続いた方だと思う。
何しろ5ヵ月も住めた――酷い時は1ヶ月で出た部屋もあったというのに。
このまま卒業まで住めるかなー、とある日淡い期待を抱いてしまったのが悪かったのか、先週遂に長らく空き部屋だった左の世界の同じ部屋に、見知らぬ男性がご入居なさいました。
ご入居するや壁一面に、多分アイドルなのだろう女の子のポスターやらグッズを貼り出して、夜勤のバイトに出掛ける以外はその子のブルーレイがエンドレスで流れているし何なら彼もペンライトを振り回して飽きもせず大盛り上がりである。
他人の趣味にとやかく言う筋合いはないし、言ったところで聞こえないし、かと言ってガン無視してやり過ごすにはキツすぎる。
家に帰ったらこれが待っているのだ、帰りたくない理由としては十分すぎると思う。
という訳で、早々に見切りをつけて管理会社に連絡した次第である。
……そろそろ界隈の不動産屋さんのブラックリストに載っているかも知れない。
それから荷作りと並行して敷金礼金ゼロのお部屋探しを開始、運よく大学の近くに程良い物件が見付かった。
こんな事情なのでごく少ない家財を三日で段ボール箱に詰め込んだ私は、前の部屋の契約が切れるのを待たずに宅配便でお引っ越しである。
あとは今日、帰宅後ギリギリまで残さざるを得なかったものなんかを箱詰めしてしまえば準備完了というところ。
業者が来る前に最後のそれを片付けなくてはいけないので、ゼミ友と親交を深めるのも当然諦めざるを得ないし、正直今ものんびり授業ノートを写している場合じゃないのだ。
「今度こそ卒業まで住めたらいいね?」
「んー……でも私が悪い訳じゃないのよねー」
呆れ顔の茉莉に曖昧な笑みを返す。
内心踏ん反り返って机に足でも乗せたい気分だったけれどそこは我慢、行儀の悪さを咎められて図書館から出禁なんか食らった日には行く所がないのでじっと我慢。
頑張れ私。
耐えるんだ私。
……まぁ、こんな事をしていても何となく生きていられるだけ、私の世界とやらは優しいのだと思う。
私が自分で思っている以上に図太いだけなのかも知れないけれど。
一通りノートを写し終えた私は、茉莉と2人で図書館を出ると、学食で彼女にジュースを奢って、掲示板に寄ってから帰路についた。
バンドメンバー募集とか、夜間の一人歩きに注意しましょうだとか、フリーマーケット出展しませんかだとか。
自分が特別に可哀想だと感じる時期なんてとうに過ぎてしまったけれど、気にする範囲が狭いというのは幸せな事だと思う。
そんな幸せな事が普通で当たり前だと言うのなら、それがない私の脳味噌は、やっぱりどう考えてもぶっ壊れてしまっているのだろう。
* * *
この左目と左耳が「発症」したのは8歳の頃。
ある日を境に、目の前で行き交う自動車を、通行人が当たり前のように通り抜けて行く光景を毎日見るようになった。
物心がつくかつかないかのうちにそんなものを毎日眺めていたせいで、きっと危機意識というものが狂ってしまったのだろう――左の世界の車に通り抜けられ慣れていた私は、ある日右の世界の車に撥ねられた。
よく生きていたと思うし、今思えば当時の無防備っぷりが私を撥ねたドライバーに申し訳ない限りである。
子供というのは痛い目に遭って物事を学ぶ生き物。
この教訓から私は、「目の前の世界が如何に信用ならないか」という事を学んだ。
それ以来私の左目は、表向きには失明扱い。
両親はあの事故が原因でそうなったのだと言っているけれど、誤解とは言え世間的にはその方が都合がよいので、私も普段はそれに合わせている。
それに原因が何であれ、事実として私の左目は使い物にならないのだから。
この視界を生かしておくと次は多分死ぬと思ったので、私はそれ以降眼帯を着けるようになった。
ちなみに、左の雑音をやり過ごす方法を思い付いたのは中学の頃。
父親にポータブル音楽プレイヤーを買ってもらってからである。
以来私イコール眼帯とイヤホン、のような言われ方をするようになったのは不本意極まるけれど、それももう慣れてしまった。
人間諦めてしまえば、割と何でもどうにかなってしまうもの。
私の左の世界も、きっとそんな感じなのだと思う。
ただ生憎、五感のうち2つを持って行かれてしまっては良い感情なんて持ちようもないし、そうそう上手いつきあい方なんて出来ないのも、12年もすれば流石に理解している。
ただ、出来る事なら。
たった一人だけでもいい。
左の世界で、私に気付いて笑いかけてくれる人がいないかな、なんて。
時々、そんな事を思ったりする。
* * *
そうして迎えた引っ越し当日。
私は昼イチで業者から受け取った後、部屋の片隅に積み上げておいた段ボール箱を眺めた。
中身と言えば出来るだけ着回しが出来るように選んだ服、台所用品、メイク道具、ノートPC、後は布団とか毛布の類と小さな折りたたみテーブル。
後は電子レンジと小さな冷蔵庫。
ジプシーめいた生活を送る私は基本的にその程度の家財しか持っていないので、引っ越し作業なんて実際楽なものだ。
下見に来た時のままの、小奇麗だけど狭い洋室1Rの六畳間は、狭いとは言え私には実際丁度いい広さと言える。
狭すぎない程度の居室空間の他に、風呂とトイレと窓とキッチンがあれば個人的に充分。
それらが備わっていて、更にこの部屋は大学が徒歩圏内。
何で最初からここにしなかったのだろうと思う程、私的に完璧な部屋だ。
冷蔵庫は業者が親切にも希望の場所に置いてくれたし、後はいつも通り適当に電子レンジや布団を置いたらクローゼットに衣類を押し込んで……ああそうそう、一応カラーボックスと湿気取りを買って来なくては。
確か駅裏にホームセンターがあったはずなので、消耗品も一緒にそこで見ておこうか。
何はともあれ、一刻も早く日常を取り戻すためにも荷解きを始めよう。
ざっくりと段取りを決めた私は眼帯を外して――
「あれ?」
次の瞬間、思わず目を見開いた。
(……私の荷物、こんなに多かったっけ?)
