恋泥棒
だいち
恋泥棒
探偵と聞けばどんなイメージを持たれるだろうか。
物語の中の探偵といえば、事件を興味深げに観察し、楽しそうに推理し、そして颯爽と解決するものが多いだろう。
しかしそんなものはいわば理想像ともいえるものだ。実際の探偵というのは往々にして、便利屋と変わらないような扱いを受けている。
ペット捜索、失せ物探し、探偵らしいものといえば浮気調査くらいだろうか? もし物語の中のような事件に遭遇したとして、市民は大抵警察に頼るものだ。探偵にやって来る依頼といえば、警察が取り合ってくれなかっただとか、あるいは依頼人自身でも解決できそうなくらい些細なものばかり。
それは魔法が息衝く世界でも変わらない。
魔道具大国であるこの国に構えられているガードナー探偵事務所に舞い込む依頼も、それらとさして変わらないものが多いのだ。
シェリル・グリーズはガードナー探偵事務所で事務員として働いている。とはいっても業務内容は経理などの事務だけでなく、雑用のようなものも含んでいた。
ここの主人であるルーカス・ガードナーには生活能力が著しく欠如しているため、シェリルが彼の面倒を見ていると言っても過言ではない。まあ、曲なりにも恋人だし、頼られるのに悪い気はしないのでシェリルは口では文句を言いつつも内心ではこの生活を気に入っていた。シェリルは好きな人には尽くしたいタイプだった。
そんなシェリルは今朝届いたばかりの郵便物を確認していた。ポストに入っていたそれらをルーカスの部屋に向かいながら仕分けていく。
魔道具店新装開店のチラシと一ヶ月後に控えたフリーマーケットのお知らせは至急のものではないから棚の上へ。ここの主であるルーカスが何故か気に入って購読しているゴシップ誌と朝刊は朝食の後に彼が読むので彼の仕事机に。そして本命ともいうべき依頼の手紙は二通。これは一旦シェリルが中身を確かめる事になっているので、ルーカスの部屋へ行く前に確認する。
一通目の差出人はリズベット・スミス。彼女はシェリルとルーカスにとって馴染みのある相手だった。
スミス家はこの国で一番といっても差し支えない宝石商の家だ。リズベットはそこに嫁ぎ、ゲオルグ・スミスという男の妻となった。しかしゲオルグは数年前に亡くなってしまい、今はリズベットが女主人としてスミス家を運営している。
そしてリズベットは猫を一匹飼っているのだが、それがまた厄介な猫だった。リズベットの飼い猫の名前はゲオルグという。そう、彼女の死んだ夫と同じ名前だ。
リズベットはゲオルグを夫の生まれ変わりだと信じており、猫に向けるものではないだろうという程の執着を抱いている。全てを包み込むような優しい彼女の愛情は、確かに良妻という雰囲気を持っていた。
しかしゲオルグは猫らしく奔放で、そして脱走癖までも備わっていたのだ。
そしてその脱走したゲオルグを探してほしいと、毎回依頼に来るのがリズベットだった。その頻度は一ヶ月に一回以上。そうすると自然と馴染みになってしまい、シェリルとルーカスは密かに彼らにあだ名を付けていた。
ミスター・キャットとネコ夫人。流石にリズベット本人の目の前で呼んだ事はないが、ゲオルグの事はそう呼んでいる。ゲオルグは賢い猫で、名前で呼んでもあだ名で呼んでもしっかり反応を返してくれるのだ。だが以前試しに適当な名前で呼んでみたら耳をぴくりとも動かさなかったので、しっかり自分が呼ばれているという事は分かっているようだった。
さて、リズベットからの手紙を開けてみればやはりゲオルグ捜索の依頼だった。リズベットはシェリルとルーカスを信用しているのか何なのか、三度目の依頼からは手紙に返信不要、ゲオルグが見つかった時に連絡を寄越してほしいと書くようになった。まあ、ゲオルグ捜索の最長記録は一日だ。頻度は高いが、必ず一日以内に戻ってくる。
しかも毎回無傷で帰ってくるし、リズベットも散歩の一環だと思っているのかもしれない。以前、夫は散歩や旅行が好きだったからだろうとリズベットが言っていたのを思い出す。
シェリルはそれもまた小脇に挟み、もう一通の方の手紙の差出人を確認する。
レイチェル・ヘイズ。初めて見る名前だった。シェリルは中身をざっと見て、そしてその内容に目を瞠った。
「恋心が、奪われた?」
女性らしいしなやかな筆跡で書かれていたその手紙を持ったまま、シェリルはその場に立ち尽くした。きっとこの手紙の差出人であるレイチェルは魔力持ちなのだろう。文面から彼女の痛烈なまでの切なさと悲しさが、シェリルに伝わってきた。
しかしいつまでも立ち尽くしているわけには行かなかった。ルーカスを起こして朝食を食べさせなければならないし、今日はゲオルグの捜索にも行かなくてはならない。
シェリルは一つ息を吐いて、ルーカスの部屋のドアを開けた。
部屋に入るとまず目に付くのは膨らんだベッド。一定のリズムで上下しているところを見るに、ずいぶんとぐっすり眠っているらしい。シェリルがベッドに寝ているルーカスの顔を覗き込むと、それはもう気持ちよさそうで起こすのが少し忍びなくなる。しかし毎朝の事なので。シェリルは慣れた様子でルーカスに声を掛ける。
「おはよう、ルーカス。起きて。もう朝だよ」
シェリルがそう言って揺さぶってもルーカスは呻き声をあげて布団に潜ってしまう。しかし例え一度でも揺さぶられたりでもして意識が浮上すれば、ルーカスは二度寝が出来ないタイプなのでいずれ起きる。朝食を並べている内に起きてくるだろう、と思ってシェリルは踵を返そうとしたがルーカスの足元が不自然に膨らんでいるのが目に留まった。
恐らくルーカスの足ではない。位置的にもおかしいし、なんだか膨らみが丸いのだ。シェリルは恐る恐る、その膨らみを指先でちょんとつつく。
つつかれた膨らみは勢い良く動き、その中にいたであろうものがばっと布団から飛び出した。残像を残してベッドの傍らに降り立ったそれを目で追うも、そこには猫がいた。
真っ白でふわふわ長毛種で、首にはもふもふの毛に埋もれて宝石があしらわれた首輪をしている。その猫はシェリルを警戒する様子も怯えた様子もなく、堂々たる風格でなぁん、と鳴いた。
「ミスター・キャット!?」
驚いたシェリルの大声にも動じない、ミスター・キャットことゲオルグは未だベッドの中にいるルーカスのもとへ歩いていって、彼の顔をてしてしと叩いた。魅惑の肉球タッチである。
てしてし、てしてしと脱走で鍛えた硬めの肉球タッチに流石のルーカスも目を開く。
「ミスター・キャット? お前またネコ夫人に黙って出てきたのか?」
んなぅ、と不満気な声をあげるゲオルグは更に、てしてしてしとルーカスの頬を叩く。あいてて、とさして痛くなさそうな声を上げるルーカスを見かねたシェリルはゲオルグを呼んだ。
「こっちおいで、ミスター」
ゲオルグは不満そうにルーカスからシェリルに視線を移し、シェリルの許へ歩いてきた。やはりゲオルグは人間の言葉が分かっているのではないかと、シェリルはこういうところを見る度に思う。一度魔法動物かどうか検査をしてもらったらどうかと提案してみたい。
「さ、朝ごはんにしましょ。ミスターの分もちゃんと用意しないとね」
そう言った途端にぴんと尻尾を立たせるところは猫らしくて可愛らしい。ゲオルグはシェリルが開けた扉の隙間から部屋の外へ滑り出て、急かすようにシェリルを見上げた。
「待って、ミスター。今用意するから」
ゲオルグの脱走が余りにも頻繁なため、ガードナー探偵事務所にはある程度のネコのお世話グッズと餌とおやつが常備してある。初めてやって来る依頼人のほとんどがこの事務所は猫を飼っているのだと勘違いする程の充実っぷりだ。
シェリルはその中のキャットフードの袋を手に取り、いつの間にかゲオルグ専用となった青い皿にキャットフードを入れて、白い皿に水も入れる。それらを両手に持って、ゲオルグが待っている食卓の横に置いた。ゲオルグはいつも餌を待つ時はここにいる。キャットフードの袋を狙うでもなく、催促するように足元に纏わりつく事もない。
やっぱり賢い猫だな、と思いながらシェリルはトースターにパンを2枚セットした。ルーカスが起きて、顔を洗って食卓に来る頃にはきつね色に染まっているだろうトーストを思い浮かべる。サラダと目玉焼きを皿に盛り付けて、昨晩の余りのコンソメスープをカップによそう。
これで鍋の中身は空っぽだ。やはり過不足なくきっちり中身が無くなった鍋は気持ちが良い。ちょっとした達成感がある。
シェリルは上機嫌に鍋をシンクに置いて、水を入れて置く。そして皿とカップを食卓に運んだと同時にルーカスがようやく部屋から出てきた。
「おはよう、やっと目が覚めた?」
「うん…… おはよう、シェリル」
ルーカスはあくびをしながら洗面所へ歩いていった。彼がまだ少し眠そうなのに起きてきてくれるのは、シェリルにとって毎朝の小さな喜びだった。また今日も彼と一緒に朝食の席を囲める。それがシェリルは嬉しく思うし、彼もそうだったらいいなと思う。
パンが焼き上がった事を知らせる音がトースターから聞こえて、シェリルはこんがりきつね色になったトーストを皿に載せた。
それを持って食卓に向かうと、洗面所から帰って来たルーカスがちょうど椅子に座るところだった。ナイスタイミング、と小さく呟いて眠気が完全に去ってはいないルーカスの前に皿を置いた。
「……あんがと」
