故郷

@daysofwild

第1話

今日は出なければよかった。



そんな言葉を、数時間前から何度も頭の中で繰り返している。

広大な海の上で一人。漁船に乗っている仲間たちはみな眠ってしまっている。いや、気を失っているのかもしれない。


今いる海域が危険なことなど、当然知っていた。見習いとして漁船に乗せられた子供のころから、幾度となく聞かされていた。思えば両親もここで亡くなったのだったか。

13歳のときに漁へ出た両親がこの海に沈み、翌日にはもう "大将" のところへ引き取られていた。海に面した小さな村で、漁業が主な稼ぎだったために、その船を取りまとめる役だった大将は今思えばとんでもなく忙しかったはずだ。それでも、嘗てかわいがった教え子たちの息子だといって、その日からよくしてくれたのをずっと覚えている。

そんな大将でさえ、絶対に近づくなと弟子たちに釘を刺す海だった。今その真ん中にいることを痛感し、恐怖と焦りがさらに強くなって襲い掛かった。


なぜ同乗者たちはみな眠っているのか。なぜいっこうに陸地が見えないのか。なぜ予報になかった雷雨が降り注いでいるのか。わからないことだらけだった。

船の制御もままならない波と風の強さに、なんとなく死が近くにあるのを感じていた。強くなりすぎた恐怖は徐々に麻痺し、今から自分は両親と同じ場所に沈むのだという実感がぼんやりと湧きあがってきた。


この海域に消えた船は数知れないが、原因が判明しているわけではなかった。人は理解できない恐怖に直面するとオカルト的な要因を付加しようとするが、この場所も例に漏れず "戦争で沈んだ海兵たちの祟り" だの "島流しに処された罪人たちの霊" だのと色々噂されていた。祟りも霊も信じたことはないが、いざ本物の恐怖に直面すると、なるほど得体の知れないもののせいにするのも無理はない、と感じた。



おかえり。



声が聞こえた。

船の中から、ではない。依然として他の漁夫たちはみな目を覚まさずにいる。しかし海の中で誰かが喋っているわけもなく、幻聴だと判断した。そもそも、この嵐の中ではっきりと声が聞こえるなどという事があるはずもない。



元気だったかい。



再び同じ声。嵐の強さは変わらないのに、濁りなく明瞭に聞こえた。

二度も聞こえると、もはや意思を感じずにはいられない。霊の仕業だとして、誰が囁いているのだろうか。

"おかえり" という言葉や自分を知っている口ぶりからすると、両親の霊かもしれない。

最後にここに沈むことは、親孝行なのだろうか。そんな考えがふと頭によぎった。



みんな待ってるよ。繧キ繝ウ繧キ繧「も、繝峨Ο繝ャ繧ケも、久しぶりに君に会いたいって。



急に音がぶれた。人の名前だろうか?その部分だけがよく聞き取れなかった。聞き覚えのある響きではあるが、誰の名前かは思い出せない。

目を閉じて記憶を辿ろうとするが、これまた顔がぼやけてはっきりと思い出せなかった。ならば一緒に何かをした思い出は、と考えるが、それも相手の部分だけが靄のかかったように分からなかった。


どうしても思い出せず、諦めて目を開けると、立っている場所は船ではなかった。

雑草が生い茂ってはいるが、かろうじて整備された跡のある道。周りには荒れ果てた畑や、人は到底住めなさそうな空き家。何故かわからないが、海ではなく陸にいるようだった。

我が家のある村が荒廃しきったらこんな具合になるだろう、と考えたが、決定的に違うのは空だ。風景が仄暗いことから夜なのだと思い込んでいたが、それにしては妙に空が青みがかっていた。まるで、小さいころ図鑑で読んだ深海のような色だった。


―――そうか、深海か。ここは海の底なのだ。

自分ではオカルトの類を一切信じない質だと思っていたが、わけもなく一瞬でそう結論付けてしまった。さも昔からよく知っていた場所のように。

昔からよく知っているといえば、先ほどの声は何だったのだろう。言葉からして両親のように思ったが、最後に聞こえた二つの名前はやはり思い出せない。しかし何らかの記憶の中で知っていることには間違いない。海の上で聞こえたという事は、この場所のどこかにいるのだろうか。

孤独に耐え切れなかったのか、懐かしいものを求めて歩き出した。漁村に生まれて、数々の知り合いがあの海域に沈んだ。両親がいるのなら、彼らもきっといるはず。

道を歩いてゆくと、遠くから話し声が聞こえた。船で聞こえたようにはっきりとしたものではなく、ざわざわと話す群衆のような声。

足を止めて耳を澄ませると、陽気な笑い声が混ざっているのがわかった。話す内容はわからないまでも、酒の席でする馬鹿話のような、いかにも楽しげな雰囲気がありありと感じられた。

きっとみんなそこにいる。いてもたってもいられなくなり、声のするほうへと走り出した。




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