まじまじと荷物の山を眺める。
試しに左目を閉じると――荷物の数は元通りになっていた。
眉根を寄せて部屋を見回す。
両目で部屋を見回すと、チカチカする視界に映ったのは私の荷物と、何故か増えている段ボール箱と、憮然とした顔で立ち尽くす男が1人。
長めの前髪から覗く不機嫌そうな垂れ目が印象的な顔の彼は、薄いピンクの半袖シャツから伸びた手を、所在なさげにブルージーンズのポケットに突っ込んでいた。
もう一度左目を隠すと、彼の姿と不審な段ボール箱は消え失せる……んんん?
(……ちょい待ち、ストップ)
確かに昨日までここは空き部屋だった、それは間違いないはず。
そもそも私の部屋の条件は、左の世界でそこが空き部屋である事なので、昨日の時点で左に入居者がいる事が解っていたら間違いなくキャンセルしている。
でも、私には不動産屋相手にゴネた記憶はない。
それが現在、左の部屋には、如何にも引っ越し当日、今日からここが俺の城だワーイと言わんばかりの様相で荷物が散乱しているという事は、答えは一つ――彼もまた、私と同じく今日からこの部屋で暮らし始めるという事だ。
「……マジか……」
これはキツい。
卒業まで持つどころか以前の金縛り部屋より辛抱出来ないし、何なら間違いなく最短記録樹立なレベル。
やった。
やってない。
そして気が付くと、私はアパート前の道路に立ち尽くしていた。
どうも、あまりの事態に耐えかねて、知らないうちに外に出てきてしまっていたらしい。
私は半ば茫然と、今日から自分が住む事になっている建物を眺めた。
木造2階建て、築40年。
部屋数は10。
居室は1R、お風呂とトイレは一体型の、カーテンで仕切れるタイプのものが付いている。
外観については、モルタルの外壁はクリーム色の塗装こそそれなりに新しいっぽいけど、よく見るとあちこちに補修跡が見られる。
屋根は煉瓦色の瓦葺きで、こちらはあまり手を加えられていないのか、下から見上げてもあちこちに傷みが見られる。
とは言え、敷金礼金0円を条件に探していたのだから、ある程度老朽化物件なのは織り込み済みだ。
だから、建物についてはこの際どうでもいい。
問題なのは部屋の中だ。
昨日まで確かに空き部屋だった左の世界の同じ部屋に突如住人が、しかもあろう事か男性が入居してきたという事実は、まぁぶっちゃけ大問題である。
そしてこれは私にしか感知出来ない類の問題なので、不動産屋に文句を言うのは完全に筋違い。
何かの間違いである事をダメ元で期待して、左目を閉じたまま外階段を上り、部屋に戻る。
そして先程立っていた場所に戻り、恐る恐る左目を開いてみると――
「……ですよねー」
先程と何ら変わりない、私のものではない段ボール箱が視界に飛び込んできて、私は思わず崩れ落ちそうになった。
あちら側の彼もまた、変わらず不機嫌そうな顔で、私と同じように部屋の真ん中で虚空を睨んでいる。
そして、気のせいか、その視線が真っ直ぐ私に向けられている気がする。
「……何見てんのよ」
返事なんか返ってくるはずもないのに、八つ当たりめいた因縁を付けてみた。
「いや、往生際が悪い人だなと思って」
会話が成立してるような気がするけれど気のせい、私の中のあるあるだ。
万が一本気で私に言ってるんだとしたら戦争だ、喧嘩売るにも程があるぞ。
「あぁもー最悪、何でこんな事に……」
「最悪はこっちのセリフだっての……ったく、入居日一緒とかどうなってんだ」
「はあ!?」
彼の心底嫌そうな言い草にカチンと来た私は、だん、と床を鳴らして一歩詰め寄ると、頭一つ分大きい彼を下から睨み上げた。
「私のが先に荷物受け取ったでしょうが! そっちこそ何なのよ、人の荷物が置いてある部屋に勝手に自分のダン箱バラ撒いて!」
「どっちが先とか後とか関係ねーだろ。こっちだって不動産と契約してんだ、ここに住む権利についてとやかく謂われる筋合いはないよ」
「はあー!?」
こっちは感情的な話をしてるのに、契約とか権利とか、理詰めで来やがったかこの野郎――
(……っと、待て私。落ち着け)
その瞬間、はたと我に返った。
よく考えたら、何で私達は言い合いになっているのだろう?
