第6話 後宮姫、全力疾走する
あたりはすっかり日が暮れていた。空は城塞で殆ど覆われているが、今は丁度塔の横に丸い月が見えた。おかげで月明かりだけでなんとか見える。
階段を一段飛ばして駆けあがる。
「そもそもセリムの味方なら何で一緒に来ないのよ! 王宮付きの魔術師ならなんか不思議なアレで軍人バッタバタと倒せそうってのに!」
走れば走るほど不満が出る。呼吸しづらいはずなのに、文句を言うことで足取りは軽くなった。
ここを曲がれば、もう宿はすぐ近くに――。
そう思った瞬間、ドン、と誰かにぶつかった。鼻が痛い。
「す、すみません! 急いでいたものですから――」
そう思って、前を見ると。
頭にターバン、腰のサッシュに剣を付けた男が、壁の前に立っている。
壁には今先ほど濡れたような跡。
そしてズボンは、下がっていた。
「ぎゃああああああ!」「うわあああああ!」
お互い悲鳴を上げた。が、我に返るのはカシワのほうが早かった。
来た道を戻るカシワに軍人の男は追いかけようとするが、ズボンの裾が足に引っかかってその場で倒れる。
「こんっな時に用を足すとか軍人としてどうなのよ⁉ いや助かったけどー!」
何がなんやらもう分からず、反射的にまっすぐ走る。
だが、そこは行き止まりだった。
「……道間違えた!」
さっき来た場所は、もう一つの曲がり角だった!
戻ろうとしたが、足音が後ろからやってきて戻ろうにも戻れない。おまけに月明かりがほとんどなく、今カシワが見えるのも白いヴェールだけだった。
(……目立つわね、このヴェール)
恐らく、これを頼りに軍人は追いかけている。そしてこの暗さ。
一か八か、と思い、カシワはヴェールを脱いだ。そして、その辺にあった樽にヴェールをかけて、少し離れた場所に隠れる。
息をひそめて覗くと、二人ほどの男がやって来てヴェールを掴んだ。
「なっ……ヴェールだけだ!」
「なんて女だ!」
男がヴェールを地面にたたきつける。
(よし、今のうちに)
曲がり角の影に隠れていたカシワは、その隙に逃げ出そうとした。
「ひゃあ!」
が、思いっきり物をぶつけてしまう。
――足元にあったのは。
(鍋なんで――――――――!?)
悲鳴を上げるところを、頑張って心の中で抑え込む。が、金属音は誤魔化せられなかった。
「! いたぞ!」
「あーもー! なんでこうドジるかしら私!」
体勢を立て直し、カシワは全力で正反対の曲がり角へ走ろうとし、
「うわあ⁉」
後ろから腕を掴まれ、カシワは思いっきり体勢を崩した。
仰向けに倒され、その上に男が馬乗りになる。
カシワの視界いっぱいに広がったのは、大きく開けられた口とそこから覗く歯だった。
足を男の足で縫い付けられ、手は男の手で抑えつけられた。――動けない。
「へ、自分からヴェールを脱ぎ捨てるたぁ。
娼婦って。確かに宗教上、髪を晒すことは男の性欲を煽ることだからと、女はヴェールを被らされる。しかしこの国には異教徒の数も多く、ヴェールを被っていない女も多い。
そもそもこんなんで性欲煽られる方がよっぽどどうにかしないといけないんでないの、と特に男と会うこともないためヴェールも被らなかった
だが、口は動かなかった。
代わりに、震えて奥歯同士がぶつかる。
身体が動かない。
手首からじわじわと痛みが襲ってくる。――怖い。
単純に力が強いだけじゃない。自分の身体が、恐怖で竦んでいる。胃液は逆流し、嫌な唾が唇の端からこぼれた。
ヴェールを投げ捨てた男が、馬乗りする男を非難した。
「おいやめろ! 女を無傷で捉えろと言われているだろ!」
「どーせ死刑だろ、こいつ。ならその前に、何してもいいじゃねえか」
下卑た笑みを浮かべて、馬乗りした男は言った。
「教義にも書いてあるだろう? 『男の言葉に従わぬ女は打て』ってさ。だから男である俺はこいつに何してもいいんだよ」
呂律が回らない口調。定まらない目の焦点。
無茶苦茶だ。カシワは思った。
確かに教義にはそう書かれているが、それは夫婦の間のことだ。それに打つとは訓戒の比喩であり、暴力を許したものではない。しかも注目されるべき本当の意味は『思い通りにならなくとも言葉を尽くせ』ということ。さらに言えば、別の文で『夫婦間以外の性交はしてはならない』とも明文されている。
――その守るべき掟を皇帝はしていないのだが。正式に婚姻した妃は一人もいない。
だが軍人は一通り、
(って違う! 今考えることそこじゃない!)
この男は自分を犯そうとしている。ならば、服を脱がすとき必ず隙が出来るはず。
迫力に飲まれるな。恐怖に負けるな。力が強くとも、こちらに不利ばかりではないはず。
そう思い、奮い立たせるよう力を込めた。
「……なんだ? その目は」
突然、男の雰囲気が変わった。
「男をバカにしてんのか。ええ⁉」
破裂音が響いた。――自分の顔が殴られたとわかった時には、視覚が真っ白になった。
代わりにドクドクと、何かの音が激しく鳴る。
「やめろ! それ以上殴ったら、皇子の居場所もわからなくなるぞ!」
とうとう先ほどの男たちが、馬乗りする男の脇を抱えて持ち上げた。
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