第4話 行人と海
「ゴホッ」
空気が気管に入る。驚いて飛び起きて、訳もわからずむせる。
「ゆっくり息して。落ち着いて」
波の音とその優しい声が頭に染み込んで、ユキヒトはおとなしく指示に従った。
そうして咳ではなく呼吸ができるようになった頃、やっと彼は状況を思い出した。
――飛び込んだ先輩を追って落ちて、溺れたんだ。
塩水でにじむ目をこすって柔らかい声がした方を向いた。
「な、なんで飛び込んだんですか!」
苦くて塩辛い口の中を無視して叫ぶ。彼女はひどく美しい笑顔を浮かべた。
「陸にいるって言ったから」
それがどうした、と反射的に叫びそうになった。けれどもまたむせて、どうしてアオイがそんなことを言ったのか、涙目でユキヒトは考えを巡らす。安心させるつもりだった言葉に、どうして彼女が飛び込んだ?
「……まさか、まさかなんですけど。『置いていく』ってふうにとりましたか?」
「違うの?」
それ以外に何かあるのか、と言いたげな柔らかい声。ユキヒトは泣きたくなってきた。顔を落として肩を震わす。海水じゃない温かい液体で頬が濡れる感覚があった。
「……せんぱい、ばか」
間が開いた。たっぷり五秒ほど。
「……えっと、バカってどういう意味?」
「僕の言葉を勘違いしたところです。笑って落ちたところです。そのあと飛び込んで溺れた僕を助けたところです」
「たくさんあるね」
「たくさんあるんです。僕は先輩の隣にいますっていう意味で言ったのに。先輩が海に棲もうと陸に飽きようと、僕は陸で待ってますって意味だったのに」
青い瞳が瞬いた。ユキヒトは顔を上げないまま続ける。
「笑って落ちたのも僕は悲しいんです。安心させたくて言ったのに飛び込んで。先輩ひどい」
「……ごめんね」
「そんなこと言いながら、どうせ後悔してないでしょう。海なら側にいてくれると思って、飛び込んだんでしょう」
人魚は海にいるはずの王子様を選んだのだ。ユキヒトよりも冷たく深い塩水を。
彼は口を動かした。アオイの顔なんて見ていない。ただ伝えたいことをしゃべる。
「それに、なんで僕を助けたんですか。あのまま溺れさせて欲しかった」
「……死にたかったの?」
「違いますよ! 先輩がいるなら溺れてもよかったっていう意味です! 落ちたのだって、先輩が飛び込んだのを見たら足が勝手に進んだんです!」
そうして顔を上げて、ゆっくりと目を見て話す。
「先輩こそ、どうして飛び込んだんですか? ――死にたかったんですか」
「……」
彼女はうっかりしてた、といったふうに笑った。
「……言わなきゃだめ?」
じろりと睨むと眉を下げて頬を掻いた。
ユキヒトの無言の肯定にアオイはくすりと笑う。
「――なんとなく、だね」
「……なんとなくですって?」
「そう……いや、なんとなくだと正確じゃないね。えっと、海にいると落ち着くって言ったでしょ? 私にとってここは逃げ場所で、生きるために必要な場所なの」
「……つまり、飛び込んだのはベッドに倒れこむみたいな気持ちだったってことですか?」
彼女は表情を緩めて笑う。
「ああ、うん、そんな感じ。でも懺悔させてもらうと死ぬ気も、ちょっとだけあったよ。ユキヒトくんから否定されて困ったから」
ズルいな、とユキヒトは思った。そんな言い方をされると、まるでアオイが死ぬほどの影響力が自分にあるみたいだ……死者に勝てることは決してないけれど、生者の中では上位でありたい。だから、深く安心した。
「でも、僕が飛び込んだから生きてるんですか?」
「そうだね。きっと、私一人だったらあのまま沈んでた」
「……そうですか」
ぐっと顔を拭った。流れた涙を拭いたつもりだったのにもう乾いていた。服もそこそこ乾燥して塩を吹いていた。空はもう赤さを失っていて、紺になろうとしていた。いくつか星がのぞいていた。
ユキヒトはぼんやりと言った。
「暑いですね」
突然変わった話にアオイは笑顔を浮かべる。色の見えない瞳でゆるりと笑った。
「そうね。日も落ちてきてるし、海の
二人は立ち上がって歩き出す。
砂を払って、思い出したようにユキヒトは顔を上げる。
「……あの、先輩。僕は陸にいますから、先輩は好きなように生きてください。人魚みたいに、泡になって消えないでくださいね」
目を細めるアオイにこっそりとささやいた。置いていかれることに、否定されることに恐怖する人魚にユキヒトは言い聞かせる。
「ずっと待ってます。僕は陸にいますから……
ちょっと照れて笑う彼にアオイは目を閉じた。そして細々と息を吸って、吐いて、泣くように笑った。
――赤い太陽に照らされていた時よりも、ずいぶん不恰好に。
「……ごめんね、
「いいえ、大丈夫です。塩と砂まみれですけど、結局二人とも生きてますし。崖の下に砂浜あってよかったですね」
バサバサと制服を振る彼にアオイは黒い瞳を瞬かせて、くすりと笑む。