私と左の世界の関係は常に一方通行、私はその世界を見る事が出来るし、音も聞こえるけれど、実際に触れる事は出来ない。
それも当然、何故なら私はこの右の世界にいる。
だから向こうの人は、私が見ている事に気付く事はないし、こちらも向こうの人に何かを伝える術はない。
何処まで行っても交わらない平行線――それが、私の左右の目がそれぞれ捉えている世界のはずだ。
「……あの」
私は上目遣いのまま、恐る恐る尋ねてみた。
この瞬間、彼とは完全に視線がぶつかっている。
「もしかして……見えてるの? 私が?」
「声も聞こえてるよ。そっか……アンタも同じなんだ」
改めて会話成立を確認。
マジか、これはかつてないパターンだ。
有り得ない事態に頭が真っ白になる。
あまりの出来事に考える事を放棄していたのか、私は気が付くと床に座り込み、テーブルを出してペットボトルのお茶を飲んでいた。
「寛いでる場合じゃないよね?」
「……そーね、状況を整理しましょうか」
斜め前からの抗議で我に返る。
かく言う彼もクッションを出して床に座っていた。
「私と同じ境遇って事は、引っ越してきた理由も大体同じって事なのかな」
「うん。ちょっとの間は我慢してたんだけど……旦那のDVが激しくて見てらんなくてさ」
「……そーいう生々しい話は聞いてません」
て言うか、今は引っ越しの理由そのものはどうだっていい。
大事なのは、私と彼が2人とも、互いの世界に生活を壊されてやむを得ず引っ越しに踏み切ったという事実。
ここにこうして居る時点で、既に2人とも賃貸契約書は連帯保証人の氏名記入、実印押下の上大家の手の中。
退去には最低3ヶ月前の申し出が必要、「それ以後の解約申し出についても、乙は甲に対して3ヶ月分の家賃支払いの義務が生じるものとする」……と、賃貸契約書には割と厳し目の文言が書いてあった気がする。
要は、お互い後戻りは出来ないという事だ。
つまり今すぐに出て行った場合、住んでもいない部屋の3ヶ月分の家賃を払わなくてはいけない。
「そんな余裕はないよ、俺には」
「奇遇ね。私も」
私に関しては前の部屋の家賃も丸々1ヶ月分残ってるし。
詰んだ。
これはもう完膚なきまでに詰んだ。
残された選択肢は、即金のバイトで荒稼ぎをしてとっとと引っ越すか、3ヶ月間我慢して彼と同居しながら引っ越し資金を貯めるか――
もっとも、眼帯と耳栓、イヤホンで左の視界と音を消してしまえば、そこにあるのは紛う方なき私1人の部屋である。
それはまぁ確かなのだけれど、そもそもそんな生活が嫌だから、私はこうして流れ者のような生活を送っているのであって――
ビリビリビリー。
「何勝手に荷解き始めてんの!?」
「勝手でいいだろ。左目に映ってんのは俺の部屋なんだから」
狭い視界の端で段ボール箱のガムテープを剥がし始めた彼に怒鳴ると、半眼でこちらを睨むように振り向いた彼から冷やかな声が返ってきた。
あくまで屁理屈で押し通ろうとする彼の反論に返す言葉もなく、睨み返す事しか出来ない私は、むかむかする一方で――この場に全く関係のない事に納得していた。
そうか、彼は右目がそうなのか。
「まぁ、当面は仕方ないんじゃない? 俺は面倒くさいから暫くここに住むよ。さっきも言ったけど、俺にはその権利がある訳だし」
正論で返された。
正論なんだけれど、感情的に納得がいかない。
私は大袈裟に溜め息をつくと、玄関から向かって左側の壁に荷物を押しやった。
こーなったら、もう仕方がない。
暫くは左の視覚と聴覚を封じてやり過ごすしかない――そう思って眼帯を着けようとして、私は慌てて手を止めた。
もし私が向こうの世界を一切見なくなったら……逆にこの男は私が見てない事をいい事にやりたい放題なのではないでしょうか?
いくら触る事が出来ないとは言っても、能動的に寝顔を覗かれたりお風呂を覗かれたりするのは駄目、ムリ、絶対有り得ない。
つまり、向こうの動向を監視しつつ生活するには、敢えて左の視覚と聴覚をオープンにし続けなければいけないのだ。
うわー、何この事態。
(物理的に干渉しようがないってだけで、要はこんな狭い1Rでルームシェアって事!?)
「あーそっち行く? じゃ、俺は右側に寄るから」
私の様子を眺めていた彼は、納得したように荷物を右の壁に寄せ始めた。
……何だこいつ、一人だけ早々と順応しやがって。
私は肩を竦めて首を横に振った。
「……まぁ、とりあえずはこれでいいわ。でも、訳知りって言っても男女が一緒に暮らす以上、していい事と悪い事の区別くらいは弁えてるよね?」
そして試すように尋ねてみる。
新聞紙に包まれた食器をフローリングの床に置きながら顔を上げた彼は、何故か楽しそうに笑っていた。
「解ってるよ。とりあえず風呂トイレは気を付けるとして……えーと」
「城本。城本咲」
「了解。城本さん自身のプライバシーはどう守んの? この部屋じゃ隠せるものなんて何もないけど――クローゼットの中で寝るとか?」
何となく紳士的な態度は伝わってくるけれど、皮肉で返してくる辺り、彼は結構性格が悪いと見た。
「そんな訳ないでしょ、誰がドラえもんよ」
「そこまでは言ってないよ」
にやりと笑って見せる彼。
あーもう、間違いなくこいつ性格悪いわ。
ともあれ、彼に言われるまでもなく、こうなってしまったらプライバシーの保護というか確保は必須だ。
クローゼットで寝るとか論外、というか彼に対して下手に出るつもりは一切ないし……まあそうなると、相互不可侵な領土を互いに定めてしまうのが落とし所として妥当だろうか?
