4.真実
9
この街に入ってから五日、主だった施設の調査も終え、ユーリィはクドと共に図書館を訪れた。そろそろこの場所に別れを告げる時が迫っている。今日もおそらくアンドレ・ヤンは戻ってこない。
「おそらく、というのは僅かな可能性がある時に使う言葉だ。確率はゼロだ、ユーリィ」
「分かっているよ。けれどもしも、という場合だってあるだろう?」
「もしもは無い。ゼロだ」
「分かったよ」
頑固な犬型ドローンに小さく首を振り、ユーリィは玄関を潜る。
「おはようございます」
今日は自分からそう言ってユーリィは彼女に話しかけた。そのことに戸惑ったようで、視線を中空に
「今日、アンドレ・ヤンさんは来ますかね」
「すみません。彼は明日」
「来ませんよね。分かっています」
ユーリィは彼女の言葉を
「実は彼、アンドレ・ヤンという宇宙飛行士が存在しないことは数日前に確認済みでした。そもそも彼が行くはずだった月面基地はもうありません。月そのものが今は無いんですよ。知りませんでしたか?」
ジャスミンは「分からない」と首を振る。
「これを見てもらえますか」
ユーリィがクドに合図をすると彼は倒れたケースの隣の白い壁に、ある映像を投影した。
『ハーイ。こんにちは』
ひび割れた壁に楕円形に映し出されたのは宇宙船内で撮影された録画映像だ。画面の中央で、小麦色の肌の、くるくると癖の強い毛を後ろでまとめている女性がにこやかに手を振っている。
『ジャスミン・チェンです。地球を出て三日目。明日には月面基地に向かいます』
話している言語は英語だったが、彼女にも伝わるように下に翻訳字幕が表示されている。こういう細かい気遣いをクドが常時してくれれば良いのに、とユーリィは思うのだがそれを口にすると気遣いについての講義が始まるから、いつも心の中に仕舞っておく。
『宇宙から見た地球は本当に綺麗で、最近異常気象が続いていると云われていますが、全世界の人がこの光景を見れば自分たちが暮らす場所をもっと大切にしなければいけないと思ってくれるんじゃないかと、私は期待をしています』
映像を撮影しているカメラの向きを少し右にズラすと、丸い窓から小さく青と白の惑星が見えた。映像でしか見たことのない昔の地球の姿だ。ユーリィの前で彼女はそれを自分の口元に両手をやりながら黙って見つめている。
宇宙飛行士のジャスミンは続けて船内でどんな暮らしをしているか、月面基地での任務への意気込み、それに地球に残した家族や友人たちへの言葉を、笑みを浮かべて話した。それらはホームビデオのような呑気さで、基地に到着して半年もしない内に誰も予想し得なかった大災害によりその生涯を終えるとは思えない明るさに満ちていた。
『宇宙飛行士になるのは私の一つの夢でした。あまり裕福ではない家庭で、満足に本も買えず、それでも何とか勉強したくて図書館に通った日々を今でも忘れることはできません。それでも諦めない限り、夢は手が届くところまで近づけることは可能なんです。私は夢を
じっと彼女の言葉に耳を傾けていたジャスミンだったが、使っている言語が突然現地語に変わり、はっとしたように声を
『最後にもう一人だけ、私が宇宙飛行士になるのにお世話になった彼女に伝えてもいいでしょうか? 図書館司書のリーナさん。ねえ、リーナ。元気にしてる? 約束の本はちゃんと取ってあるかしら』
「はい」
『そろそろモスクの前に植えた花が咲いている頃かしらね。もし咲いていたら、ちゃんと写真を取っておいてね』
ジャスミンではない。リーナは目に涙を溜めて、映像の中で手を振るジャスミンに同じように手を振り返している。その手が、指先から光の粒に変化していく。
「崩壊現象だ」
クドがわざわざ言葉にしたが、
「知っているよ」
ユーリィは小さく言って、それから先の言葉を遮った。
彼らの見ている前でリーナの全身が光り、それが明滅を繰り返しながら徐々に空気に溶けるように淡くなっていく。その瞳から、光の雫が
「雨が降り始めた」
「そうみたいだね、クド」
完全に彼女が消えてしまうと、ユーリィは外に確認に向かったクドを放っておいて一人ケースの中の本を手に取った。カバーが歪み、紙の上下が変色していたが、中の文章には目立った汚れはない。
数ページを確認するように捲ると、興味を失ったかのようにそっと本を閉じた。
10
鬱蒼とした森だな、とユーリィは唇を引き締める。
蔦が絡まった樹木が立ち並び、足元には動物が通った跡すら見えない。頭上を覆うのは空ではなく茂った葉で、光の加減か黒く染まったものが蠢いているようにも見えた。一メートル先を四つの足を器用に動かしながら進むクドは特に苦を感じている様子はない。自分も四足歩行ならもっと楽に歩けるのだろうか、と考えながらユーリィは最近動かす度に金属の摩擦を感じるようになった右足を持ち上げる。
ジャスミン・シティ、と名付けた街を出てもう四日。次の未登録地区はまだ見えない。
「ユーリィ。何故あの本を押収しなかったのかね」
「説明しただろ、クド。本が一冊でもあればあそこは図書館でいられる。それに本の中身があれば入れ物は要らないんじゃないかな」
「記録士としてあるまじき発言だと思われる」
「それじゃあ今の発言は削除」
「了解した」
あの本はかつてロシアという国で生まれた作家の、短編集だった。それにパッキング処理を施しガラスケース内に戻しておいたのは、リーナが言ったあの言葉が気に入ったからだ。
「クド。どうして人間にはかつて”思い”なんてものがあったのだろうか」
「それは質問か? それなら心理学や社会学からの引用を」
「ボクやクドには一生理解できないものかもね」
自嘲して、自分の人工皮膚の手を握り締める。
ユーリィは人間、ではなかった。記憶を転写した脳素子を搭載する探索用人型ドローンだ。汚れた空気の中で呼吸をし、誰も生きていない世界を見て回る。僅かに残った人間たちがいつか再びこの世界で空を見上げられる時の準備をする為の調査の一環だった。
「クド。あそこで今夜は休もう」
その視線の先にあったのは、屋根があるだけのバス停だった。
背もたれの剥がれたベンチに寝転び、軒先から空を見上げる。
「あまり衛星通信には向かない空模様だ」
「クド、それはジョークかい? いつもボクらが見上げる空はこんなものじゃないか」
その通りだ、と答えたクドはユーリィが寝転ぶベンチの下側に入り、
ユーリィはダウンロードしておいたあの本の中の一編『かわいい女』をゴーグルに呼び出して、そのページを開く。オーレンカという女性が夫と夫の仕事や趣味を愛して自分も没頭していくが、不幸なことに次々と夫や愛する男は旅立ってしまう。その生き方に彼女の主体性はなく、ただ思いだけがある。そんな女の半生の物語だった。(了)
滅びた世界で、本を読む 凪司工房 @nagi_nt
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