第7話 後宮姫、うっかりやりすぎる
その時、一瞬気を失いかけたカシワは。
『セリム』という言葉を聞いて、上半身を起こす。
袖に入れていた短剣は、すでに鞘が抜かれていた。
――カシワはそのまま、馬乗りした男の太ももを斬った。
半円を描くようにして斬られた太ももは、そのまま噴き出るように血が出る。
「……」
斬られた男は茫然と、噴き出た血を見て、遅れて叫んだ。
「ぎゃあああ!」
止めにかかった二人も、血の気を失い、そのまま手を離す。
再び男に覆いかぶされる前に、カシワは身体を起こした。冷たい地面に蹲った男は、最初はうるさく泣き叫んでいたが、その声も徐々に小さくなる。
雲がかかっていたのだろう。暗かった路地裏に、蒼い月光が差し込む。
カシワの身体は丁度、屋根の陰と月光が当たる部分の半分に分かれていた。
右手に握られた短剣はその月光が当たる場所。血がポタポタ、と先から落ちる。カシワが半歩足を進めると、水たまりを踏んだような音がした。
カシワの足元には、先ほどの血だまりが。
そしてカシワの目は、右目が緑に、左目は褐色に分かれており。
乱れた茶色の髪と、少しだけ黄色い肌、茶色のブラウスとズボンには、真っ赤な血が飛び散っていた。
彼女の視線が、男たちをとらえる。
「ま……待ってくれ! 俺たちは止めようとしたんだ、あんたを害そうとは思ってない!」
男たちは膝をついて懇願する。
「お、俺たちは1か月前はただの市民で、給料がいいから、こないだ軍に入ったばっかりで! だ、だから」
カシワの目に、視力が戻ってくる。
脅えている。軍人が。男が。血を見ただけで。剣も抜かずに。そちらの剣のほうが、こちらよりリーチがあるにも関わらず。
――やれる。
「や、やめてくれ」
カシワはぼんやりとした思考のまま、短剣を握り直し、振り上げる。
「死にたくない!」
そのまままっすぐ、無慈悲に振り下ろした。
「やめろ!」
別の声が、矢のように飛んでくる。
それと同時に、カシワの短剣は空中で止まった。
カシワの細腕を、セリムは力いっぱい止めた。
温かい。血? ――いや、違う。
これは体温だ、とカシワは認識した時、視力が完全に戻った。
赤毛が混じった金髪に、カシワよりも白い肌。初めて会った時は、女の子かと間違えた。
今はもう、カシワよりも背が伸びて、女の子だと思うことはない。
「……セリム? なんで?」
もう何年も出していないかのような掠れた声が出る。
セリムは明らかにほっとした顔をして、すぐさま険しい顔になった。
「説明は後だ、ここから離れるぞ!」
そう言って、セリムはカシワの腕を掴んだまま走る。
走ると頭がぐわんと揺れ、何かを吐き出したくなるような不快感が襲ってきた。
「う、気持ち悪……」
「⁉ なんか変なものを食べた⁉」
「いや違う……」
私を何だと思ってるんだと言いたかったが、そんな余裕はなかった。足を進めれば進めるほど、平衡感覚がおかしくなる。
「多分さっき殴られたから思いっきり……」
「え……」
セリムが凝視して足を止めた。
「ああいや、出血はしてないから、多分大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
セリムが叫ぶようにして遮った。
「見た目無事でも、時間をおいて死ぬことはよくあることだ!」
そう説明している間に、セリムの後ろから軍人がやって来た。
「セリム! あぶな、」
い、と言いかける前に、セリムは後ろを向いて持っていた棍棒をたたきつける。
男はそのまま後ろに吹っ飛ばされ、力なく崩れ落ちた。
「強⁉」
セリムの強さに、カシワは思わず目を丸くした。
だが、あっけにとられる前に、セリムに腕を引っ張られる。
「あと少しだから頑張ってくれ!」
再びセリムはカシワを引っ張って走り出した。
路地裏を抜けて、視界が開ける。川と海を繋ぐ橋へとたどり着いた時、緑のマントをはためかせたあの魔術師がいた。
魔術師の足元には、赤い絨毯が敷かれてある。
「早く!」
魔術師にせかされて、セリムの走る速度が上がる。
カシワはついていくのが精いっぱいで、走っているというよりセリムに引っ張られていた。
カシワたちが絨毯の中心に来た途端、その絨毯は人を乗せて浮上していく。
――魔法の絨毯だ。
寝物語として伝えられる伝説の魔術道具に、カシワの心も浮いた。……しかし、気持ち悪さが勝ってはしゃげない。
やがて街を一望できるほど上昇したころ、軍隊を引き連れた上官らしき男が、こちらを見上げて叫んだ。
「……皇太子!」
え、とカシワは思った。
「降りてきてください! あなたでないと、この国は!」
そう男が叫んでも、絨毯は下に降りることなく、そのまま夜空を飛んでいく。
「……ごめん」
どんどん離れていく街を見下ろして、セリムはポツリ、と謝罪を口にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます