蝉の腹

朝霧

蝉の腹

 誰かが膝かっくんをしてきたのだと思った。おい、やめろよ、とふざけて振り返ると、そこには誰もいなかった。この頃、何もないところで躓いたり、足がもつれたりする。この年で運動不足かよ、と情けなくなりながら、泳ぐように帰路についたのが先週だった。


 じわじわと肌が湿っていく。最寄り駅付近を適当にぶらついたのは久しぶりで、新しい店ができていたり、なくなっていたりと、辺りは忙しなく変わっていたらしかった。シャツも恥ずかしいくらいに変色しているし、もうそろそろ帰ろうかと、湿った手に張り付いたビニール袋を剥がし、反対の手でしっかりと持つ。俺はビニール袋の持ち手がくしゃくしゃになるのが好きではなくて、いつも引っ掛けるようにして持っていたのだが、今日だけはしっかり持っていないとどうにかなってしまいそうだった。

 ポケットの中の鍵に触れる。俺の体温で温まった鍵の感触が確かにあった。指先で鍵の先端をつまむが、ズボンの布の位置が悪いらしく、うまく取り出せない。ビニール袋をドアノブにかけて、両手で鍵を取り出した。こんなことでほっとしている自分は、アパートの階段の途中に転がっていた、生きているのか死んでいるのかわからない蝉のようだった。突けば這いずり回るのかもしれない。残っている力を使い、人間の足元に迫り、驚く姿を見て馬鹿めと喜んでいるのかもしれなかった。しかし俺は、沈黙し、こわごわと傍を通りかかられるだけの、七日目を迎える蝉なのだった。

 ドアを開けると、一瞬ひやりとした空気が通り過ぎ、すぐに体を圧縮させるような、纏わりつく熱気が襲ってきた。ソファの上にビニール袋を置き、シャツとズボンを脱ぐ。シャワーを浴びる前にクーラーをかけておこうとリモコンを見れば、冷房の設定温度が二二度になっていた。毎日この温度の中で過ごし、服もろくに着ていなかったな、と思い出す。寒冷で症状が増悪すると医者は言っていた。仕方がない、俺は暑がりで、夏は一番嫌いな季節なのだから、体を冷やしてしまっても、仕方がないだろう。温度を二六度にしてから、全ての服を脱ぎ、風呂場へ向かう流れで服を洗濯機に突っ込んだ。乱雑に入れたためか、ズボンの裾が小皿からはみ出たしらたきのようにぶら下がっている。風呂場に行きかけていた足を戻し、全てを洗濯機に押し込んだ。何故だかおかしかった。

 風呂場は明るく、浴室が普段よりも白く見えた。ここで、いつもなら冷水を浴びるのだが、今日はぬるま湯で汗を流す。暑さが尾を引いて、ずるずるといつまでも俺の傍にいた。少しずつ水を冷たくしていく。さっと冷えていく清々しさに歓喜した後、我に返って温度を元に戻した。

 風呂から出ると、部屋はそこそこ涼しかった。下着だけでいようかとも考えたが、服の山からTシャツと半ズボンを引き抜いて着る。

 どっとソファに座ると、ビニール袋ががさがさと音を立てた。白いテープを剥がし、買ったものを膝の上に乗せる。

「エンディングノートとか……」

 立ち寄った雑貨屋で気が付けば手にとっていたエンディングノート。カタカナの名前はおしゃれでいかにもはやりものといった感じだが、簡潔に述べれば遺書だ。最近若者向けに作られたものが多いらしく、同じスペースに色々な種類のものが置かれていた。その中でこの一冊を選んだ自分の意図はわからない。わからないが、その時は最後に何かやってみようと思ってしまったのだった。おまけに、ペンを新調しようと思い立ち、ペンのコーナーに二十分も居座った。俺の人生の色は何色だろうかとか考え、いっそこれから明るい気持ちでいるためにオレンジのペンにしてやろうかとも思った。しかし結局黒に落ち着いた。

 ノートを開かずソファに放置して、水を飲みに台所へ向かう。コップを用意する前に蛇口をひねってしまい、無意味にシンクを叩いてしまう。母親が選んだ淡い緑色のコップに水を注ぐ。少し冷たい。透明の水の中に泡が浮かんで、しゅう、と浮上してなくなる。この蛇口の水は腐るほど飲んだのに、泡なんか見たことがなかった。俺の病気、この水が原因だったらよかったのに。そうすれば、毒に犯されていたからだと、水道局のせいだと、納得できたのに。一口飲んで、残りをシンクに捨てる。どぼどぼと鈍い音が俺の神経を逆撫でたのか、ふいにコップを叩きつけたい衝動に駆られ、またその通りにしてみた。床に叩き付けられたコップは悲鳴のような音を立てて割れた。同時に、ひどい罪悪感が俺の心臓の中の血管につまって、呼吸が苦しくなった。吐き出した息と共に、涙が出てきてくれることを願う。俺の中にある全てが、全部排出されれば、空っぽになった俺はまた一から始められるのに。

 ふと、先ほどの蝉が脳裏を過った。あの蝉も、死を間際にして、泣かなかったのだろうか。だったら、あいつの中身も、詰まったままなのだろう。

 俺はその場に腰を下ろし、白く光る窓の外を眺めた後、飛び散ったコップの破片を丁寧に視線でなぞった。母親に謝らなければならない。母は、一人暮らしをさせるのは不安だと言いながら、俺の家具選びに誰よりも張り切っていた。このコップだって、割らないようにしなさいよと言われていた。それなのに壊してごめんなと、近いうち、今すぐにでも、顔を見て言わなければ。いつ携帯のボタンを押せなくなるのかもわからない。しかし俺は、周りに一部の隙もなく地雷が埋まっているのかと思うほど、この場所から一歩も動くことができなかった。

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蝉の腹 朝霧 @asgrso-ko

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