となれば、パーテーションか何かで物理的に区切ってしまうのがいいのかもしれない。
どちらにせよホームセンターには行くつもりだったのだ。
パーテーションを買うなんて想定していなかったから全く予定外の出費になってしまうけれど、こればかりは仕方がない。
私はさっさと荷解き作業に戻ってしまった彼を睨みつつ、バッグを掴んで立ち上がった。
「ん、何処か行くの?」
「駅裏のホームセンター」
「あ、そんな近くにホムセンあるんだ? 俺も行く」
「はあ!? 何で!?」
思わず抗議の声を上げた私の声を無視して立ち上がる彼。
そのまま玄関まで歩を進めた彼は振り返ると、長めの前髪から覗く垂れ目で「ん? 行かないの?」と私を見つめた。
舌打ちでもしてやりたい気分だったけれど、短気を起こして積極的に喧嘩を売って、ただでさえ未だかつてない程面倒くさい生活を更にやりにくくするのは、出来れば遠慮したい。
正直何処まで我慢出来るかは分からないけれど。
「おっと、ストップ」
促されるまま玄関に来た私を手で制すると、彼はジーンズのポケットからキャメルカラーのスマホケースを取り出して耳に当てた。
「もしもし城本さん? 外ではコレで行こうと思うんだけど、どうかな?」
すぐに納得が行った。
確かに、外で彼と会話をするなら出来るだけ不自然にならないように努める必要がある。
言ってしまえばお互いに透明人間と話をしているようなもので、それがちゃんと成立している会話であれ端から見れば完全に独り言なのだ。
私も彼に倣ってスマホを手に取り、耳に当てた。
「そーね、これでいいわ。じゃあちょっと練習してもいい?」
「練習?」
「……もしもし、どちら様ですか?」
これまでで最上級の嫌味を込めて一言。
彼は目を丸くして――次の瞬間、苦笑いひとつ答えてくれた。
「中嶋
* * *
この町はJRの線路で区画が分けられており、駅の北側には工場地帯や住宅地、南側にはスーパーマーケットやホームセンターなど大型の店舗が並んでいる。
私の通う大学が位置するのは北側、工場地帯の奥。
これまでは隣の町から、電車とシャトルバスを利用しての通学だったので、私は実はこの辺りの地理には全く詳しくなかったりする。
とは言え、よく利用する居酒屋やカラオケなんかも実は駅南のお店なので、私にとっては完全に見知らぬ町という訳でもない。
単純に、朝と夕方以降しか駅を利用せず、遊ぶ目的に該当しない施設に関しては完全にノーマークだったという事になる。
そんな私が線路の南側にそういう生活に欠かせない店が集中していると知ったのは、単純に不動産屋の営業さんが「ね? 便利でしょう?」とか言いながら車で周辺を通ってくれたから、というのが理由だ。
中嶋君がこの辺の事を知らないのは、きっと私と同じような事情なのだろう。
辿り着いたホームセンターの中は、微かな木の匂いが漂っていた。
用がある、と言って併設されたスーパーマーケットへと消えて行った中嶋君には一切構わず、私は左目に眼帯を付けて店内を歩き回る。
目的は既に決まっているので、真っ直ぐそこに向かえばいいのだけれど、
昨日芙莉に見せられたら雑誌の中身が頭をちらついて――私は気が付くと寝具のコーナーにいた。
止せばいいのにベッドの前で立ち止まる。
「コンセントとライト付きのフレームにポケットコイルマットレスがセットで……」
そして我に返って、溜め息ひとつ首を横に振った。
(……ダメダメダメ。そんなの買ったって、引っ越しが面倒になるだけなんだから……)
そりゃあ私だって、出来る事なら自分の好みで部屋を作ってみたいと思わなくもない。
特にいい加減床に三つ折りマットレスと敷布団をベタ敷きして寝るのに嫌気が差しているのは事実で、据え置きのベッドはともかくソファーベッドなんかに憧れがあったりするのも否定は出来ない。
ただ、今のペースで引っ越しを続けざるを得ないなら、ベッドだのソファーだのというでかい家具なんて邪魔にしかならないのだ。
……でもせめて折り畳みベッドぐらい欲しいなーとは思う。
思うだけだけど。
肩を竦めてベッドの誘惑を振り切ると、脇目も振らず店の中をずんずん進む。
そうして、私は目的のコーナーへ辿り着いた。
「うーん……?」
着いたんだけども。
インテリアコーナーの間仕切り売り場にあったのは、私の想像とはちょっと違うものばかりだった。
幅が狭い上下突っ張り棒タイプ、高さが中途半端なラタンの屏風タイプ……理想に近いのは後者だけど、中嶋君の身長は180センチはあると思うので、高さ150センチの間仕切りではあんまり意味がない。
こんなのじゃ床に線を引くのと同レベルだし、そもそもこのラタンのスクリーンは目が粗くて透け透けだ、ないない。
もっとこう、目隠し効果的なものが必要だ。
「すいません、もっと背の高いパーテーションって扱ってないですか?」
「あハイ、それでしたらオフィス用品のコーナーへどうぞ」
店員さんを呼び止めて、導かれるままにオフィスコーナーへ。
パソコンデスクやワークチェアが並ぶ中、パーテーションは最奥にそびえ立っていた。
「でか、っつーか、高……」
素直な感想が口を突いて出てしまった。
高さ180センチ、幅90センチ。畳1枚をそのまま立てたような文字通りの板。
ちなみにキャスター付き。
市役所の特設相談窓口なんかでブースを仕切るのに使われているようなものだ。
確かにこれなら高さはあるけど、そもそも1枚で使うものではないのだろう、これ単品では幅が足りない。
それ以前に、こんなサイズの壁はとても持ち帰れない。
そもそも何ですか、1枚15300円とか買える訳ないじゃないですか。
「……もしもーし、城本さーん?」
「ひゃあっ!?」
頭の中で見当違いなクレーム祭りが絶賛開催中だった私は、突然背後から掛けられた声に思わず飛び上がりそうになった。
慌てて眼帯を外し、スマホを取り出して耳に当てる。
振り返ると、スーパーの袋を提げた中嶋君が眉根を寄せて立っていた。
「まさかそれ、買うの?」
「……そんな訳ないじゃない」
すぐにでかい板に視線を戻す。
背後に感じる中嶋君の視線が痛い。
まぁそれはそうだろう。
彼にしてみれば、成り行きとは言え今日から一緒の部屋に住む同居人、しかも女子が、自分の視線を遮るためにこんなでかい壁の設置を検討しているとなれば、多分いい気はしないと思う。
人を何だと思ってるんだ、的な?