「どういたしまして」
シェリルは彼の向かいに座って、二人は朝食を食べ始める。シェリルはこの時間が好きだ。一日の始まりを好きな人と共に過ごすこの些細な日常に幸せを感じる。朝食を食べ進めると同時に、ルーカスは段々と眠たげな顔から覚醒していく。そして食べ終わったらルーカスが洗い物を引き受けて、私がテーブルを拭いた。
いつもの朝だ。いや、今日はゲオルグがいるからちょっと普段とは違うけれど。それでも平和な、シェリルが愛す朝の時間だった。
洗い物を片付けたら二人は仕事場にしている部屋に行って、依頼の手紙を確認する。ゲオルグも二人の後を着いてきて、日当たりの良い場所に丸くなった。
「まず一通目。これはネコ夫人からのものでゲオルグは既にここにいたから後で連絡を差し上げてお迎えに来てもらいましょう」
「そうだな、全く何でミスターはうちにいたんだか……。それで、二通目は?」
「これよ。レイチェル・ヘイズっていう女性から」
手渡した手紙を見て、ルーカスは眉を潜めた。その気持ちはシェリルにも分かる。今までルーカスの許に来た依頼で、こんな創作物の中に出てくるような依頼はなかった。それを差し置いても、恋心が奪われたなど、魔法が存在するこの世界ですら俄に信じられるものではない。
「恋人の態度が急におかしくなって、問い詰めてみたら自分と恋人だった事を忘れていて、更には恋愛感情、そして今までの恋をした記憶全てを忘れていた、ねぇ……」
手紙から顔を上げたルーカスは訝し気な表情でシェリルを見た。しかしシェリルも何と言ってよいのか分からない。こんなに不可思議な事件は始めてだった。
「心変わりとか、別れ話をヘイズさんが受け入れられない、って事はないのかしら」
「それは彼女に会ってみないとなんとも……。文面からそういうのは分からないからなぁ」
その時突然、手紙を挟んで仕事机に向かい合っているシェリルとルーカスの間に真っ白な塊が割り込んできた。驚いた二人が目を瞬かせると、ゲオルグが仕事机の上に乗っている。更に、ゲオルグはついさっきまでルーカスが持っていた依頼の手紙と封筒を咥えていた。
「あっ、ミスター・キャット!」
こら、と叱って手紙を取り返さなければと思って伸ばしたシェリルの手は空を掻き、ゲオルグは身軽な動きで二人から逃げた。
そしてそのまま窓のところへ跳び移ると、器用に鍵を開けてそこから出ていってしまった。しかし二人は今更そんな事では驚かなかった。猫らしからぬゲオルグの事だ。この程度の芸当、たやすくやってのけるだろう。むしろシェリルは今までお利口だったゲオルグがいきなり手紙を奪って逃げた事に驚いていた。
「追いかけなきゃ!」
「いいや、俺が行くよ。シェリルはもしミスター・キャットが帰って来た時のために事務所にいてくれ」
そう言うルーカスにシェリルは少し驚いた。いつもは二人で探しに行って、そしてゲオルグと一緒に帰ってくるというのに。
「でも」
「ほら、こうしている間にもミスター・キャットはきっと逃げ続けてるぞ? 俺の方が足が速いしさ」
そう言うルーカスに釈然としないものの、シェリルは頷きを返した。確かにシェリルは運動はあまり得意ではなかったからゲオルグを追いかけるのは難しいだろう。それに早く行かないとどこに行ったのかも分からなくなってしまう。
「大丈夫、ちゃんと連れ帰ってくるよ」
膨れ面のシェリルの額に、ルーカスはキスを一つおとした。まるで幼子をあやすような行為だが、そこに確かな愛情がある事をシェリルは知っている。
「うん、分かった。いってらっしゃい」
いってきます、と言って出ていくルーカスを見送るのは久し振りだ。留守番を言い渡されたシェリルはさてどうしようかと部屋を見渡した。そして朝刊とゴシップ誌が開かれる事のないまま仕事机に置かれているのが目に入った。 そういえば今朝は依頼の手紙が来ていたし、今はゲオルグを探しに行ってしまったからルーカスはまだこれらを読んでいないのだ。
シェリルは普段こういうものを読んだりしない。せいぜい朝刊の一面をざっと見るくらいだ。
でもたまにはいいかもしれない。シェリルは朝刊を開いて読み始めた。
しかし改めて読んでみると、飽きもせず事件というのは毎日起こるものだなと思った。朝刊に載るだけのものでもこれだけの量があるのだ。いっそ感心を覚えながらシェリルは朝刊を捲る。
そしてその中で、一つの記事に目を留めた。
宝石強盗。スミス家が運営するグループの宝石店に強盗が押し入ったという記事だった。奪われたのは高純度の
氷晶といえば、お守りとして使われる事の多い宝石だ。強い魔力が宿る地にできた氷柱を削って作り出す天然の宝石。育った場所の魔力故か、炎に放り込んでも溶けずに残る。しかし持ち主に危機が迫った時に溶けて危険を知らせるという代物だ。それを利用して、一度溶けたものに魔力を込め直してより強いお守りとする方法もある。
そんな氷晶は当然高価で、スミス商会が扱っている高純度のものなどシェリルみたいな庶民は一生目にする事もないくらい。そんなものが盗まれたなど、スミス商会には結構な痛手ではないだろうか。
しかし、そう考えるとシェリルは少しリズベットに同情してしまった。彼女が同情されるような柔な女性ではないと知っているが、この短期間に支店に強盗が入り、更には恒例の飼い猫の脱走。シェリルだったらめげてしまいそうだ。
早くゲオルグを見つけて、少しでもリズベットの心に安寧が訪れれば良いと、シェリルは思った。
その他にも詐欺や盗難の事件やら、逆に動物園で赤ちゃんが誕生したという微笑ましいニュースも小さい記事ながらあった。そしてシェリルが朝刊を読み終わってもまだルーカスとゲオルグは帰って来ず、昼食の支度をするにも早い。
これも読んでみようかな、とシェリルはなんとなくゴシップ誌を手に取った。ルーカスが定期購入しているものを彼より先に読むのは少し気が引けるけれど、彼はそういう事はあまり気にしないだろう。ぱらぱらとページを捲りながら胡散臭いゴシップ誌を見る。眉唾物だろうという大袈裟な魔法事件になんとなくで目を通していると、あるページに目が釘付けになった。
恋心盗難事件、という見出しのその記事の内容は、レイチェル・ヘイズから送られてきた手紙の内容と酷似していたのだ。
そして恋人の恋心が奪われたと訴える人間はもう三桁に上るらしい。胡散臭いゴシップ誌に書かれている事だけれど、根も葉もない噂だと流す事はできなかった。
シェリルは目を皿にするようにしてその記事を読み込んだ。見開き一ページのその隅から隅まで、書いてある事が真実だとは限らない。それでも、シェリルはその記事を読んだ。
それは単に、レイチェル・ヘイズの切なる思いを知ってしまったからだった。見知らぬ依頼人であるレイチェル。しかし、シェリルは彼女の文面から痛々しい程の切なさを感じた。彼女がどんな想いでこのガードナー探偵事務所に依頼したかと考えると、シェリルの胸に締め付けられるような感覚が起こったのだ。シェリルは時計が昼を知らせる鐘を鳴らすまで、そのページから目を離さなかった。
結局ルーカスとゲオルグが帰って来たのはシェリルが昼食を食べ終わって、洗い物をしている最中だった。
「ただいま~」
玄関から聞こえたその疲れの滲んだ声に、シェリルは洗い物の手を止めて声の許へ向かう。
「おかえり。お疲れ様、ルーカス」
「あぁ、シェリル。お腹空いたよ、今日の昼御飯は?」
「サンドイッチ。いつ帰ってくるか分からなかったから冷めても大丈夫なようにね」
「ありがとう。手、洗ってくる」
そう言ってルーカスが洗面所へ向かった玄関に残されたシェリルは、ゲオルグにきっと眉を吊り上げた表情を見せた。
「どうしてこんな事をしたの、ミスター・キャット。今までずっとお利口だったのに今日いきなりあんな事をして……」
シェリルの言葉に、ゲオルグはんなぅ、と力なく鳴いた。ぺたりと座り込んで尻尾を足の間に入れ、耳を下げたその姿は確かに反省を表していた。
そんな様子を見るとシェリルの毒気も抜かれてしまって、何も言えなくなってしまった。反省している相手に更に言葉を募るのは追い詰めてしまうし、可哀想だ。ゲオルグは賢い猫だからきっともうこんな悪戯はしないだろう。
「もうこんな事しちゃダメよ」
シェリルはそう言うとキッチンへ戻った。ゲオルグもその後をとぼとぼと着いて来て、居間の隅に丸くなった。
シェリルはそんな様子を見ているとどうにも居心地が悪くなってしまった。
シェリルが洗い物を終えて居間へ行くと、ゲオルグは先程の場所から動かずにいた。
「ねぇ、ミスター・キャット」
シェリルの声にぴくりと耳を動かしたものの、ゲオルグは壁を向いたままだ。
「そんなにしょげないで。ひとまずあなたが無事で、私達は安心しているのよ。もうすぐネコ夫人も迎えに来るんだから元気を出して」
そう言って背中を撫でると、ゲオルグもんな…… と返事を返してくれた。
「とりあえず水をいつものところに置いておくから、喉が渇いたら飲んでね」
そう言ってシェリルは仕事場へ向かった。ネコ夫人にゲオルグが見つかったと連絡をしなければならない。
シェリルから連絡を受けたリズベットは日暮れより少し前にガードナー探偵事務所にやって来た。
「ごきげんよう。ミスター・ガードナー、ミス・グリーズ」
「こんにちは、ミセス・スミス」
