第6話 眩しい想い出

 それから僕は、ただひたすらに走り続けた。


 何度も何度も腹が鳴る。

 雑に息を吐く度喉が渇く。

 地面を蹴る足が痛い。

 幾度も跳ね上がる煩い鼓動。

 顔は真っ赤に染まっている。


 そうして走っているうちに、

 気づけば、全く知らない街に居た。


 近かった声も、もう聞こえなくなっていた。

 何日走り続けていたのか、少年にも分からない。

 ただひたすらに逃げた。

 逃げて逃げて逃げて、

 何もかもに背を向けた。


 しかし体力は無限ではない。

 細い息を漏らして、胸を小さく上下させる。

 倒れ込む木々に包まれた草むら。

 身体はもう、一ミリも動かなかった。


――もう、死ぬのかな。


 それだけは、何としてでも避けたかった。

 今ここで死んでしまったら、

 父と母、祖父祖母の努力が全て水の泡だ。

 受け継ぎたい。

 託された意思を、この手で引き受けたかった。

 でも――――。


――眠く、なって、きた。


 意識が段々朦朧としていく。

 歪んで、ぼやけて、

 見ること自体に不快を感じる。

 もう駄目、なのだろうか。


「おとう、さん。おかぁ……さん」


 あの人達に渡したくない。

 やっと、逃げきれた、のに。


 閉じていく瞼。

 歪む視界の要因は、涙だった。


――ごめんなさい。ごめん、なさい。


 頬をそれがゆっくりと伝う。

 伸ばす指の力が抜けていって、

 息も、段々とか細くなっていって――。


「……駄目、だ」


 手を、地面に着いた。

 力を込めて、身体を起こそうと。


「――生きなきゃ。まだ、死ねない」


 力強く着く足が地面を凹ませる。

 荒い息を吐き捨ててまた歩き始めた。


 幸いな事に、すぐ近くに小屋を見つけた。

 中は埃だらけだったが、

 生活に必要最低限な家具は、

 一通り揃っているように伺えた。

 当然ながら掃除をしている元気など無い。

 狭い部屋の三分の一を占めるベッド。

 倒れ込む様に横になって、すぐに瞼を閉じた。


 そしてそれから数日が過ぎた。

 起きたのは既に深夜を回る頃。

 何日も目を覚まさずに寝ていたと気がつけたのは、筋肉痛に苛まれている筈の身体が思っていたよりも軽かったからであった。


 しかしそれでも痛む全身。

 顔を歪めながらも何とか起き上がる。

 当然ながら眠れない夜。

 その晩は、そのままこれからの事を、

 ただ只管に考え続けていた。


 勢いでここまで来てしまったこと。

 自分が自分であるという証。

 両親、そして祖父祖母が遺してくれた証を、

 今の状態で一体どう受け取るべきか、と。


 だからあの日。

 今よりもまだ幼い日の僕は、

 まだ、気が付いていなかった。


 ずっと握りしめて離さなかった祖母のハンカチ。

 その感触にある日違和感を感じて、

 迷いに迷いながらも、

 錆びたハサミの刃を入れた日のこと。

 後にその中から出てくる一枚の紙切れに、

 『小切手』と第一に文字が刻まれていたこと。

 そして。


――父母、祖父祖母。その全てが既に託されていたことを。


 その日少年は夜が明けてすぐに街に下りた。

 過去の祖母の言葉を思い出して、

 役所に向かいそれを見せた。


 あの日は、本当に幸運だった。

 役所の役員さん、その日たまたま少年の担当となった女の人は、あろう事か少年の父方の姉であった。


 彼女はすぐに少年がゆづるだと気が付いた。

 自身の親戚が血眼になって探しているあの少年だということも、当然ながら知っていた。

 そしてそれはまた少年も同じだった。

 だが、彼女は何も言わずただ青ざめた少年に笑いかけて、自身の印鑑を取り出した。

 少年の家出を手助けしてくれたのだった。


 それから数日が経って、

 少年は彼女に会いに行った。

 遅くなってしまったお礼をしようと、

 次の日も、次の日も会いに行った。

 一日中席に座っては、ただカウンターを見つめてあの女の人の姿を探した。

 だが結局、見つけることは出来なかった。


 ある日聞いた別の役員さんの話。

 彼女は、自身から望んで転勤したのだという。

 思い浮かぶあの哀愁の漂う優しい笑み。

 もう二度と、その姿を見ることは叶わなかった。


 だが後で一つ、知った事がある。


「――しお。あの人は、君のお母さんだった」


 だから、あの日をきっかけに下りた街。

 そこでしおとゆづるが出会うことはなかった。

 有り得なかった。

 当然の事、定められた運命で、

 そもそも出会える筈がなかったのだ。


 ……だけど、今になって繋がった。

 あの日、そんなしおとの出逢いを果たせた理由。

 あの夏の日、この笑顔を描けた理由。


 その一番の要因は、

 彼女の母の死、だったのだと。


 それより前から、しおの祖父はあの街で小さな店を開いていた。

 いつだか、しおの父は少年と同じで彼女が幼い頃に亡くなってしまったと話を聞いたことがある。

 故に、母もまた亡くなった事であの祖父の元に行かざるを得なかったのだろう。


「……ずっと、同じだった」


 あの頃はずっと、違う世界に生きる者だと。

 そう信じて疑わなかった。

 自分とは違う明るい世界に生きているのだと。

 でも、


「誰よりも僕を、分かってくれていた」


 また涙が溢れる。

 どうしてもっと早く知れなかったのだと、

 想い出が、溢れて止まらなかった。



――君、誰? どこから来たの?


 あの森で、

 あの工房で、

 澄んだ夏の快晴の様な瞳を覗いたこと。


――わぁ……! 絵、凄く上手なんだね。


 暇潰しにどうかと店主に誘われた趣味。

 その才能を、褒められたこと。


――私はしお! ねぇ、君。名前なんていうの?


 今まで出来るだけ避けていた他人との関わり。

 初めて出来た友人。

 誰かに初めて、友好的に名前を聞かれたこと。


――いつかあの海に一緒に行こう。私の夢なんだ。


 あの高台からの景色に輝かせていた瞳。

 乗り出した身体。

 仰がれる髪と服。

 人の夢を、初めて叶えたいと思ったこと。



 思い出したらキリがなかった。

 しおの居る想い出は、

 いつも明るくて、それでいて暖かい。


 大嫌いだった夜を、夜明けを、

 早く明けないかと願い、

 いつしか朝を待ち望むようになった。


 何も無くなった僕に、

 希望も夢も、失った僕に、

 その全てを授けてくれた。



 絵の中で輝く砂時計。

 今まで落ち続けていたその砂。

 絵の中のしおが握って笑うのは、

 落ちきった金の砂時計。


 ゆづるの瞳は澄んだ黄金色。

 その砂時計と、同じ色を宿していた。


 陽に透けるその少女の黒髪。

 少年の髪もまたよく似ている。

 だけど、違う。


 工房の窓から気付けば覗き始めた陽の光。

 それに照らされる少年の髪は、

 絵の中の少女の青く透けた髪とは異なり、

 黄色く透けて、瞳もまた同じく輝いていた。



 少年が立ち上がりその絵に背を向ける。

 引きずって進める足と、開く扉。

 真上に近い斜めから差し込む陽の光。

 時刻は大体十二時を回る前位、だろうか。


 その時間帯に少年が工房を後にするのは、

 少女が絵となった日以来のことだった。


 足は登り坂へと向かっていく。

 伸びる枝を手で避けて、

 光の差し込む出口へと、

 ただ、ひたすらに足を進めた。


 やがて視界に映る見慣れたはずの小屋。

 どこの誰が住んでいたかも分からない小屋。

 少年の視線は、その左手に広がる拓けた場所へと向けられていた。


 かつての少女の様に、

 少年は手すりを掴んで精一杯身を乗り出した。

 海から吹く風を感じて、

 真正面から照らす光を浴びて、

 鳥の声を耳で聴いた。

 それでも、髪は黄色く透けていた。


「――夢、か」


 今日は晴天。

 雲ひとつの無い快晴だ。

 だがそんな空にも勝る青がある。


「――もう一度だけ」


 かつて語ってくれた少女の夢。

 その影に背中を押されて、

 少年は一人、満面の笑みを浮かべていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蒼穹と砂時計 朝露。 @Y_J_misora

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