まぁ信用なんてこの段階からあるはずがないのは彼も解っているとは思うし、とは言え私だって実際は流石にここまで大袈裟なものにするつもりはないのだけど、少しバツが悪くて振り返るのが怖い。
「そんな仰々しい壁で俺の視線を完全ブロックしたいなら、まぁ……気持ちは解らなくはないし、止めはしないけどさ」
「……うるさいな。だから買わないって言ってるでしょ。参考に見てただけです」
突き刺さる視線を振り払うように、勢いを付けて振り返る。
ダサいな私。
逆ギレじゃん、こんなの。
まだ少し不満そうな顔をしていた中嶋君は、私が足早に、それこそ逃げるようにその場を離れると後を着いてきた。
「別に壁に拘らなくてもさ、突っ張り棒でカーテン作ればいいんじゃね?」
「!」
ぽつり、と彼が呟いた一言に、思わず足を止める。
「そんなのがあるの?」
「向こうのカーテン売り場の方かな。こっちだよ」
そう言うと、逆方向、カラフルなカーテンが並んだコーナーへと歩いて行く中嶋君。
私は慌てて通路を引き返すと、彼を足早で追い掛けた。
――可笑しな話だと思う。
本当は目の前にいない彼を追い掛けるだなんて。
そして15分後。
私は長さ最長3メートルの突っ張り棒と、安売りの2メートルカーテン、そして3段のカラーボックスを1台買って店を出た。
当初突っ張り棒とカーテンの幅という問題にぶち当たってしまったけれど、そこは事前に部屋の寸法を測っていた中嶋君のおかげで間違いのない買い物が出来たと思う。
カーテンの柄も、黄緑の無地なんて無難なものがあってよかった。
個人的にはピンクでもよかったけれど、それは多分中嶋君から異議を唱えられるに違いない。
私が買うのに彼に遠慮するのも癪ではあるけど……余計な争いの種を敢えて蒔く必要もないだろう。
言うまでもないけれど、突っ張り棒は長くて邪魔だし、カラーボックスは重いしで、帰り道の気分は最悪だった。
スーパーの袋をぶら下げて数歩先を涼しげな顔で歩く中嶋君の背中に蹴りを入れたいと思ったのは一度や二度じゃない。
なお、そんな中嶋君の買い物は、両隣と下の住人に配る引っ越し挨拶用の洗剤(のし付き)だったようだ。
個人的に気になったのは、右隣の住人が年下の可愛い女子大生だったという事だ。
数時間彼と行動を共にして解った事として、中嶋君は傍から見る分には背も高くて、それなりに顔も悪くないとは思う。
となれば、その女子と何やらロマンスの予感がしなくもなかったけれど――その線はこの後、早々に消え去ってしまうこととなる。
あと、2メートルの高さに突っ張り棒とカーテンを取り付けるという作業は、背の低い私には実に困難だった。
物理的に全く手伝えることがないのは百も承知だけど、背延びだけでは足りずテーブルに上ったりしてまで悪戦苦闘している私をにやにや眺めていただけの中嶋君には、個人的にいつか仕返しが必要だと思った次第である。
* * *
荷物整理も粗方片付いた午後6時。
改めて見渡すと、部屋の中は私のエリアと中嶋君のエリアではっきりと分かれていた。
横長の部屋を縦に三等分して、玄関から入って左側が私のエリア。
境界線は勿論例のカーテンだ。
カーテンの内側には紙製の抽斗を突っ込んだカラーボックスと布団が置かれている。
抽斗の中身はタオルや衣類、細々としたあれこれ。
ちなみにこの部屋唯一のクローゼットもカーテンの内側だ。
話し合いの結果中嶋君が快くクローゼットを譲ってくれたので、コートや長いスカートなんかは全部その中に収納させてもらった。
対する右側、中島君のエリアは、こう言っては何だけどあまり片付いていない。
未開封の段ボールが幾つかそのままになっているのは、多分単純に収納スペース不足ということなのだろう。
唯一の収納アイテムである大きなメタルラックには、衣類や日用品が入った硬質パルプのボックスに占領されており、どう見ても段ボール箱数個分の荷物を容れるにはスペースが足りない。
もっとも、今更クローゼットをよこせと言われても断固拒否させて頂くけれども。
中央には2人分の折りたたみテーブルが置かれている。
言わば共有スペースで、中嶋君の冷蔵庫は何故かそこに置かれている。
コンパクトな1ドアタイプなのでそれほど邪魔ではないけれど、キッチン傍に冷蔵庫を置かないということは、彼は料理をする気が全くないということだろうか。
そこを彼に尋ねると、
「長く住むつもりがないからなー。キッチン汚すと出る時大変でしょ?」
だそうだ。
まぁそれももっともな意見かなと思ったので、私はそれ以上突っ込まずに口を閉ざした。
「それで思い出したけど、城本さん晩御飯どうすんの?」
「適当に何か買ってくるけど……関係ないでしょ? 言っとくけど中島君は食べらんないからね」
どうでもいい質問に半眼で睨みながらそう答えると、中嶋君は拗ねたように「人を何だと思ってんだ」とブツブツ呟きながら財布の中身を確認し始めた。
「外に食べに行こうかな……」
「好きにすれば? いちいち言わなくていーよ」
そう突っ込みつつ、敢えて彼の方は見ない。
そもそも、ここで会話が成り立っていると思っているのは私達二人だけで、傍から見たらこれまでの科白は全部独り言なのだ。
だから「あんまり独り言が多いと、隣の可愛い女子大生にキモがられるよ」とここで私が忠告した所で、それ自体が独り言。
だから敢えてお口チャックである。
独り言の多い中嶋君はせいぜいキモがられるがよい。
主に私が素っ気ないせいで静まり返っていた部屋の中に、次の瞬間、電子音のメロディが流れ始めた。
何処かで聴き覚えのある旋律は、中嶋君が慌ててスマホをポケットから取り出してあれこれした後に途絶える。
「もしもし、サキさん?」
少し高揚した声。
彼と出会ってから数時間経つけれど、それは聞いたことのないトーンだった。
(……え、サキ?)