リズベットの来訪は最早幾度目になっただろうか。慣れた様子でソファに座ったリズベットに紅茶を出して、シェリルはぼんやり考えた。
「ミスター・スミスは今日も無事に見付かりましたよ」
「どうもありがとう。ゲオルグのお転婆にも困ったものねぇ」
膝の上に乗ったゲオルグを撫でながらそう言うものの、リズベットのその声には確かな愛情が滲んでいた。
リズベットとゲオルグが帰った後、二人は夕食の支度をしながら今日の出来事を話していた。
「それにしても、ミスター・キャットが一日に二回も脱走するなんて……。これは初めてじゃない?」
「確かに。ま、ミスター・キャットが無事だったんだしひとまず良いんじゃないの。これでまたネコ夫人からたんまり謝礼が貰えたし」
わざと明るく言ってくれているルーカスには悪いが、シェリルにはもう一つ憂慮する事があるのだ。
「でも、ヘイズさんの方はどうするの?」
「あー……。手紙に書いてあった連絡先、控えてない?」
「うん。まさかミスター・キャットが手紙を持っていっちゃうなんて思ってもみなかったから」
「確かになぁ……。どうにかしてヘイズさんに連絡を取らなきゃな」
もう日も暮れるというのに、二人のやるべき事は終わっていなかった。しかし封筒ごと失くなってしまった手紙のいい返信方法も思い付かず、二人は頭を悩ませるのだった。
ひとまず、腹が減っては働く頭も働かない、と二人は夕食を摂る事にした。ちなみに今夜のメニューはハンバーグだ。しかも中にチーズが入っている。
「あ、ルーカス。今日朝刊とゴシップ誌を読んでみたの。あなたが定期購入しているものなのに勝手に読んでごめんね」
「いや、気にしなくていいよ。それにしても珍しいね。朝刊はともかくゴシップ誌をシェリルが読んだのなんて初めてじゃない?」
「うん。留守番をするにしてもやる事がなくて暇だったから」
ハンバーグの中のチーズが皿に広がる。切り分けたハンバーグにソースと混ざったそれを絡めて口に運んだ。ルーカスはパンをちぎってソースに付けて食べている。
「それでね、今日をゴシップ誌を見ていたら恋心盗難事件って記事があったの。被害者はヘイズさんの恋人だけじゃないらしいわ。あと、魔法が関係している線が濃厚だって。まあ、ゴシップ誌が大袈裟に書いているだけかもしれないけれど」
「それが本当だとしたら、結構大きな事件なのかもな」
シェリルは口の中のパンを飲み込んで、そう、と何かを思い立ったように声を上げた。
「ふと思ったんだけど」
「ん?」
「どうしてヘイズさんも他の被害者も、恋心が奪われたって思ったのかしら。消えたとかは考えなかったのかな」
「まぁ、いきなり自然と感情と記憶が消えるなんて普通考えられないからね。人為的なものを疑うのが筋だ。それに、多分魔法が関係しているってのが本当だって事だと思う」
「どういう事?」
「多分、今明らかになってるこの事件の被害者の恋人は多分強い魔力を持った人間が殆どだ。だから、恋人が慣れない魔力を纏っているのが分かったんじゃないか? 魔力を持たない人間だって、魔道具や魔法薬を使えばそれを作った人の魔力を少しながら纏う。だから普段の生活を送るだけで、人は皆見知らぬ誰かしらの魔力を纏っている事が多いだろう? けれどそこに新たな魔力が混じった。それを先天的に強い魔力を持った彼ら彼女らは感じ取った。しかしそれらは新しい魔道具や魔法薬を使ったからだと思ったんだろう。一度流してしまって、改めて考えたらそこが疑わしかった。だからきっとそこに盗人の魔力が紛れてしまったと考えたんだと思う」
なるほど確かに。頷いたシェリルはハンバーグを咀嚼しながら考えた。
とんでもなく優秀で魔法について研鑽を積んだ、それこそ魔法を生業にして生きている人間ならともかく一般人に纏っている魔力の識別は難しい。ルーカスの言った通り、人が纏う知らない魔力の中に紛れてしまえば、それらを一つ一つ紐解いて解析するのは至難の技だといわれている。
依頼人のレイチェルも恐らく強い魔力の持ち主だ。文面からあんなに感情を読み手に伝える事は、恐らく無意識にやってしまった事だろう。彼女はそれが出来る程の魔力を持っていると考えられた。
レイチェルに連絡が取れない現状ではあるが、ルーカスもシェリルもこの事件を調査する気になっている。
二人は夕食を食べ終わって、いつもの夜ののんびりとした時間を過ごした。そして明日、レイチェルと連絡を取れる方法を考えようと約束してからそれぞれの寝室へ向かった。
今日は朝から驚きの連続だったけれど、無事に終える事ができてよかった。明日もやらなければいけない事はあるけれど、ルーカスがいれば大丈夫だろう。シェリルはベッドの中でそんな事を考えながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
翌朝、シェリルはいつものように目覚め、身支度を整え、スープを温め、ポストの中を確認するために蓋を開けた。そこまでは、いつもの日常と何ら変わりがなかった。
だが、ポストを覗いたところでおやと思った。ポストの中身が空っぽだったのだ。依頼の手紙が入っていない事はままあるが、チラシや朝刊、ゴシップ誌までないのはおかしい。まさか泥棒かと疑ったが、郵便物を盗んだとして利益があるとも思えない。シェリルは疑問が尽きなかったが、鍋を火に掛けていた事もあり部屋の中に戻った。
キッチンに戻ってきたシェリルはスープの火を止めてルーカスの部屋に向かう。そしてルーカスの部屋に入ったシェリルはあるものに目を留めた。ルーカスのベッドサイドの棚に郵便物が纏めて置いてある。ルーカスが取ったのだろうか。だが朝に弱い彼がわざわざそんな事をするとも思えないし、彼は二度寝が出来ない質だ。
不思議に思いつつも、シェリルはいつものようにルーカスを起こす。
「おはよう、ルーカス」
そう言って揺すっても反応がない。いつもなら多少の呻き声くらいはあるというのに。
「ねぇ、ルーカス。もうご飯も出来てるわ、起きてってば」
「もう起きてる」
低い声でそう言ったルーカスは、ありありと不機嫌を滲ませた顔でシェリルを見た。そんなルーカスの表情を見たのは随分と久し振りで、シェリルはたじろぐ。
「あー、シェリル・グリーズ」
シェリルの背に、嫌なものが走った。ルーカスがシェリルの事をフルネームで呼んだ事など、それこそ出会った当初だけだ。恋人となってからはいつでも、シェリル、とそう呼んでくれたのに。
「君は確かに俺の事務所の事務員だが、そこまでしてもらわなくてもいい」
「……え?」
「俺は朝食を食べなくても平気な質だし、いくら同居しているからと言って君の生活習慣をこちらに押し付けないで頂きたい。君の仕事振りは優秀だが、そこまで世話を焼く事は」
ルーカスの言葉が途中で切れた。何故なら、来客を知らせるチャイムが響いたからだった。
「君は朝食を食べ食べるといい。来客の相手は俺がする」
「でも……」
「依頼人の対応くらい一人で出来るさ。君に世話を掛ける必要はない」
無慈悲にも背を向けて仕事場へ行ってしまったルーカスを追いかける事が、シェリルには出来なかった。
ただ居間に立ち尽くすシェリルは湯気の立つスープをカップによそう事もせず、ルーカスが出ていった扉を見つめていた。
結局朝食を食べる気にも慣れなくて、シェリルは仕事場に向かった。
かちゃりと仕事場のドアを開けたシェリルを見てルーカスは方眉を上げたものの何かを言う事もせずに仕事机を挟んで向かい合った女性の顔に視線を戻した。
女性は目をぱちくりとさせてシェリルを見つめていた。それに気付いたシェリルはどうしようもない居心地の悪さを感じてしまって、咄嗟に口を開く。
「あの、初めまして。シェリル・グリーズです。ここで事務員をしています」
「あ、初めまして。レイチェル・ヘイズです。昨日お手紙のお返事が来て、出来るだけ早く来てほしいとの事だったのでこんな時間ではご迷惑かとも思いましたが……」
え、と言いたかったがその言葉は咄嗟に堪えた。ルーカスをちらと見たが彼はこちらを一瞥する様子もなく、レイチェルに椅子を進めている。
レイチェルがソファに座ったがシェリルはそうするわけにも行かず、彼らの前に紅茶があるもののお茶菓子がない事に気付いて取りに行く。その間もルーカスとレイチェルの話に聞き耳を立てていた。
恋人と会う約束の日に恋人と会ったら、いきなり恋人の様子が豹変していたという。目立った変化は少なかった。しかし、一緒に過ごしていく内に違和感に気付き、恋人がレイチェルと恋人であった記憶とレイチェルへの恋心を失くしていたという。大まかな内容は手紙に書いてあった事と変わらない。そして昨晩ルーカスが言っていた通り、見知らぬ魔力を感じたから探偵に相談した、という内容だった。
レイチェルは二人にお茶菓子を出した後、なんとなく手持ち無沙汰になってしまって仕事場を出た。何故か、シェリルには視線すらろくに向けてくれないルーカス。そんな彼が真摯にレイチェルを見つめていた。それが、今のシェリルにはどうしようもなく辛かったのだ。
有り体な嫉妬だ。だが、仕方ないだろう。それに、シェリルはルーカスの恋人だ。悋気を起こす権利だって、彼を独占する権利だって持っている筈だ。
でも、そこまで考えてはたと思った。
ルーカスは、自分の事を恋人だと思っているのだろうか?
