第8話 後宮姫、鳥籠皇子の事情を知る

 赤い絨毯は、ゆっくりと原野に降り立った。生き残っていた草木は、絨毯による風圧でなびき、乾燥していた土が少し舞った。


「横になって。アトラス、彼女、頭を殴られた」


 ――アトラス?

 聞きなれない名前に、カシワは首を傾げる。

(いや待って、確かユナニスタンではよくある名前だと聞いたことが……)

 すると、魔術師が反応した。


「それは大変だ、さ、横になって」


 額を優しく押され、言われるがままに、絨毯に横たわる。


「気分悪い? 視界は大丈夫? 聴力は?」

「――あなた、アトラスって言うの?」


 カシワが尋ねると、そうだよ、と魔術師は答えた。


「魔術師は名前を明かさない。そもそもこの国では、外国人でもこの国の名前をつけて名乗るわ」


 母から以前聞いた知識を、カシワは歌をさえずるように言った。


「名前を明かすことは、命を握られることだと。だから魔術師は、名前を知った相手を殺すか、記憶を消去させる。それなのに知っているということは」


 魔術師――アトラスは微笑んだままだったが、セリムはそっぽを向いた。

 ……そうか。

 魔術師とセリムは、

 なら、魔術師がここにいる理由は、セリムが自分を後宮ハレムに返せるよう頼んだから。

 そう考えたとき、すべてのつじつまが合った。




「……ふた月ほど前、皇太子さまが亡くなったわ」

 カシワはポツリと言った。

「風邪をこじらせて、なんて言っていたけど。あれは明らかに毒だった。……彼だけはまだ、母親のファティマ様と一緒に過ごすことが出来たから、後宮ハレムにも訪れていた。まだ、五つにもなっていなかった。初めて会ったセリムより、ずっと若かった」


 カシワは目をつぶる。

 生まれながらの皇太子。現皇帝の初めての子。閉じ込められることなく、すくすくと育ち、相応しい教育を受けるはずだった。


「皇太子さまが亡くなって、次の皇太子は、セリムだって声が上がった。まだ喪も済んでいないのに。そもそも、セリムは弟で、皇帝はまだ若いわ。これから十分子どもを作れるでしょう。……なのに、どうしてそんな噂がって思った。

 そんな時よ。



 まさかと思った。

 兄弟殺しならまだしも、実の父親が息子を手に掛けるなど、不合理極まりない。

 だが。


「皇帝の顔を、目を見たとき、『あり得る』って思った」


 彼は狂人だった。

 わかりやすく狂っている様子はない。だからこそ、気づかぬものも多いだろう。

 彼は、周りから正しく期待されていた実の子を、まだ何もできない子を激しく妬み憎み、殺したのだ。


 恐らく、自身が期待されず、『鳥籠カフェス』に幽閉され、空気のように扱われた幼少期と比べてしまったせいで。


 自分より、自分の子供が恵まれたことが、許せなかった。




「とにかく、次に狙われるのはセリムだと思った。私には政治がよくわからないけど、とにかくあなたが殺されることだけは嫌だった。だから、あなたを誘拐して逃げたのだけど……」


 街の中を逃走できるほどの基礎体力。人を吹き飛ばせるほどの武力。そして、軍人の一人が叫んだ、『皇太子』。

 カシワはそこで目を見開き、こう言った。


「セリム。……あなたはこっそり、皇太子としての教育を受けていたのね」

「……」

「でないと、あんな風に身体は動かないもの」


 セリムは最初から、そう運命づけられていたのだ。カシワと同じく、現皇帝に不満を持つ軍部の一部から。

 昔、王宮には『兄弟殺し』という慣習があった。後宮ハレムで産まれた沢山の男子。その中から一人が選ばれ皇帝につくと、後の兄弟は一人を残して全て殺した。

 時が流れるにつれ、『兄弟殺し』はなくなり、代わりに後宮ハレムの一角に『鳥籠カフェス』が出来た。継承権は長子に渡され、兄弟たちは殆ど鳥籠カフェスで一生を終えた。


 けれど、ある時歯車が狂った。

鳥籠カフェス』に長年幽閉された亡き皇帝の叔父に、継承権が渡ったのだ。彼には子供はおらず、また、子供ができるような年ではなかった。彼は広い部屋に脅え人に脅え、最後は自ら望んで狭い部屋で一人暮らしたという。


 そうやって『鳥籠カフェス』で育った人間ばかりが、皇帝についたらどうなるか。

 カシワは、国が傾いたのはこの制度が原因の一つだと確信している。


 ……だから、影でセリムを皇太子として育てたのだ。

 現皇帝のような狂人が、再び狂人の皇太子を作らないために。


 そして賢君として大成したセリムに、軍縮され続ける現状を変えてもらうために。

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