今、電話の向こうの相手に何て呼び掛けた?
「ええ、大体終わりましたけど……は? 今からですか? 確かにその辺ですけど」
慌てた顔で部屋の中を見回す中嶋君。
その様子から察するに、今からここに誰かが来るという事か。
通話を終えた中嶋君は、無造作に床に置いていた段ボール箱を隅に押しのけたかと思うと冷蔵庫の中身のチェックを始めた。
明らかに挙動不審だ。
というか、その水と発泡酒はいつからそこに入っていたのだろう。
やがて彼なりに納得がいったのか、中嶋君は何も言わずに部屋を出て行った。
そして十数分後、薄いドアの向こうから話し声が聞こえたかと思うと――
「お邪魔しまーす」
何と、1人の若い女性が中嶋君と連れ立って部屋に入ってきたのであった。
「へえ、狭いけど結構キレイな部屋じゃん」
フローリングの床に足を踏み入れると、彼女は興味深げにぐるりと部屋の中を見回した。
……彼女には私サイドが見えていないと解ってはいても、左右に領土が分かれた珍妙な室内の様相に居た堪れない気分になってしまうのは何故だろう。
そして、中嶋君サイドだけで見ると、明らかに物が右側に偏りすぎである。
改めて思うけれど、何だこの変な部屋。
(それにしても――)
私から言わせてもらえば、こんな部屋よりも彼女の方がよっぽどキレイだ。
中嶋君が呼んだ名前に、とうとうあっちの世界の私が現れたのかと思った事を即座に反省したレベルで。
大胆におでこを出した黒いストレートヘアに、気の強そうな大きな目。
白いブラウスにブルージーンズという、飾らない服装が印象的な美人さんだ。
どこかぼーっとした雰囲気の中嶋君にはある意味お似合いだけど――
「何? この人がサキさん? 中嶋君の彼女?」
興味本位で尋ねてみる。
それに対しての中嶋君の返答は、
『城本さんには別に関係ないでしょ?』
という、ついさっき何処かで聞いたようなセリフを打ち込んだメール画面。
うわむかつく。
何これ、仕返しのつもり?
そんな中嶋君の態度に私がむかむかしているその前で、黒髪の彼女は「引っ越しのお祝いだよー」と言いつつプレミアムなビールとお手製らしきお握り、そしておかずが入ったタッパーをテーブルの上に並べ始めた。
ほほう、中嶋オマエあれか、人が簡単にコンビニ弁当で済まそうとしてる目の前で美人の握ったお握りを食うんか中嶋。
そしてオマエのために手料理をこしらえてきた彼女とオマエの関係は何だこら中嶋、おい白状しろ中嶋。
――そんな万感の思いを込めた熱☆視☆線を中嶋君に送り続けていると、彼は観念したように、
『後で話すから睨まないでお願い』
そんな文言を打ち込んだメール画面をそっと見せてくれた。
うん、解ればいいんだ。
「それじゃ、私は晩御飯買ってくるけど――」
呟いて、私は立ち上がる。
中嶋君がちら、とこちらを一瞥したのを確認すると、
「帰ってきてエロいことしてたら、今後毎日嫌がらせするからね?」
そう言い置いて私は踵を返した。
一瞬何か言いたそうな顔の中嶋君が視界に映ったけれど、これに関しては断じて異論は認めません。
* * *
最寄りのコンビニは、アパートを出て北の方、住宅街と工場地帯の境目にある。
この時間、平日であれば仕事帰りの工場勤務の人達で賑わうのだろうけれど、今日は土曜日ということでお客さんの数は少ない。
私は迷うことなくお弁当のコーナーを目指すと、種類豊富なようでその実そうでもない平積み弁当の棚に視線を落とした。
さて、中嶋君が連れて来た彼女は一体何者だろう?
中嶋君は後で教えてくれると言ったけれど、彼女の事は妙に気になった。
見た目の大人っぽさ、そして初対面の私に対してタメ口だった中嶋君が丁寧語で喋っているのを考えると、多分彼女は年上なのだろう。
(彼女なのかなぁ、やっぱり)
別に中嶋君に彼女がいた所で驚きはしないけれど、自分の身に置き換えてみると何だか納得がいかない。
これまで2回、左の世界の同じ部屋に男女連れが入居したことがあった。
基本的に左の世界の同じ部屋に誰かが引っ越してきた場合、私は入居者がどんな人であろうと即刻引っ越しの準備を始めるのだけれど、こと男女連れがご入居となれば私の作業速度は格段に上がる。
一刻も早く、その部屋から逃げ出すためだ。
男女連れの何が嫌かと言えば、それはもう夜の営みの件に他ならない。
考えてもみてほしい。
人が徹夜で引っ越し準備をしているのに、左の視界では裸の男女が1時間や2時間ずーっとエロい事をしているという状況は余裕で発狂レベルだ。
耳栓をしなければ男の息遣いや変なセリフ、女の猫のような喘ぎ声は勿論のこと、何やらねちっこい音までもがリアルに聞こえてくる訳で、そうなったら家の中でも眼帯とイヤホンを着用せざるを得ない。
正直、物凄く迷惑だし、何なら迷惑通り越して殺意すら覚える。
頼んでもいないのに左目の視野およそ100度でかったるいAVを見せられる身にもなってほしいと思う。
とは言うものの、これまでは向こうがこちらの存在を関知していない状態、断じて認めたくはないけど左の目と耳がおかしい私が一方的に覗いているようなものだったのだから仕方ないとは思う。
けれど、今向こうの同じ部屋に住んでいる中嶋君とはお互いの存在をしっかり認識しているので、これで彼が彼女を連れ込んでエロいことをおっ始めた日には、それはもう断固として戦争である。
もしくは彼の露出趣味を疑う。
私は変態と一緒に生活したくはないので、その辺のデリカシーは最低限持って頂きたい。
そして、それは同時に私にも当てはまる訳で、とりあえず私は今後ますます彼氏を作れないということは理解出来た。
もっとも、私は彼氏を作るつもりなんて毛頭ないのだけれど。
この左目と左耳のことなんて説明出来る訳がないし、それが元で私が挙動不審になるのは相手にとっても困惑の元でしかないだろう。
そもそも、日常的に眼帯とイヤホンを装着している現状からして既に十分不審行動だ。
理解も得られず、迷惑ばかり掛けて、下手をすれば頭がおかしいと思われるだけ。
好きになった相手からそんな風に思われるくらいなら、最初から誰とも付き合わないに越したことはない。
「中嶋君はどうして平気なんだろう……?」
考えてみれば、彼は眼帯も耳栓もしてはいないし、仲のいい異性だっている。
私と彼は、何が違うんだろう――
目の前に並ぶ、大して美味しそうでもない弁当を眺めながら、私は思わず溜め息をついた。
* * *
ドアの前で眼帯を外してから「ただいま」なんて当然言わずに部屋に入ると、左側の視界だけが明るかった。
そう言えばもう日が沈んでいたんだっけ……ガサガサと音を立ててコンビニの袋を部屋に運び込み、左の視界を頼りに蛍光灯のスイッチを押す。
ちなみにこの部屋の照明器具は備え付けで、「蛍光灯が切れたら実費で交換して下さいね」と不動産屋さんが言っていた。
引っ越しの荷物は出来るだけ減らしたい私にとって、こうした備品扱いの家具があるのは大助かりである。
一方、お酒が入っているせいか、中嶋君とサキさんとやらの会話は静かに盛り上がっていた。
居酒屋の隣テーブルの会話を耳にする気分で、何となく楽しげな遣り取りを聞き流しながら、私は無言で弁当のラップを剥がす。
話題はどうやら、2人が所属しているサークルに関するものらしい。
「そう言えば格君、『あの絵』ってまだ持ってる?」
「捨ててはないですよ。え、今見るんですか?」
「見たい見たーい! 格君が入部した時に見せてもらった写真でしか見たことないもん、あたし」
いたるくん、ね――随分と親しい間柄のようで。
彼女の可愛らしいおねだりに、中嶋君は苦笑いひとつ立ち上がると、未開封のダンボール箱に貼られたガムテープを剥がし始めた。
クッション材代わりの丸めた新聞紙を引きずり出して中身を取り出す――どうやら、中身はキャンバスが貼られたパネルのようだ。
数枚重ねのパネルを起こし、中身を確認すると、中嶋君はその中の1枚を取り出して彼女に手渡した。
「距離置くなら適当に壁に立て掛けて下さい。俺イーゼル持ってないんで」
「うん」
元の位置に戻った中嶋君の声に彼女の生返事。
真剣にパネルを見つめる彼女の顔に、私も思わず腰を浮かした。
「私も見ていい?」
中嶋君に視線を移すと、彼は苦笑いを浮かべた。
拒否はされていないと見た私は立ち上がると、彼女の背後からその絵を覗き込んで……瞬間、言葉を失った。
それは一言で表すなら「悲しい絵」。
人が去り、廃墟となった夜の遊園地。
灰色の遊具が敷き詰められた墓地のような無彩色の風景の中央には、唯一色鮮やかに描かれたメリーゴーラウンド。
その周りには、木馬に跨った我が子に手を振る母親や、楽しそうな親子連れの姿。
まるで息絶えた遊園地の過去を切り取って貼り付けたかのような幻影を見下ろすように、一つの赤い風船が藍色の夜空に吸い込まれてゆく――
中嶋君が描き出したというその世界に、私は暫く目を離せなかった。
だってこの風景は、多分――
「ねえ――」
不意に、サキさんが顔を上げた。
所在なさげにビールの缶を傾けていた中嶋君の視線が彼女に向けられる。
「もっといろいろ描いてよ。格君の絵って凄いと思うんだ、あたし」
「そうですか? まぁ、考えてはみますけど――」
「真剣に考えてね。何て言うか、格君の絵って不思議な気持ちになるのよ。きっとこの人は、見えてるものが自分とは違うんだろうな、って……」
そんな彼女の言葉に、私と中嶋君は思わずどきっとして顔を見合わせた。
彼女がそういう意味で言ったんじゃないことは確かなのだろうけれど――
「好きよ、この絵」
柔らかく目を細め、彼女は微笑とともに中嶋君に視線を戻す。
彼は照れたように目を逸らすと、残っていたビールを飲み干すように大袈裟に缶を傾けた。