嫌な言葉が頭を過った。そうだ、まさしく今、自分達の状況はこれに酷似しているではないか。
恋心盗難事件。
今のルーカスは、恋心も記憶も失くしている。そうだ、そう考えればあの態度にも、視線にも辻褄が会う。
今のルーカスは、シェリルの恋人ではないのだ。
その事に気付いてしまったシェリルは、事務所を飛び出してしまった。
行く宛もないシェリルは、ただ朝の人通りの少ない町を歩いていた。その胸に渦巻くのはどうしようもない寂しさと、泣き出したいような心細さ。そして己への情けなさだった。
「待て、そこの猫野郎!」
しかし、とぼとぼと歩いているシェリルの遠く背後から大声が響いた。どうやら感傷に浸らせてくれもしないらしい。通りの隅に寄ったシェリルは、また俯いて歩き出す。
ルーカス。心の中で名前を呼んだ。無性に彼に会いたかった。名前を呼んでほしいと思った。笑いかけてほしいと思った。
多分、普段は意識していなくて、こういう時になってどうしようもなく恋しくなるのだ。
大切なものには失ってから気付くとは良く言うもので、シェリルの胸は切なさで膨れ上がって、今にも弾けてしまいそうだった。それをギリギリのところで保っているのは、小さな小さなプライドだった。
普段はこっちがしてやらなきゃまともに生活も出来ない癖に。すぐ甘えてくる癖に。
そして、恋人であるシェリルの事を忘れてしまったルーカスから、弱い存在だと思われるのは癪だった。
けれど、何も言わずに飛び出てきてしまった。どうしよう、と思うと更に気持ちが鬱々と沈んでいった。
しかし、そんなシェリルの背中に突然の衝撃。何かをぶつけられたような感覚だった。身構える事の出来なかったシェリルはそのまま前方に倒れ、咄嗟に衝いた腕でどうにか地面とのキスは免れた。
そして背中が軽くなる感覚と同時に傍らに降り立ったのは、ゲオルグだった。何かよくわかさらない、薄い魔道具らしきものを咥えている。
「ミスター・キャット? あなた今日もお散歩をして……」
「お前がこの猫の飼い主か!?」
「ひぇっ!?」
急に怒鳴られたシェリルは驚いて肩をすくめた。そして声の主を見ると、明らかに怒っていますという表情の男性が仁王立ちをしていた。
「あ、あの、この子がどうかしましたか?」
「どうもこうもあるか! この猫は朝っぱらからうちで一番高い商品を盗みやがって! 折角新装開店したってのに!」
それを聞いてシェリルは昨日の朝のチラシを思い出した。魔道具店の新装開店。それがどうやらこの男性の店らしい。
ゲオルグの咥えている魔道具が店主の言う一番高い商品だろう。シェリルはそれを返すためにゲオルグの咥えているそれを引っ張ろうとした。
「ごめんなさい! 今すぐお返ししますので…… って全然取れない! 離しなさいミスター・キャット!」
「やめろ馬鹿、壊れるだろう! それに猫の涎だらけの商品なんて売れるか! そっちが買い取ってくれ!」
「わ、わかりました! 本当にごめんなさい!」
もうこれ以上怒鳴られたくなかったシェリルは咄嗟にそう口走り、代金を取ってくるために一度帰りたいと言った。着いてきて構わない、とも言ったので、シェリルは店主をガードナー探偵事務所の前に待たせ、急いで代金を支払った。魔道具の代金は、シェリルの貯金とへそくりでようやっと足りた。
今日は朝からついていなさすぎる。踏んだり蹴ったりとは正にこの事だ。
心が憔悴してしまったシェリルは自室のベッドの上で体育座りになり、溜め息を吐いた。視線の先の高価な魔道具とそれにじゃれるミスターキャットに、弱々しい声をかける。
「もう、ミスター・キャット……。最近悪戯が過ぎるわ。というか、今回のは人間だったら犯罪よ」
『すまない、急を要していたものだったから』
「え?」
突然耳慣れない男性の声が聞こえた事にシェリルは驚いて辺りを見回す。しかし部屋の中にはシェリルとゲオルグ以外誰もいない。
『それにしてもこの魔道具は素晴らしい。まさか生前の声と寸分違わぬ声が出てくるとは。あそこの店には本当にいいものがある。私からも謝罪をして、今度はきちんと客として行ってみたいものだ』
声の出所見てみると、そこにはゲオルグと魔道具が。いや、ゲオルグが鳴くと同時に魔道具から男性の声が再生されている。
驚愕の表情を浮かべるシェリルに、ゲオルグは言う。
『失礼したね、ミス・グリーズ。改めて自己紹介をしよう。私はゲオルグ・スミス。生前はスミス商会の会長をしていた。今は飼い猫という立場だけど、歴としたリズベットの夫だよ』
「は……」
シェリルは何も言う事が出来なかった。確かにゲオルグに普通の猫らしからぬところはあった。というかそういうところばかりだった。だがまさか魔道具越しとはいえこんなに明瞭な喋りをするとは思わなかったし、リズベットの夫であるという主張にも驚きだ。
開いた口が塞がらないシェリルに、ゲオルグは更に言い募る。
『突然の事に驚いているだろう。すまない。だが私も急いでいるんだ。今のリズベットは私との恋の記憶を失くしている。君達の許に来ていたあの手紙。きっとあれはリズベットと同じだと思う。だからあの手紙を勝手に持っていって私が返事を出してしまったんだ。出来るだけ早く来てくれ、とね。本当に申し訳ないと思っている。だが、私はどうしても情報が欲しかった。同じような状況を知る事が出来たら、リズベットの恋心を元に戻せるかもしれないと思ったんだ』
ゲオルグは言葉を探すように、一旦口を閉ざす。しかしシェリルはそこに余計な口を挟む事はせず、ゲオルグの次の言葉を待っていた。
『恐らく今のリズベットは私達はよき友人として育ち、許嫁だから結婚をしたと思っているんだ。本当は、互いに一生ものの恋をしていたというのに』
魔道具から流れるその声の痛切さは、真実を訴えていると信じるに値するものだった。何より、恋しい人に忘れられてしまった気持ちが、今のシェリルには痛い程に分かる。
「じゃああなた、本当にネコ夫人の旦那さん……?」
『ああ。愛する人を置いていってしまった、そして今その恋心を必死になって求めている、情けない男だよ。』
その声に、その顔に。猫らしからぬ悲痛な表情を浮かべたゲオルグに、シェリルはどうしたって胸が締め付けられた。だって、つい先程までのシェリルを満たしていたのはその気持ちだけだったから。
「あの、ミスターはどうして夫人が恋心が奪われたと分かったんですか?」
少し躊躇いつつも訪ねたシェリルに、ゲオルグは苦笑というような表情を浮かべて答える。
『少し前からリズベットが冷たくなってね。これはついに倦怠期と言われる恐ろしい期間に突入してしまったのかと思ったのだけれど』
どこが、と言いたいのはすんでのところで堪えた。リズベットがゲオルグの生前、というか今も第二の生を生きているからややこしい。ゲオルグが人間だった頃のスミス夫妻は知らないが、今でもリズベットはゲオルグを愛しているように見える。
『それにしてはなんとなくおかしいと思っていた。それを知りたいと考えていた時に、昨日の手紙の事を聞いたんだ。だから、恋心が失くなったのではなく奪われたのだと思ったのはつい昨日だよ』
そう自嘲するようなゲオルグに、胸が痛んだ。でも、どう言葉をかけていいのか分からなかった。そして気付いた時には、自分の気持ちを吐露していた。
「あの、ミスター……。実はゲオルグも、恋心を奪われてしまったみたいなんです……」
口に出すと、先程までの悲しさが更に強くなって襲ってきた。ゲオルグの衝撃で和らいでいた辛さをわざわざ自分で掘り返して傷付いている。間抜けだと思った。
でも、誰かに聞いて欲しかったのだ。
「今朝起きたら、いきなりルーカスの様子が変わっていました。まるで別人みたいに、私の事をフルネームで呼ぶし、一人で起きられていたし、朝御飯はいらないって言うし……」
『ミス・グリーズ、それは』
「私の事、必要ないって、言いました」
じわりと滲む涙を隠すように、シェリルは膝の間に顔を埋めた。
「ルーカスは、恋心を奪われて、ああなってしまったんですよね……」
『ああ、それ以外に理由はあり得ない』
「でも、実は私の事を鬱陶しいと思っていたのかな、って考えてしまうんです。本当は、私の事なんて嫌いで、別れたいとか思っていたのかな……」
涙が混じった、恋する女の声は痛々しい。ゲオルグは慰めるように隣に寄り添った。
『ミス・グリーズ。部外者の私がこんな事を言うのもなんだと思うが』
そう言うゲオルグをシェリルは横目で見る。言葉を探して瞳を迷わせているようだった。
『ミスター・ガードナーはけしてそんな事を思っていない。それは私が保証しよう』
「でも、ネコ夫人は恋心がなくなったってミスターの事を大事に思っているじゃないですか。ルーカスみたいに、あんな風に言われた事、あります?」
刺々しい言葉を向けてしまった。後悔しても、このささくれだった心では謝罪の一つも口に出せそうになかった。
