第32話 深淵を覗く覚悟

 神父とペネロペはお互いに驚愕の表情で顔を引きつらせていた。

 セルクと荊も息を呑む。セナの名前が出た時点で予感はあったが、やはり、神父はペネロペの存在を知っていた。


「ど……、ドスのこと、知ってるの?」


 セルクの腕に支えられたまま、ペネロペはおどおどと神父を見上げた。

 神父の言葉をきちんとは理解していないようだ。家名は聞き取ったが、”妹”や”連れ去った”という言葉にはぴんときていないらしい。


 混乱した様子で怯えた目をしているペネロペに、神父はかっと肩を怒らせた。


「忘れるわけねェだろ!! 俺の腕を腐り落とさせた男だからな!!」


 憎々しいと叫ぶ神父の罵りは、ここにいる全員の鼓膜を割らんとばかりだ。

 彼は言いたいことが山ほどある、と急いている。

 勢いのままにどんな卑しい話が飛び出すか。セルクが「おい、待て――」と負けじと大声で制止をかけたが、その言葉尻は神父の怒声にぱっくりと喰われてしまった。


「お前の母親のことも双子の兄の――!!」


 荊はすっと手を払った。途端、神父の口が閉ざされる。凍り付いた唇は隙間も離れることができず、野太いうめき声が上がった。

 荊とセルクはばっとペネロペを見やる。


「は……、はっ、母親……? ふっ、ふふふ、双子? ぼ、僕が?」


 遅かった。

 聞かせたくない話の要点は、すでに聞こえてしまっている。こんな狭い地下室の中で偶然にも聞こえていませんでした、などとなるわけもない。


 セルクに支えられていたペネロペは、がくりとその場に崩れ落ちた。瑠璃色の羽を力なくしぼませ、信じられないものを見る目で神父を窺っている。


「ペネロペ――」


 荊はペネロペの元に歩み寄った。

 それから、彼女の視界を邪魔するように目の前にしゃがみこむと、真摯な顔で視線を交わらせる。

 瑠璃色の瞳は予想外の事実が露見したことに動揺していた。浅い呼吸をし、助けを求めるように荊へ両手を伸ばす。

 荊はその手を取ると「ペネロペはどうしたい?」と優しく尋ねた。この状況を構成するすべてを無視し、親愛を押し出している。


「聞きたいなら止めない。けど、覚悟が必要だよ。きっと、ペネロペにとって辛い話ばかりだ。君のおじいさんが、君に知られまいと隠してきた話なんだから」


 優しく諭す口調。柔らかな声。

 ペネロペは大きな目を零しそうなほどに開き、瞬きも忘れて荊を見ていた。まだ上手く思考回路が動かないようだ。


「馬鹿を言うな、式上、やめろ。こんな――」

「俺だって知らないままで生きていけるなら、その方がいいと思います。ここで知ったことは全部忘れてくれたらいいとも」


 荊はすうと音を立てて一息をついた。


「きっと、ペネロペのおじいさんもそう思ったはずです。別離よりも再会する方が不幸だと考えたから、血縁者のことを教えなかった。加えて、ハワード家に関わるなと言い遺し、ペネロペを悲劇から遠ざけようとした」

「だったら、尚更だ! お前だって、会わせる気はないと言っていただろう!」

「ええ、そうですね……。真実は知らずとも、おじいさんと考えは同じでしたから」


 ペネロペは巡り合わせた部外者で、荊とセルクの協力者でしかない。だから、存在も知らない血縁者が勝手に起こした犯罪など無理に知る必要はない。

 少なくとも、荊はそう考えていた。


 しかし、悪意によって隠された箱を見つけ、真実を求めるためにその蓋を開けて飛び出したものは、すべてを嘲笑う悪鬼だった。

 手に引く因果の糸は、誰よりもペネロペに絡みついている。


「でも、もう知ってしまった。ここで有耶無耶にしたって、何も知らなかった頃には戻れない」


 ペネロペの耳を塞ぎ、目を塞ぎ、何もなかったと押し付けることは簡単だ。過去の事実を知る者とペネロペを接触させず、このまま彼女を森に帰してしまえばいい。

 しかし、それはこの場限りの誤魔化しでしかない。


 セルクは押し黙った。

 荊の言い分が分かるからこそ、跳ね除ける言葉が出てこない。

 ペネロペの精神の負担を考えれば、おぞましいと分かり切っている出生の話を聞かせるのは避けたかった。しかし、ペネロペの元には欠片が揃ってしまっている。

 放っておいても、きっとペネロペは自分を探すだろう。


 セルクは渋々と首を縦に振った。一人で無茶をされるよりはマシだ、という最低を競った決断だ。


「……ペネロペはどうしたい?」


 荊は最初の問いを繰り返した。


「ぼ、僕、は……」


 ペネロペは繋がれたままの手を握り締める。

 荊とセルクが言い争いをしている間に、声が出せるまでには落ち着いたようだ。

 しかし、問いには答えられない。


「僕、ぼ、ぼく……」

「うん」

「っ……僕はっ……」

「ペネロペ、何度でも言うよ。俺たちは君の仲間で、友達だ。君の意見を尊重するし、助けが必要な時は頼って欲しい。君が一人で抱えることはないんだよ」


 荊の声は慈愛に満ちたものだった。どんな決断をしてもいい、と背中を押してくれる言葉。

 荊は握った手に力を込める。それから、親しみのある声で「ペネロペはどうしたい?」と三度目を口にした。


 ペネロペはじわじわと溢れた涙に目を潤ませた。心は急くのに、頭は置いてきぼりである。


「僕は――」


 きっと、知りたいすべてを神父は知っている、と分かっている。次に何をすればいいかも分かってる。しかし、踏み出すのは勇気がいった。覚悟がいった。それも生半可のものではない。

 心が死んでしまうかもしれない醜悪に立ち向かう勇気、今まで信じてきた世界が壊れる覚悟だ。


「しっ知り、たい。僕は、知りたい……。自分のこと、お、おじいちゃんのこと。それから……、家族の、こと……」


 ペネロペの頬に涙が伝う。


「でも、こ、怖い……。僕は、全部を知って、僕でいられるのか……」


 きゅうと荊の手を握る小さな手は冷たかった。熱のない手は心の叫びを体現するように縋りつく。

 ペネロペは己の無知を罰されるような気分でいた。真実に辿り着いたとき、幸せな結末が待っていないことがすでに分かっている。出口の閉ざされた地獄を進む恐怖は、祖父の手によって守られた安穏にいた罰なのだと。


「それなら、俺たちが一緒に受け止める」

「あ……」

「大丈夫、君を一人にしないよ」


 春の光明のようだった。

 何があってもこの人がいれば大丈夫だ、という漠然とした信頼が、ペネロペの心に熱を取り戻させる。ぼろぼろと零れる涙の意味は、先ほどまでとは違う。恐怖ではなく、安心だ。

 荊は優しく微笑むと、一層に力強く手を握った。温かな励ましだった。


「あ、の――!」


 落ち着きを取り戻そうとしていたペネロペは、はっとしてセルクを見上げる。申し訳なさそうな表情を浮かべ、瑠璃色の瞳を揺らしていた。


「ご、ごめん、セルク、僕――」

「謝るな」


 セルクは荊と同じように、ペネロペと目線を合わせるために膝をついた。それから、ぽんと強い力で肩を叩く。


「私が間違っていた。お前を何も分からない子供だと決めつけて、身勝手な意固地を通そうとした」

「ちっ、違うよ。セルクは、僕のこと守ろうとしてくれた」

「……間違った方法でな」


 ペネロペは嗚咽する。耐えられなかった。

 感情の波が内側から溢れかえる。


「い、荊、セルク。あり、がとう。僕のこと、いっぱい、大事に考えてくれて。いっ、一緒にいてくれて。僕、僕の……なっ、仲間で、友達でいてくれて」


 ペネロペの胸中はもはや混沌だった。

 恐怖も不安もある。しかし、それと同じくらいに勇気と安心がある。何よりも、荊とセルクへの喜びと感謝があった。独りぼっちじゃない。頼もしい味方が隣に立ってくれている。

 祖父が亡くなり、解呪の呪術師として孤独に閉じこもっていた彼女には、これ以上ない励みだった。


 再びにぽろぽろと泣くペネロペの目元を、セルクは優しく親指で撫でる。仕方がなさそうに口元を緩めた。


「礼を言うなら、すべて終わってからにしろ。私もそうする」

「う、うん」


 セルクがくしゃりとペネロペの頭を撫でる。

 ペネロペは荊と繋いでいた手を離すと、ごしごしと服の袖で顔を拭った。凛とした瑠璃色の瞳は覚悟を決めている。深淵を覗く覚悟だ。


 ペネロペは神父を見据える。

 神父は出来の悪い芝居を観劇したかのように、つまらなそうな顔をしていた。口が自由だったなら、三文芝居だと嘲笑っていたことだろう。

 

「ぼっ、僕は……、ここで、生まれたの?」


 荊は神父の口を塞いだ時と同じように手を払った。

 神父は唐突に開くようになった冷え切った唇を分厚い舌でなぞる。死んでしまった感覚を取り戻すように、もごもごと口元を動かした。

 

「……そうさ。今でも覚えてる。お前の生まれた日は、俺の腕に呪いがかけられた日だからなあ。ドス――、お前のジジイがやったんだよ」


 神父は残った右腕で左腕の末端に触れた。

 その日を思い出し、ぶり返した苛立ちに眉間にしわを寄せる。ぎりぎりと歯を擦り、しかめ面をする姿は不機嫌な獣のようだ。

 もはや、服装以外に聖職者だと判別できる要素がない。


「おじいちゃんは、なんで神父さんに、呪いを……?」

「はっ、そりゃあ娘がこんなになってたら怒りもするだろうよ。心のある親ならな」


 神父はくいと顎でカレンを示した。

 ベッドの上には、構ってくれない一行に愛想を尽かし、ふて寝をする少女の姿があった。首輪は外れているものの、ここから出て行こうという様子はない。

 本人の意思を捻じ曲げる呪術の力。望まぬ子どもの妊娠。人権の無視された飼育。


「そもそもが何故、ドス家の娘さんがここに来る事態になったんです。呪術師であるドルド卿が、ドス家の娘さんに手を出すリスクを知らなかったとは思えない」


 神父がぺらぺらとしゃべるのをいいことに、荊はするりと口を挟んだ。

 この際、疑問点はすべて明かしてしまおうという魂胆だ。


「だからだよ。ドルド卿の敵はドスだけだった。ドスを黙らせれば、この街はすべてがドルド卿のものになるってな」


 神父はわざわざセルクを一瞥し、「実際になった」と結果を突き付ける。

 一瞬だけ、ぴりりと空気が張り詰めたが、セルクは視線を鋭くするだけで場を収めた。発言一つに怒りを爆発させていては、一日が終わってしまうかもしれない。


「常套手段だろう。手が出せないなら、手を出せるところに伸ばせばいい。だから、娘を狙った」


 ペネロペは聞くだけで精一杯だった。

 言語や文章として神父の話している内容を理解できるが、感情が追い付いていかない。

 まず、ドスの娘という人物と母親とが結びついていないのだ。会ったこともない存在である。実感は努力して湧くものではない。


「神父さんはその頃からドルド卿と懇意だったんですね」

「……ああ。ドルド卿がここを使っていたのは、先代の神父の頃からだからな」


 かつんと足を打ち鳴らす音。セルクの苛立ちが垣間見える。


「引き継いだ、ということですか?」

「俺がこの教会に来て初めて見たものは、哀れな先代神父の死体だ。よだれ塗れの顔、潰れた性器、掻きむしってボロボロになった首、何で汚れているのか分からない赤黒い指先。未だに目に焼き付いてる」


 セルクはその無残な記憶を鮮明に想像できた。

 何故なら、朝に死んだ傀儡人形が同じ死に姿だったのだ。よく目に焼き付いていた。忘れようと思って忘れられるものではない。


「……脅されて、断れなかったということか? 何故その時に、騎士団へ相談を――」

「どうして断る必要がある。存在も分からない神に祈り続けるより、数段楽しい人生が送れると確信した」


 結局は悪人である。同情の余地はない。

 セルクは舌打ちし、ペネロペは唸った。

 荊はそもそも神父を信用していない。彼にはアイリスを金で買おうとしたという絶対悪のレッテルがあるのだ。たとえどんな悲壮な理由があったとしても、許すつもりはなかった。

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