第3話 憧れと失敗

「足を浸けてただけですか?」

「うん、水着に着替えるの面倒だったから。って、そんな問題じゃないよね、ごめんね……」

 眉をハの字にして謝るアオイにユキヒトは苦笑した。本当に帰って欲しかったのなら鍵を彼が持っておくべきだったし、アオイがプールで遊んでいなければ海を見に行くという誘いが意味をなさないところだった。そのためユキヒトは

「大丈夫ですよ。予想できてましたし、居なかったら海に行くの、止めてますし。だから問題ないですよ?」

 と彼女の顔をのぞきこんだ。ユキヒトが本心から言っていることが分かったのかアオイは安心したように息をつく。

「なら、鍵返したら行こうか」

 その直後に言われた言葉にユキヒトは目を丸くした。

「……行ってくれるんですか?」

「そりゃ、もちろん」

 アオイも目を丸くして、笑った。

 海なのに、いいのか。先ほどの話を聞いたからかも知れないが、断られる前提で誘ったつもりだった。なのにあっさりと肯定される。

 好きな人間が死んだ場所に行こうという誘いに、彼女は容易く頷いた。

 自分から提案したため取り下げを口にすることはできず

「じゃあ、行きましょうか」

 とだけ素っ気なく言った。

 さっきのコーヒー味が残っているのか、口の中はやたら苦い。レモン味で更新したはずなのに、とイライラする。

「というか、ユキヒトくんこそ大丈夫? 門限あったよね?」

「いいんですよ。部活後に海に行って遅れようと、問題ないです。なんなら上手くごまかしますよ」

 ですから、大丈夫。

 さらりとそう返したユキヒトに、今度は彼女が苦笑した。

 ああ、苦さのまましゃべってしまったと、その顔を見て言い方を変える。意識的に笑みを作って柔らかく声を出した。

「……海の写真でも送れば、喜んでくれるでしょうから」

 二人でくすくすと笑って、ふいにアオイが眉をしかめた。

「って、話逸れてる……海、けっきょく行くの?」

「僕から誘ったんですから、群青先輩次第ですよ」

 ユキヒトの言葉にアオイは頬に指を当てて悩む。三拍ほど間をあけて、ふっと柔らかく笑った。

「――初めてだね。ユキヒトくんからどこかに行こうって誘ってくれるの」

 楽しげに微笑んだ彼女は首をかしげる。

「なにかあったの?」

「……いいえ、別に。なんか、見たくなったんですよ。ボーッと一時間くらい」

 美しい笑みを見ていることができずに目をそらした。

「じゃあ、行きましょう」


***


 予定通り人がいなかった。砂浜ではなくて入江のような場所だから、当たり前かとユキヒトは思う。

 彼が探し見つけた人の来ない穴場を、アオイはいたくお気に召したらしい。

 嬉しそうな雰囲気を隣で感じていると、勝手に事情を探って海に連れ出すという暴挙からの罪悪感が少し薄れた気がした。


 夏とはいえ部活終わりで、おまけにここまでの移動時間があったものだから空は焼けたように真っ赤になっていた。太陽が沈む前の、一番赤い時間。いい時に来たかもしれない、とユキヒトは少し浮かれる。