『それはない。だがそれは恋じゃないからだ。今のリズベットが抱いているのは恋心ではなく愛情だからだ。私達は生まれた場所こそ違うが、許嫁として幼い頃から定期的に顔を合わせていた。そして二十年以上連れ添った夫婦だ。恋心がなくたって相手の事を大事に思うなんて当然だ。だが、君達は違うだろう?』
確かに、シェリルとルーカスが出会ったのは成人してからだ。だがこんなに冷たい対応をされた事は今までなかったように思う。
「難しいです。私にはよく分からない……」
そう言って嗚咽を始めてしまったシェリルに、ゲオルグは優しく言葉を紡ぐ。
『恋というのは請う事だ。無償の愛でなんてあるものか。同じだけの気持ちを向けてほしい。手を握ったら指を絡めてほしい。抱き着いたら抱き締め返してほしい。キスをしたら笑ってほしい。そう願うのが恋だ。相手からの心を求めるのが恋だ』
「どういう事、ですか?」
『ミスター・ガードナーの君に向ける感情はきっとひた向きな恋心で形成されているのだと思う。一種の安堵とも似た愛情に変化する余裕もないくらい、君の事が好きで好きで堪らないのだよ、きっと』
信じられない。信じたい。相反する二つの感情がシェリルの中で渦巻いて、その渦潮から溢れたものが涙となって彼女の膝を濡らしていた。
『あと、これは本当に私の憶測であるし外れていたらミスター・ガードナーに失礼なのだが』
「……何です?」
『あー、ミスター・ガードナーは君に構ってもらえるのが嬉しかったのだと思うよ。私が脱走を繰り返す理由も、リズベットから少しでも多くの関心を向けてもらいたいから、というのもあるんだ』
「ネコ夫人は心配してるんですから、ちょっとは控えたらどうですか?」
『それも分かっているのだけれど、それでも彼女に焦がれるような想いを向けてほしい、嫉妬してほしい、と思ってしまってね。私の悪癖だ』
最低、と小さな声で呟いた悪態も、猫の鋭い聴覚は拾ったらしい。返す言葉もない、と言うゲオルグに、シェリルは本当ですよ、と答えた。
少し、ほんの少しだけ、楽になったような気がした。ゲオルグの言葉に、軽いものを返せるようになった。
そんなシェリルの様子を見てか、ゲオルグが決意したように口を開いた。
『ミス・グリーズ。協力しよう。これを口に出したら君を傷付けてしまうだろう、だが言うよ。君は今ミスター・ガードナーに頼れない。そして私も、勝手に屋敷を抜け出す事は叶わない。だが、どうにか理由を付けて屋敷を抜け出す許可を得よう。そのためには君の力が必要不可欠だ』
その言葉に、シェリルは戸惑う。そして確かに傷付いた。だが、それに怒ろうとは思わなかった。ゲオルグ自身も傷付いたような顔をしていたから。
『もしかしたら、君の言葉ならリズベットも納得してくれるかもしれない。リズベットは家でよく君の話をするくらい気に入っているんだ。もしかしたら、私が数日間君の許にいる事を許してくれるかもしれない。本当は、私もリズベットにそれを拒んでほしいと思っている。私の事を手元に置いておきたいと思ってほしい。だがそれを、今は飲み込むしかないんだ』
飲み込めるだろうか。この石のような重さを。ナイフに触れたような鋭い痛みを。この、愛しい人の心を想う寂しさを。
『お願いだ、ミス・グリーズ。愛する人のために、恋しい人のために。協力者となって、恋心を奪い返そう』
差し出された前足は可愛らしい猫のものだ。しかし、そこに込められた想いを知ってしまった。シェリルは、そっとその白い前足を握った。
これが、恋心奪還を目指す協力関係の始まりだった。
シェリルはゲオルグに言われるまま、リズベットへ手紙を書いた。
要約すれば、どうしてもゲオルグがこの街に留まりたいと言っている。必ず無事に帰すので、どうか数日間だけでもガードナー探偵事務所で預からせてほしい、という内容の手紙だった。本当はもっと沢山の理由を書き連ねたのだが、割愛する。
そしてリズベットからの返信は早かった。心配だが、ゲオルグの意思を尊重する。つまりは滞在を許すという事だった。シェリルがこの手紙を見せると、ゲオルグは安堵の中に不満を見せるというなんとも器用な表情をして見せた。本心では寂しいのだろう、という事がシェリルには分かった。
そして今、シェリルとゲオルグはシェリルの部屋にいた。
『ミス・グリーズ。立て替えて貰った事は本当に申し訳ない。しかし今の私は文無しで君に返す方法がないんだ……』
そう言ってしょげるゲオルグに、シェリルは仕方ないなといった風に息を吐いた。
「大丈夫ですよ、ミスター。経費として落としておきますので」
『本当に申し訳ない……』
しかし未だゲオルグの元気は出ない。シェリルは困ってしまった。
「あー、ミスター。夫人の様子がおかしくなったのはいつからだったんですか?」
無理矢理のように話題を転換させたが、ゲオルグはすぐに答えた。
『朝だ。前日の夜、いつも通り一緒にベッドに入るまでは普段と何ら変わりがなかった。だが次の朝、リズベットの瞳からは私に向ける燃えるような恋心がなくなっていたんだ』
その言葉にシェリルは目を見開いた。それは、ルーカスと一緒だ。
「じゃあもしかして、眠っている間に恋心を奪われたんでしょうか?」
『いや、その線は薄いだろう。もし眠っている間に魔法をかけられたとしたら、隣にいた私が気付く』
「だとしたら…… 眠る前に魔法をかけられて、そして一度眠って起きる事が、恋心が完全に奪われる条件?」
『それはあり得るかもしれないな。覚えておこう』
そして話し合っている内に、シェリルははたとある事に気が付いた。どうしても聞かなければならない事柄ではなかったが、情報交換も一通り済んだ事だし、とシェリルはそれについて訊ねた。
「というか、ミスター。私達から夫妻揃ってあだ名で呼ばれている事にはなんとも思っていなかったんですか?」
『ああ、それについてはなんとも。むしろ面白いなと思っていたよ』
「面白い、ですか?」
『ああ。猫になってしまった以上、たいして親しくもない人間からファーストネームを呼ばれるのかと思うと少し憂鬱だった。君だって嫌だろう? 初対面の人間から呼び捨てにされて不躾に触れられるのは』
「それは、はい。確かに」
『けれど君達はそうではなかったからね。まあ、スミス氏、と呼ばれる事はもうないだろうなと思っていたけれど君達は僕にだけでなくリズベットにまで名前を付けてくれた。ネコ夫人、というのがちゃんと私の妻、という感じがするので気に入っているんだ』
「そうなんですね」
『ああ、だからこれからもあだ名で呼んでほしいくらいさ』
そう言って笑うゲオルグに、本当に気にしていないのだなとシェリルは感じた。きっと面白がっているのも本心だろう。ならばいいか、とシェリルはこれからもスミス夫妻の事をあだ名で呼び続ける事を決めた。
そしてその夜、夕食の席は昨日とは打って変わって重苦しい空気に包まれていた。
ルーカスは何を言う事もなく、シェリルの用意した食事をただ口に運んでいた。いつものようにこれが美味しい、などと言ってくれない食卓は、シェリルにとってただ苦しかった。
一口食べるごとに、まるで鉛を一緒に飲み込んでいるような心地がしていた。昨日以前のこの時間が、ひたすらに恋しかった。
食事を食べ終え、入浴も済ませたルーカスはさっさと自分の部屋に行ってしまった。いつもなら、何か飲みながらどうでもいい事を話して、触れ合って。そういう事をしている時間だというのに。
一人で居間にいる事が耐えられなくて、シェリルは逃げるように自室へと戻った。
シェリルの自室ではゲオルグが待っていた。ゲオルグにはシェリルとルーカスが夕食を摂る少し前に、きちんと食事をさせた。
部屋に戻ってきたシェリルの表情が落ち込んでいるのを見て、ゲオルグは心配そうにシェリルの足元に寄ってきた。
『大丈夫かい? ミス・グリーズ』
「えぇ、大丈夫です」
シェリルがそう言ったのはただの強がりだ。それでも、弱音を吐いたってルーカスは優しくなってくれはしない。慰めてくれるゲオルグはありがたいけれど、シェリルが一番欲しいものを与えてくれはなかった。だがそれはゲオルグにとってのシェリルも同じだ。
シェリルはゲオルグと視線が近くなるように床に座り込んだ。
「ミスター・キャット。早く犯人を見つけて恋心を取り返しましょうね。私、ずっとあんなルーカスを見るのは嫌です。心が壊れそうになります」
決意を新たにしたシェリルがそう言うと、ゲオルグも力強く頷いた。
『ああ、勿論だとも。私も、またリズベットに恋心を向けてほしいからね』
協力者の二人は、改めて目的を確認した。
「私達の第一の目的はそれぞれの恋しい人の恋心の奪還です。その過程でヘイズさんの恋人などの恋心を取り返せたらなおいいですけど……」
『あくまでそれはできれば、の話だ。そして今私達がすべき事は犯人の特定に他ならない』
犯人の特定。しかし、シェリルとゲオルグの許にそれらが可能な情報は殆どなかった。精々が、感情を抽出するという高度な魔法が使える人物、というくらいだ。だがそれは強い魔力の持ち主が然るべき場所で学んだとしたら、誰だって出来るものだ。魔法を学び、生業にしている人間はけして少なくない。そんな彼らに一人一人当たっていくなど、現実的ではないし不可能だ。
『いや、ミス・グリーズ。感情を抽出するというのは確かにその方法を知っている人物は多いだろう。だが魔法というのは長らく使っていなければ腕も落ちるというもの』
「……つまり、どういう事です?」
『感情を抽出する魔法を頻繁に使う魔術師が、恐らく犯人ではないか? 確か被害者はもう三桁にも昇るらしい、と君は言っていたね』
「ええ。胡散臭いゴシップ誌に書かれていた事ですから本当かどうか分かりませんけど」
『それが真実だとしたら、犯人は恐らくその魔法を用いての商売を生業にしている魔術師だろう。それ程の人数にこの魔法をかけるとしたら、相当この魔法に慣れているとしか思えない』
確かに、とシェリルは頷いた。となると、感情を抽出する魔法を使って商売をしている人間が怪しいだろう。一般人でこの魔法を使い慣れているとは考えにくい。もし無認可でこの魔法を使っていたとしたらかなり前から事件になっていないとおかしいだろう。
それに、もしその魔法に不慣れな人間がその魔法を使ったとしたら恋心だけを抽出するなど不可能な筈だ。きっと中途半端に感情が失くなってしまう。
となると、やはりこの魔法を使って仕事をしている人間が一番疑わしい。
「そういえば、感情を抽出する魔法を使う許可は国から特別な資格を得なくてはいけないんですよね」
『ああ。それぞれの職種に応じた国の試験に合格して、認定魔術師の資格を得なければその魔法を使って仕事をする事は許されないからね』
しかし認定魔術師といえど、如何せんその数が多すぎる。難関試験ではあるが、毎年職種ごとに五人前後の合格者がいるのだ。
いやしかし、認定魔術師全員が感情を抽出する魔法を使うわけではなかったという事をシェリルは思い出す。
「でもミスター、感情を取り出す魔法を使う職業って結構限られていますよね」
『そうだ。フラワーアーティストや調香師、魔法薬師に魔道具職人。かなり少数になるが、感情を抽出してその感情に似合った服を作るというデザイナーもいるらしい』
感情を抽出する魔法を用いる人間は少ないが、その用途は多岐に渡る。取り出した感情を苗床にして花を育てるフラワーアーティスト、感情を混ぜた香水を作る調香師、感情を内包した魔道具を作る魔道具職人、感情自体をベースに魔法薬を作る事もある魔法薬師、そしてデザイナー。
ある程度まで絞れたものの、まだ候補が多すぎる。しかも魔道具職人の試験は、魔道具の中で八つに分けられた分やそれぞれで行われるのだ。
今存命で、これらの分野で活動する認定魔術師。気の遠くなりそうな人数だ。犯人を見つけ出すまでの道のりは、まだまだ果てしなかった。
はぁ、とシェリルは思わず溜め息を溢す。そんなシェリルに、ゲオルグは優しく言った。
『ミス・グリーズ。今日はもう休まないかい? 君は今日とても頑張った。そろそろ休息を取るべきだ』
「いえ。大丈夫です、ミスター。今のは無意識に出てしまったというか」
『だからこそだよ。君は自覚していないようだけれど、とても疲弊している筈だ。無理はよくないよ。それに、私達には明日がある。今日は休んで、また次に備えた方がいい』
優しいながらも芯の通ったゲオルグの言葉に、シェリルは頷くしかなかった。一つの生を終えた紳士の言葉には、確かな重みがあった。
ゲオルグは眠るために居間へと移動する。居間には以前購入したペット用のベッドがある。今は猫とはいえ、ゲオルグは紳士である。だからうら若き乙女であるシェリルと同衾する事はしないし、ベッドに上がる事もけしてしなかった。
ドアを開けたシェリルに礼を言ったゲオルグは、部屋を出る直前に振り向いた。
『おやすみ、ミス・グリーズ』
「あ…… おやすみなさい、ミスター・キャット」
ぱたん、と閉じた扉に背を向けて、寝巻きに着替えたシェリルはベッドに潜った。しかし目は爛々と冴えていて、とても眠れそうになかった。
そんなシェリルの胸には寂しさが渦巻いていた。
おやすみ、という言葉。なんでもない、毎日交わす普通の言葉だ。でも、今日シェリルはルーカスにおやすみと言えなかった。おはよう、も返してもらえなかった。
それがどうしようもなく悲しくて、寂しくて、胸が引き絞られるように痛んだ。
ルーカスが寝惚け眼で言ってくれるおはようが好きだ。
美味しい、と言ってシェリルの作ったご飯を食べてくれるのが好きだ。
狭いソファに引っ付いて座ってする、なんでもない話が好きだ。
おやすみ、と共に落としてくれる優しいキスが好きだ。
痛みが強くなればなる程、ルーカスの好きなところが思い起こされた。そしてそのせいでまた痛みが強くなってしまっても、シェリルはそれに耐えるしかなかった。
だって、今のルーカスはシェリルに恋をしていない。
じわ、と枕に温かい染みが出来た。ぽつ、ぽつとそこに雫が落ちていって、枕が色を濃く変えていく。
心の悲鳴が、水滴となって溢れていた。止めどなく流れる声にならない悲鳴を胸に、シェリルは思った。
贅沢は言わない。ただ、一つの言葉が欲しいだけだった。
おやすみ、というなんでもない言葉。その同じ言葉を交わし合えたら、それだけで幸せになれるのに。
わざわざ立ち止まっておやすみ、と言ってくれたゲオルグには申し訳なく思うけれど、シェリルはそう考える事を止められなかった。
だって、その言葉が欲しいのはただ一人からだけなのだ。
そして、扉の向こうの寒々しい空間でゲオルグも同じ事を思っているに違いなかった。
協力者といえど、心の一番柔いところをさらけ出せる相手ではなかったから、自分自身だけを慰める事しか出来なかった。
翌日、シェリルはいつものように目を覚ました。そして、普段通りに朝の支度をする。いつもと何も変わらない、普通の朝だった。
あまりにもいつも通りの朝だったから、昨日の事は悪い夢だったのではないか、と淡い期待を抱くようにして、シェリルは手を動かしていた。しかし、それはポストを開けた瞬間に打ち砕かれた。
ポストの中は、昨日と同じように空っぽだった。
分かっていた事なのに、微かな現実逃避すら叶わないのかとシェリルは胸が痛くなった。それでも、その痛みを抱えてでもシェリルはまた今日という日を過ごさなければならなかった。
シェリルは部屋の中に戻ると、自分とゲオルグの朝食を用意する。ルーカスの分は用意しなかった。手の付けられない食事程、寂しいものはなかったから。
シェリルは一人分の食事と、いつもより一杯多いスープを流し込むようにして朝食を終えた。食べる気が起きなかったけれど、ゲオルグに朝食の大切さを説かれて腹に押し込めた。
そして本日はリビングで、シェリルとゲオルグは話していた。テーブルにあるのは、認定魔術師のリストだ。これは彼らへの仕事の依頼のためという理由で、役所に行って貰ってきた。
シェリルは列記された名前を指でなぞりながら口を開く。
「そういえば何日前でしたっけ。スミス商会の宝石店に強盗が押し入ったんですよね。朝刊で読みました」
いきなり世間話を始めたシェリルに些か面食らったような顔をしたゲオルグだったが、すぐに言葉を返した。
実のところ、思い詰めた様相のシェリルがこんな風に事件に関係ない事を話すのに少し安心していた。
『ああ、三日前だね。終業後の犯行で、どうやら魔法を使った犯行らしい。だけれど、あの氷晶以外の被害はなかったんだ』
「そうなんですか……。でも、従業員の方に被害がなくてよかったです」
シェリルはたまに会うスミス家の使用人や従業員の顔を思い浮かべた。顔見知りといった程度の関係だが、それでも彼らに害が及ばなかったと聞いて安心した。
「氷晶といえば、歌がありましたよね。確か……」
『捧げましょう。冷たい愛を。
捧げましょう。熱い想いを。
想いで溶かした宝石に、私の愛を込めましょう。
愛のこもった宝石は、きっとあなたを守るでしょう。
だからどうか、愛しいあなた。
私を愛してくださいませんか』
この歌だろう、と言ったゲオルグに、シェリルははい、と返答した。
「氷晶と恋の歌ですよね。あ、確かネコ夫人は、氷晶の名産地のご出身でしたっけ」
『ああ。だから私も氷晶を用いたプロポーズをしたよ』
「素敵な思い出ですね」
本心から、そう思った。ささくれだったこの心にも、素直に良いと感じられるものだった。
『ありがとう。そうそう、昔に一度だけ二番を聞いた事があるんだ』
「二番なんてあるんですか。聞いてみたいです」
いいよ、と言ったゲオルグが、息を吸った。
『捧げましょう。熱い心を。
捧げましょう。冷たい恋を。