この瞬間、私は何となくこの二人の関係が解ってしまい――失礼ながらニヤリと笑ってしまった。
* * *
「おー、送り狼お疲れ」
「馬鹿言ってんじゃねーよ、実家生だぞあの人」
サキさんを家まで送り届け、部屋に戻ってくるなり私の軽口に出迎えられた中嶋君は、眉間に皺を寄せてこちらを睨んだ。
さて、彼女も帰ったことだし、そろそろ先程の約束を果たしてほしい所である。
私がじっと見つめているのに気が付いたのか、中嶋君は溜め息ひとつ冷蔵庫の中から発泡酒の缶を取り出した。
ここは付き合うのが礼儀だろう――私もキッチンの脇に置いた冷蔵庫から、コンビニで夕食と一緒に買っておいた発泡酒を出してきた。
「あの人は藤枝 紗希さん。2歳上で、学年は1個上の先輩だよ」
その名前に、解ってはいても思わずどきりとする。
先程から彼が何度となく彼女を「サキさん」と呼んでいたけれど、あれは下の名前そのままだったのか。
学年が1個しか違わないというのは、決して彼女が留年したという訳ではなく、単に入学前に1年間浪人生活を送っていたからなのだそうだ。
高校3年の時フラフラしてたら進学出来なかったんだー、とのことらしい。
彼女――藤枝さんがあっけらかんとそう言い放つ様子が容易に想像出来て、私は思わず苦笑してしまった。
入学式の翌日に新入生ガイダンスが行われ、その後学内サークルによる新入生勧誘会が催された。
そんな折、今ではとても想像がつかないけど――まだ初々しかった中嶋君がふらふらと文科系サークルのブース辺りをうろついていた所、妙に元気な先輩に美術系サークルのブースに連行されたらしい。
その先輩が藤枝さんだったそうだ。
「知り合って1年2ヶ月になるね。まぁ、もう気付いてるかもしれないけど……片思いって奴ですよ」
「おー、やっぱり」
「……」
予防線を張ってきた割には見透かされていたことが悔しかったのか、中嶋君はぷいと顔を逸らした。
その視線の先には、先程藤枝さんが熱心に見つめていた絵が壁に立て掛けられている。
私も同じ方向、むしろその絵を眺めて、
「ねえ、その絵って――中嶋君か、私にしか描けない類の絵……だよね?」
小声で、問い掛けた。
「ああ、解る?」
不思議な程穏やかな声でそう返した彼の口ぶりからすると、私の予想はどうやら当たりのようだ。
あの絵は彼が見た実際の風景に、心象に基づく脚色を加えたものなのだろう。
それは彼の世界と私の世界との差異。
私もごく稀に目にする、普通なら有り得ないはずの風景のズレ。
「小さい頃、年に何回か連れてってもらってた遊園地が、中学の頃閉園してさ。居ても立ってもいられなくなって、夜こっそり近くまで行ったんだ」
その頃は既に、私と同じく右目と右耳がおかしくなっていたという中嶋君。
彼がそこで見たものは、
「右目の世界で、その遊園地はまだ元気に動いてたよ」
自分の世界で死んでしまったものが、隣の世界で生きている姿だった。
「鉄柵を乗り越えて中に忍び込んだら、俺の世界の遊園地はまるで墓場のように静まり返ってるのに、そっちの世界のそこは夜だってのにまだ結構人がいて……何だか、その光景に無性に腹が立ったんだ」
それまで右目で見えるものは、自分とは全く関係のない別世界だと思っていた。
けれど、自分の世界でなくなってしまった大切なものが、別の世界では未だ生き長らえているという理不尽な光景を目の当たりにして、彼は或る疑問を抱いた。
それは私も抱いている、けれど特に気にする必要も感じていない、小さな疑問――
この世界と向こうの世界の、一体何が違うのだろう?
「思い至った結論は、こっちとそっちは『可能性』という壁で隔てられた並行世界だということ。どちらかの世界で何らかの選択肢を違えた結果が、あんな形で現れるんだ。それなら――」
中嶋君は顔を上げると、何だか挑戦的な、まるで悪戯を思い付いた子供のような顔でニヤリと笑った。
「いつか俺の大好きなものが、そっちでなくなってるのを見た時は。その時は、指を差して笑ってやろうと思ったんだ」
その「いつか」を見逃さないために、彼は敢えて使い物にならない右目と一緒に生きているのだと言う。
何て捻くれた考え方だろう。
けれど、それでも中嶋君は両方の目でちゃんと前を向いている。
左目を封じ込めて、左耳から聞こえる雑音に耳を塞いで生きている私とは大違いだ。
「前向きなんだね、中嶋君って」
正直、羨ましいと思った。
とは言うものの、
「私はいつも、そっちの世界が大地震や大火災、大戦争なんかでメチャクチャになっちゃえばいいのにって思ってるよ」
そんな八つ当たりのようなことを言ってしまう辺り、私も相当捻くれていると思った。
だってしょうがないじゃない。
左目の光景は私を惑わすし、左耳の音は私を掻き乱すノイズでしかないんだから。
私はそんな世界なんて要らない――妨害電波のような世界とは、正直一緒に生きていけない。
本音とは言え、酷い科白を口走ったとは思う。
じわじわとバツが悪くなって、上目遣いに中嶋君を覗き見ると、
「そうならないよう祈ってるよ」
彼はそう言って苦笑いを浮かべたのだった。
「……怒らないの?」
「お互い様だろ。こっちもそっちも、いつそうなってもおかしくないんだから」
同じものを見て、けれど違う考え方を持つ、彼の言葉。
私には簡単には理解出来そうにないけれど。
それは、不思議と不快じゃない。
そもそも理解出来ないと言えば、自分自身のこの左目、左耳そのものが一番理解出来ない。
お互いの世界が何なのか、その答えを私達は得られていないのだ。
だから、その疑問に対する彼の姿勢が私と違っていても、それ自体は気にならない。
同じ敵と戦っている人が私以外にもいた――その事実だけで充分だ。
こういう気持ちを、心強いと言うのかもしれない。
「とにかく引っ越しお疲れ様。明日から頑張ろうぜ」
そう言うと、彼は飲みかけの発泡酒の缶を持ち上げた。
何を他人事みたいに……そうは思いつつも、私も一緒になって缶を持ち上げる。
世界の境界線越しの乾杯は当然音なんて鳴らなかったけれど。
気が付くと、私は今日、初めて声を上げて笑っていたのだった。
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