 ザバリと岸壁にぶつかる白い波に、広がる鮮やかな海。深い青のはずの大海は今は空を映してオレンジ色だ。色味は暑いけれど、潮騒のおかげで心地よさを覚えた。


 ――美しい海を見つめる彼女の瞳はやっぱり、今の海よりも純粋な青さをたたえていた。焦がれるような表情で、一心に見ている。

 この美しい人魚には、ユキヒトのことなんて見えていないのかも知れない。王子役は既に亡くなった。エキストラでは人魚姫に不相応だ。


 ……童話なら、このまま人魚が海に飛び込んで泡になるシーンだな、なんて。


 ぼーっと眺めていると目が合った。水面を固めたようなくすんだ青色。

 ふと、深い、吸い込まれそうに深い瞳が揺れる。学校にいた頃の明るい笑顔は潜んで、代わりに寂しそうな悲しそうな表情が浮かんだ。

「私ね、海の音を聞いてると落ち着くの……そして、無性に泣きたくもなるんだよ」

 小さく笑みを浮かべたアオイはそこで口を閉じる。

 波が五回くらい行って帰ったころ

「同じ部活にね、好きな人がいたんだ」

 と再び青い目をした。


「“私自身”を褒められたのが初めてだったの。今まで水泳に関しては言われてきてたけど『美人』とか『人魚みたい』とかは初めてだった」

 ぽつりぽつりと言い落とす。ユキヒトはおとなしく耳を傾ける。波の音とアオイの声は不思議なほど身体に染みこんだ。

「あんまり嬉しくて――嬉しくて、失敗しちゃった。勝手に期待を負った気分で、認めてもらうために頑張って、空回って、頑張って……の悪循環」

 そう言って彼女は横顔を自嘲に歪める。

「ある日『やめて』って言われちゃった。悲しかったけどしょうがないと思って、でも最後にデートくらいしてみたくて。だから『海で泳ぎましょう』って言ったの。私のいちばん好きな場所でなら諦められると思って……なのに、また失敗した」

 ゆらりと瞳が波打った。

「後から聞いたんだけど、勘違いされちゃってたらしくて。先輩は一人で海に行って、溺れて亡くなったって」

 ――泣くかなとそう思わせるほどに声が揺れているのに、青がこぼれることはなかった。

「私のあだ名知ってる? 『人魚姫』だって。ふふ、なのにね、そのあだ名を付けられてから水辺に行くなって言われたことがあるの……私にとってそれは世界なのにね」

 美しい顔で笑って、水に棲むことを決めた人魚は言葉を紡ぐ。声と表情が合っていないいびつさは、安心させてと彼に訴えているように見えた。

「ねえ……ユキヒトくんは、溺れないよね?」

 ――何にですか、という質問は波と重なって届かなかったらしい。


 海に? それとも先輩に? ……でも、どちらにしろ、溺れて死ぬような彼と同じになるつもりはない。

 そんな決意を込めて、静かに言葉を落とす。

「僕は、陸にいるので」

「……そっか」

「それにですね。前に先輩は『井の中の蛙』って言ってましたけど――」

 そう続けようとしていたユキヒトは彼女の表情を見ていなかった。満面の、いっそ泣いているように完璧で、美しい笑顔。

 ……それは、抜け目ない彼が犯した致命的なミス。




 ふらりと倒れるように、涙が落ちるように、人魚が海に飛び込んだ。

「――えっ、先輩!?」

 ざばん、とどこか遠くに聞こえた。


 とっさに、泡になって消える気か、と思った。ハッと頭を振って考える。

 ――先輩が、落ちた。いや、飛び込んだ? とにかく、助けなきゃ。この海の中へ? どうしよう。

 そんなことばかりが駆け巡る。ユキヒトは泳げない。アオイを助けに潜っても二人で沈むだけだと冷静な部分が言う。


 もう、救えない、どころか。


 ――そもそも彼女は助けを望んでいるのか?


 後ずさりをしたつもりだった。でも、動かした足は前に進んでいた。

「クソっ!!」

 自分に向けてそう罵って、ユキヒトは海に飛び込んだ。




 叩きつけられたような衝撃。混乱して、落ち着こうと息を吸う。ガボリと大量に塩水を飲んで、ああ海の中だったと思い出した。

 呼吸はできないし意識は霞んでいく。水の形をした死が身体をゆっくりと、しかし冷たく抱きしめてくる感覚があった。

 もう、バカ。なんで飛び込んだんだよ。

 ……だって先輩に会いたいから。

 短い言葉がユキヒトの頭に浮かんでは消える。


 けれどふっと思い出したのは落ち行くアオイの儚い笑顔。幸せそうな、けれども寂しそうな。自分の居場所は陸ではなかったのだと悲しむ人魚の表情。


 ――彼女と一緒に死ねるなら。

 しょうがないかと目を閉じる。

 暗くなっていく意識の中、瞼の裏には青いプールで輝く人魚のシルエットが映っていた。

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