私の愛が足りぬなら、兄弟の情すら捧げましょう。
私の想いが不満なら、隣人の記憶を捧げましょう。
だからどうか、恋しいあなた。
私の愛に答えてください』
歌を終えたゲオルグが、苦笑するようにシェリルを見た。
『どこか恐ろしさがある歌詞だと思わないかい? まぁ、私がそう言ったからかリズベットは一度きりしか二番を歌ってくれなかったよ』
「確かに、二番の歌詞はちょっと怖いですね。兄弟の情すら、とか、隣人の記憶、とか」
そう口に出したシェリルの頭に、何かが過る。それはゲオルグも同じだったようで、先に口火を切ったのはゲオルグだった。
『ミス・グリーズ。これは私達の状況と酷似していないか?』
「ええ。兄弟でも隣人でもないですけれど、恋心という感情自体も、それに紐付けられた記憶も、ルーカス達からは失くなっています」
『ああ。もしかしたら、これは魔法を伝えているのかもしれない』
「魔法を?」
『その土地にだけ伝わる魔法は、口伝である事が多い。そして、歌に乗せて伝えられるのもままある事だ。この歌もそうに違いない』
「理由は?」
『この歌の二番を、氷晶の産地の出身ではない私達が知らなかった事だ。きっと魔法を伝えているのは二番の部分で、だからこそそこは地元でのみ歌い継がれてきたのだろう』
ゲオルグの言葉には説得力があった。その地にしか伝わらない、ある種秘匿された魔法というのは存在する。それはどこにでもあるもので、それが氷晶の産地の場合、歌として伝えられて来たのだろう。
「だとすると、もしかして」
シェリルが思い至った事に、ゲオルグも同時にその事を思い浮かべたようだった。
『ああ。宝石点の高純度の氷晶が盗まれたという事件。あれももしかしたら同一犯の仕業かも知れない』
感情を抽出する魔法と氷晶を組み合わせるのは、定番ともいえるものだ。恋心を盗んだ犯人が、同時に氷晶を求めても何らおかしくはない。
「感情を抽出する魔法と氷晶を同時に使う、これを行う職業は一つだけ」
『認定魔術師の資格を持った、アミュレット職人』
「けれど、証拠がありません。私達のこの説はあくまで仮定で、確立させるものが何も……」
『そうだな……、ミス・グリーズ。リズベットに訊いてみてはどうだろうか』
「ネコ夫人に、ですか?」
『ああ。氷晶の産地出身のリズベットなら知っているだろう。もしかしたら怪訝な顔をされるかもしれないが、きっと教えてくれるだろう。リズベットへ手紙を出してくれないか』
その言葉に、シェリルは少し迷った。いきなり迷惑にならないか、とか、リズベットに怪しまれないだろうか、とか。その他にも色々な事が脳内を駆け巡った。
でもその惑いは一瞬で、シェリルは手紙を書くためにペンを取った。心は急くばかりだったが、シェリルは丁寧に一文字一文字を綴った。急いだって、その分手紙が早く届くわけではない。だから、その分想いを込めたかった。
手紙を出した後、気を揉みながらも仕事をし、家事をこなしたシェリルはその翌日いつもより早く飛び起きて、真っ先にポストを確認した。
しかし着替えもせず、寝巻きのままで飛び出したシェリルはすぐさま後悔した。ポストの前には既にルーカスがいて、郵便物を取り出したところだった。シェリルは気まずくて、恥ずかしくて、俯く事しか出来なかった。
そんなシェリルを見てルーカスはどう思ったのか、いや、何とも思っていないのかもしれない。それもまた悲しいな、と思っていたシェリルの目の前に一つの小包が差し出された。
シェリルが顔を上げると、ルーカスが顔を背けながらぶっきらぼうに言った。
「ミセス・スミスから君個人へのもののようだ。確認すると良い。それと」
ルーカスはあー、言葉を濁した後、言いにくそうに続きを口にした。
「そのような格好で外に出るのはあまり感心しない。不用心だろう」
シェリルは恥ずかしさのあまり消えてしまいたかった。もし恥ずかしいというこの熱で体が溶けたのなら、シェリルはもうどろどろの液体になっているだろう。それくらいに、頬が熱かった。
しかしそんなシェリルに一瞥も寄越さず、ルーカスはさっさと仕事場へ行ってしまった。きっと、寝巻き姿のシェリルに気遣って視線を逸らしてくれていたのだろうけれど、それが寂しかった。
いつものルーカスなら、どうしてくれただろう。少し慌てても、笑顔を向けてくれたのではないだろうか。早く着替えて、とかそんな事を言って、ほんのり頬を染めたりしただろうか。
今のシェリルには、こんな風にルーカスの思い出をなぞる事だけが支えだった。また、三日前までのように笑ってほしい。触れてほしい。名前を呼んでほしい。
そうして夢想する事に縋って、ようやく立てているようなものだった。
現実をまっすぐ見る事が出来なくて、シェリルは逃げるようにして自室へと戻った。
自室に戻ったシェリルは着替えてから、今日もまた一人分の朝食を摂った。同じ部屋でゲオルグがキャットフードを食べていたけれど、大した会話は交わさなかった。
朝食後、シェリルとゲオルグはリズベットからの小包を開いた。
中身はリズベットからの返信の手紙、そして同封を頼んだ 荷物が三つ。
まずはリズベットからの手紙を確認した。その内容は、まずゲオルグについて。便箋一枚分のそれが終わると、次は便箋三分の二くらいまでシェリルについての事が書いてあった。そして、その次にシェリルの訊ねた事の答えが書いてあった。
『やはり、あの歌は魔法を伝えていたんだな』
一緒に手紙を読んでいたゲオルグがそう呟く。手紙には、あの歌の二番は魔法を伝えている事、しかしそれは現代では余り推奨されていない魔法だという事が書いてあった。
そしてもう一つの紙束。これは手紙ではなく、シェリルが頼んだ荷物の内の一つだ。
スミス商会の顧客リストの写し。
普通なら当然、部外者のシェリルには見せてもらえないものだ。しかし、どうしてもと頼み込んで送ってもらった。用が済めばシェリル自ら焼却処分する事が条件だ。
最後に、二つの小瓶。これらはゲオルグが必要だと言ったものだった。中身はどちらも効果増幅薬。名前の通り、魔法、魔道具、魔法薬の効果を大幅に増加させるものだ。
これをどう使うのかのゲオルグに訊ねたら、彼は自分の合図で犯人にかけろと言った。どういう考えかは分からないが、シェリルはそれに従おうと思った。これは単に、ゲオルグへの信頼からだ。
ともかく、準備は整った。シェリルとゲオルグは、今一度情報を整理する。
「氷晶を扱える、そしてその方法を知っている」
『氷晶を買うではなく奪ったのは、恐らく足が付かないようにするためだ。スミス商会では顧客をリストにして管理している。万一それと照合されたらまずいと思ったのだろう』
「でも逆に、そうする事でスミス商会の顧客だと特定できた」
一つ一つ事実を確認するように、それらを口にしていく。二人は互いを見ながら、その瞳の向こうにある真実を見つめていた。
「国から特別な資格を与えられた、認定魔道具職人」
『アミュレットの認定魔道具職人は多数いるが、氷晶の産地が出身地かつスミス商会の顧客は一人だけだ』
アミュレットの認定魔道具職人の資格を持ち、スミス商会を利用出来る身分と財産のある人物。
シェリルとゲオルグは、認定魔術師のリストとスミス商会の顧客リストを照らし合わせながらこの条件に合致する名前を探す。そして、一つの名前を見つけた。
その名前は、ナタリア・ミラー。
シェリルとゲオルグは、ついに真相に辿り着いた。
シェリルとゲオルグがガードナー探偵事務所を飛び出して向かったのは、町外れの森の中だった。
まさかこんなところに認定魔術師の工房があるとは思わなかった。ゲオルグ曰く、ナタリアはオーダーメイド専門で仕事を受けているため人里から離れている工房は都合が悪いらしい。また、それと同様の理由で人の少ない故郷を離れ、この町で一人で生活しているという。
そして、暫く歩いて辿り着いたのは一軒の家だった。ここが件の認定魔道具職人、ナタリアの工房だ。
シェリルは一つ息を吐いて、扉に手を掛けた。
扉はいとも簡単に開いて、シェリルは少し驚く。不用意ではないだろうか。認定魔術師の資格を持っているとはいえ、アミュレット職人が侵入者を軽く撃退できる程の魔術師だとは思えない。
不信感から家の中へ一歩を踏み出せないでいるシェリルに対して、ゲオルグはすいすいと奥へ進んでいく。その足取りに迷いはなく、すぐにその白い尻尾は家具に隠れて見えなくなった。
そんな風にシェリルが一人で逡巡している内に、一人の女性がやってきた。
「あら、あなたは誰?」
品の良いその女性は首を傾げてシェリルに問う。穏やかな微笑みを浮かべる彼女は、とても他人から恋心を盗むような人間には見えなかった。
「あ、ホワイト、です。あなたがナタリア・ミラーさんですか?」
本名を教える事を躊躇ったシェリルは、咄嗟に偽名を口にした。ゲオルグが脳裏に浮かんで、その体毛の色というなんとも安直な理由だ。