「じゃあ、帰ろうか」
人魚は立ち上がって海を見た。
「またね、中川先輩」
ユキヒトはぽつりと聞こえた小さな声にひどく苛立った。まだ彼女は冷えた海を諦めていないのだ。
――まあ、そんなにすぐに割りきれるものではないだろうけど。
彼女にとってまだまだ海は逃げ場所で、冷たい場所にはなり得ない。泡になってでも隣にいきたいと思わせる存在のままなのだ。人魚姫は王子を求めて海を見る。きっと、心の安定である優しい世界を眺めることを、ただの群衆には変えられない。
――けれど、人魚姫が泡になることはなかった。
これからもそうならないように、彼女が泡になるのをためらうくらいには、心を預けて欲しい。王子になりたいとは思わないけれど、側にいることを許して欲しい。安心して欲しい。
彼女は彼女の世界で泳げないと、それを否定されると、その中で一人にしてしまうと、青い瞳で泣いてしまうから。
この人魚を、殺すことだけはしたくないから。
「……」
「どうしたの、ユキヒトくん? 難しい顔して」
「……いいえ、なんでもないです」
海を睨んで心中で宣言する。
僕はお前が嫌いだし、憎いし、先輩の中から消えて欲しい。だからこれから、見とけ。
――お前に対して先輩はここまで変わった。でも、これからの先輩の変化は……僕のものだ。
ユキヒトは唇の端を挑発的に吊り上げた。
そしてくるりと踵を返してアオイに追いつくと、取り繕うように口を開いた。
「あ、そうだ。先輩、あの時言えなかったから、今言わせてもらいますけど」
「あの時?」
「ほら、先輩が海に落ちる前の。その時に言いかけたやつです」
忘れているようだったから思い出させるつもりでアオイの瞳をのぞく。もう黒い色に戻っていて、彼は心底安堵した。
「あのですね、先輩は『プールの中の人魚』つまり『井の中の蛙大海を知らず』だって言ってましたよね?」
ぴっと人差し指を立てる。
「あのことわざって続きがあって、『井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る』んです。蛙は確かに海の広さを知らないけれど、でも、井戸の中から見上げてるからこそ、空が美しいことを知ってるんです」
ゆっくりと進んでいた二人の足が止まる。向き合って静かになったせいで、離れた波の音が聞こえた。
「だから、それを先輩ふうに言い換えると――」
「……」
「『プールの中の人魚海の広さを知らず、されど』」
そこでユキヒトは言葉を切って笑った。
「『されど、水の優しさを知る』」
「優しさ……?」
「優しさといいますか、水中での幸せといいますか。先輩、三年前よりも幸せそうに泳いでるんです。海に通用しなくても、小さな世界で、のんびりと生きればいいと、僕は思いますよ。選ばなくてもいいんです。どっちの世界も満喫してくださいね」
安心しましたか、という問いはおこがましくてできなかった。でも彼女が幸せそうに、納得したように息を吐いたのでユキヒトはそれでいいやと思った。
彼女の黒い瞳は、星のように光っていた。
***
――とある高校のプールには人魚が棲んでいる。泳ぎの上手い、美しい彼女。以前より泳ぐこと……有り体に言ってしまえば海が嫌いになったユキヒトは、しかしいつも通りプールサイドに立っている。
「あつ……」
ギラギラと光を返すプールの水面。倒れそうになるくらい青い空には、わたがしのような雲がひとつふたつ。
ユキヒトは昨日と変わらない暑さを恨めしく思って日陰に逃げた。
水中から見える白さを横目に学生ズボンのポケットを探る。指の先に触れたお目当てのものを引っ張り出し、棒を持って包みを開ける。そしてそのまま口にくわえて顔を緩めた。
――一番好きな、ソーダ味。甘くて爽やかで、どこかひんやりとしている。夏にぴったりだ。
ぱちゃりと波打ったプールと映った蒼白い肌と、ソーダ味のロリポップ。
アオイの変化の真相を知ったところで毎日は変わらない。
彼女は泡になることはなかったし、王子が生き返ることもない。彼女は今日もプールで泳ぐし、ユキヒトは彼女の側にいる。
相も変わらず、ユキヒトの夏を構成するのは焦げるような暑さ、口に広がる甘味、輝く水面とセットの人魚だけ。
些細な真実が彼女との関係性を変えることはなかった。それに深く安心してユキヒトは微笑する。
――また、彼女が望むのならば。
夕陽に焼けて、オレンジになった海を見に行きたいと思った。ユキヒトは青い海を大嫌いになったけれど。
――まあ、あいつに先輩を見せつけるのは悪くない。
……小さな真相を疎んじながらも、美しい人魚の隣で甘いロリポップがからりと転がった。
ロリポップと人魚 夏秋郁仁 @natuaki01
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