「ええ。私がナタリア・ミラーですが……。何かお仕事のご依頼ですか?」
「いえ、あの……」
シェリルはどうやって言葉を紡げばいいのか分からず黙り込んでしまった。いきなり恋心を返してくれなんて言いにくいし、しかしそれ以外の用向きなど一つもない。
ナタリアは眉一つ動かす事なく、美しい微笑のままシェリルを見つめていた。それにどうしようもなく居心地が悪くなってしまって、シェリルは意を決して口を開いた。
「恋心を、返してください」
途端に、ナタリアの顔からすうと表情が抜け落ちた。無表情の瞳に何の色も乗せないまま、ナタリアは言った。
「どうして?」
その声色は、純粋な疑問だけを表していた。まるで何も知らない、無垢な子供のような問い掛け。しかし、それはどこか狂気をも孕んでいた。
「私は恋心が必要なの。でも私のだけじゃ足りないの。それじゃああの人は私を愛してくれないの。だから、貰ったの」
幼い子供のようにナタリアは言う。今の彼女からは、先程の品の良い大人の女性らしさはなくなっていた。
「恋心が足りないの。私の愛だけじゃ受け入れてもらえないの。だから、もっと集めて、綺麗な氷晶に閉じ込めて、あの人に贈るの。そうすれば、きっと」
「そんなのこっちには関係ないわ。いいから返して」
シェリルは先程までの逡巡が嘘のように、はっきりとそう口にした。今シェリルの胸中を占めているのは、憤りだった。
「あんたの勝手な都合で他人のものを奪うな!恋心はその人だけのもので、貰って良いのはその人が心を寄せる相手だけよ!」
「もう貰ったの! もう私のものなの! 返さないわ! あの人にあげて、あの人に好きになってもらうの!」
「本当にそんなので好きになってもらえるわけないでしょう! 仮に好きになってもらったとして、他人の心を利用して手に入れた恋に何の意味があるの!」
「うるさいうるさいうるさい! あなたには分からない! 愛されている、あなたには分かる筈がないわ!」
「当たり前でしょう! 私はあんたみたいにこんな陰険な方法使わないで、真っ当に彼の恋人の座を手に入れたわ! 理解なんてしたくもない!」
激情した二人は言い争う。ぽんぽんと交わされる言葉は互いの憤りを表していた。
その時、上から一つのアミュレットが降ってきて、ナタリアの頭に当たる。そちらに気を取られた一瞬を見逃さず、ゲオルグが叫んだ。
『今だ!』
シェリルは瓶の栓を抜いて、中身をナタリアに向けて思い切りぶちまけた。瞬間、ナタリアの動きが止まった。
まるで魔力切れを起こした魔道具みたいに、微動だにしなくなってしまった。
「ミスター、これって」
『気を引いてくれて助かったよ。私が落としたのは冷静のアミュレット。心を落ち着ける効果があるが、それを増幅させて今の彼女の心はほぼ何も感じなくなっていると言っても過言ではない。この間に恋心を見つけ出そう』
「でも、こんなに沢山のアミュレットと材料の中からどうやって」
「そこでもう一つの効果増幅薬の出番さ。それと、これを使おう」
そう言ってゲオルグが差し出してきたのは一つのアミュレットだ。
『このアミュレットは探索のアミュレット。これを持った状態で魔法薬を被れば、探し物はすぐに見つかる』
「わかりました」
シェリルは躊躇う事なく、ゲオルグの咥えているアミュレットに触れながら魔法薬を自分とゲオルグにかけた。
途端に、部屋の隅にある一つの箱から光が漏れ出すのが見えた。ゲオルグもその光を見たようで、二人は同時にその箱へ駆け出した。
そしてその箱を開けると、中には色とりどりの氷晶が入っていた。きっとこれが、奪われた恋心達だ。
シェリルはその中で、ただ一つ光っている緑色の氷晶を手に取る。ゲオルグは、紫色のものを咥えた。
シェリルの目に紫色の氷晶は輝いているように見えなかったけれど、きっとゲオルグの瞳で輝いていたのは紫色のこれなのだろう。
『早く逃げよう。魔法薬の効果は長くない』
「ええ、ミスター」
魔法の解けたナタリアに追いかけられる事もなく、シェリルとゲオルグは無事に町に戻ってきた。シェリルはまず匿名で警察の投書箱にナタリアの件を投函する。後は警察の仕事だ。レイチェルの恋人の恋心を取り戻す事は出来なかったが、きっと警察から順次返還される筈。
今回は探偵事務所の事務員にしては働きすぎた、とシェリルは手の中の緑色の氷晶を見て思う。
「でも、どうやって恋心を戻せば良いんでしょう」
『それは簡単だよ、ミス・グリーズ。彼らの体内に入れてしまえばいい』
「体内に、ですか」
『ああ。一番手っ取り早いのは、食べさせる事だな。氷晶は炎では溶けないが、人の熱で溶ける事があるという。だからきっと口に押し込んでしまえば氷晶が溶けて、恋心もミスター・ガードナーの中に戻るだろう』
「食べさせる……」
『きっと君なら出来るさ、ミス・グリーズ』
ゲオルグにそう言われたものの、シェリルは自信がなかった。食べ物に紛れさせようにも、高温の炎でも溶けない氷晶はそれに適していない。
シェリルはそう考えながら、リズベットへの手紙を書いた。まずは情報、リスト、薬のお礼を。次にゲオルグを迎えに来てほしいという旨、それに対するお礼を書いて手紙を送った。
そして翌日、朝一で迎えに来たリズベットにゲオルグを返し、ゲオルグの言葉を翻訳してくれる件の魔道具も渡した。きっとシェリルが持っているより、リズベットの手元にあった方がいい。
それを手に入れた経緯は曖昧に濁して、喜んでくれたリズベットとどこか気まずそうなゲオルグを見送った。
ゲオルグとリズベットが帰った後、ガードナー探偵事務所には沈黙が訪れた。ルーカスは相も変わらずシェリルを見てくれない。
それがどうにも腹立たしく思えてしまって、シェリルはルーカスの恋心を口に含んでルーカスの目の前に立つ。そして、ルーカスの胸ぐらを掴んで引き寄せた。そして背伸びをし、ルーカスの唇に自分のそれを合わせる。
ルーカスの唇をこじ開けて、自分の口の中の恋心を彼に返した。ルーカスは抵抗してシェリルを押し剥がそうとしてくるが、シェリルも意地になってルーカスにしがみついた。
そしてどれくらいの時間が経っただろう。シェリルを剥がそうとしていたルーカスの腕がシェリルの背に周り、きつく抱き締めた。
「ごめん、シェリル」
今にも泣きそうな、情けない声だった。
「絶対、絶対許してやらないから」
シェリルの口からは、自然とその言葉が溢れていた。だって、凄く傷付いたのだ。どれだけルーカスの事が好きでも、愛しくても、この世の何より大切でも。
シェリルが寂しい思いをして、悲しさに枕を濡らし、とんでもなく苦労した。この数日間は消えはしない。
「ごめん、本当にごめん。どうしたって俺のした事は消えないけど、シェリルが望むなら何だってするから」
「ううん、何をしたって許してやらないわ。ルーカス」
シェリルはゆっくりと、両腕をルーカスの背中に回した。広くて、暖かい背中がびくりと揺れる。あぁ、ずっと求めていたものだ。この体温が、焦がれる程に恋しかった。
「一生かけて、ううん、死んでもずっと。私を好きでいて」
その言葉に、ルーカスが息を飲むのが分かった。
「だって、凄く寂しかったし、悲しかった」
ぎゅう、とルーカスに抱き付く力を強くした。ルーカスもまた、それに答えるようにきつく抱き締め返してくれた。
「寂しくて、悲しくて、胸に穴が空いたみたいだった。この穴を埋めてくれるまで、私はルーカスを絶対に許せない。でも、私の感じたあの気持ちはなくならない」
互いに抱き締め合う、この窮屈さが好きだ。シェリルはルーカスの息遣いを肩に感じながら、彼がまた自分の事で感情を動かしてくれている事を実感した。それが嬉しかった。
「だから、ずっと私と一緒にいてよ。穴が埋まらなくっても、それが気にならなくなるくらい、一緒にいて、大事にして」
「約束する。絶対に、シェリルとずっと一緒にいるよ」
「約束、よ。もうこんな思いはさせないで」
ぴたりと隙間なくくっつき合った二人は、互いを感じていた。数日触れていないだけだったのに、もう離れたくなかった。離したくなかった。
胸に感じる鼓動も、肩に触れる息も、服を濡らす涙も、全てが愛おしくて堪らない。
傷付いた先でやっと取り戻したこの愛おしさが、自分を包んでくれている。
これがずっと自分と一緒にあるのなら、もういい、と思えた。
許す事は出来ない。
それでも、掴んだ手を握り返してくれる。料理を作ったら美味しいと言ってくれる。言葉を交わせば笑ってくれる。抱き着いたらきつく抱き締め返してくれる。キスをしたら返してくれる。
この愛情の交換作業を一生かけて、そしてその先も行えるなら、シェリルにとってこれ以上の幸せはないのだから。
恋泥棒 だいち @daichi-tukinari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます