第38話 氷の悪魔は沈黙を貫く

「にしても、ヘルにはがっつりやられたなあ」

「うーん、さすがヘル様♡」


 神殿の敷地を超え、凍土と化した一帯はヘルの支配下である。空気は冷え、地表では氷が壁となり、木となり、世界を彩っている。

 石板どころか神殿ごと氷漬け。死体の壁も氷の下。漂っていたにおいも消えていた。

 島を牛耳っていたサロメの力は毛ほども感じられない。


「ヘル」


 荊は手を打ち鳴らし、悪魔の名前を呼んだ。


「……」

「……ヘル様は? なんて?」

「ヘル!」


 荊は躍起になってヘルに喚び掛けた。

 瞼を閉じ、神経を集中して、呼吸を整える。すうと吸い込んだ空気は突き抜けて冷たく、肺の内側から身体を凍らせてしまうのではないかというほどだ。

 ゆっくりと目を開く。

 氷によって拡散された光に溢れるそこでは濃紺の瞳の色がまざまざと分かった。

 音もなく両の掌を合わせ、ふっと鋭く体内で温まった空気を吐く。白い息。


「ヘル」


 沈黙。

 形式ばって召喚の作法をしても、何も起こらない。


「ヘル! ヘルってば!」


 もとよりサロメの力で命の近づかない場所であったが、それはヘルの氷によって支配された後も同じである。むしろ、この地の孤立具合は酷くなっていて、温度はもちろん音も奪われていた。

 荊の咆哮はむなしく氷原に吸い込まれていく。


「くそ、無視された」

「媚びないところも素敵だなぁ♡」


 むっとしている荊と対比して、ネロは盲目的にヘルを称賛していた。


 ヘルは荊と一番古い付き合いの悪魔である。そして、荊が契約する悪魔五体のうち、最も特別で最も異質だった。

 普段は大鎌の姿をしているが本来の姿はそれではない。しかし、その姿で現れることは稀有で、ここ数年は荊も数えるほどしか顔を見たことがなかった。

 彼女はネロと同じく氷の力を操る悪魔。その力の差は歴然であり、ネロは心底ヘルを尊敬していた。荊に言わせれば、変態的な執着であり、狂信者である。


「どういうつもりなんだか」


 荊は不思議だった。

 ヘルが氷の能力を使うことは、本来の姿を中々見せないことと同じくらいに珍しいことなのだ。それがこの大盤振る舞いである。ネロが発情するのも納得だった。


「喜びなよ。少なくとも刺客が送り込まれてくるってことはなくなったわけだしさあ」


 ネロはまるで自分がこの氷河期の主だとばかりに胸を張る。

 何を誇っているかはさておき、言っていることは正しかった。

 この神殿をそのままにしていたなら、楓が死体を処理するたびにこの島には新たな住人がやってきたことになる。それが見知らぬ死んだ人間ならまだいい。生きた悪魔使いが、荊の命を摘むためだけに寄越されたのではたまったものでない。


「荊のためにしてくれたんだよ」

「それならそう言ってくれればいいのに」

「ヘル様は黙って背中で語るんだよ! ああん♡ かっこいいよお♡」

「背中も見せてもらってないんだけど」

「もー、小さい男だなあ」

「ネロの方が小さいよ」

「何をー!」


 荊は肩を竦めた。これが自分のためを思った行為だったとしても素直にお礼は言えなかった。

 目の前に広がる光景は、悪魔の加護ではなく暴走の果てのように見える。冷え切った風に肌を撫でられ、ぞわぞわと身体に寒気が走った。


「にしても、ここはもうだろうねえ」


 ネロはふふんと鼻を鳴らす。

 荊は「そうだね」と他人事のように肯定した。


 悪魔の力を持って氷に閉じ込められた神殿はこれから先の未来、ずっと不変にこの状態を続ける。ヘルと同格の力を持った悪魔がわざわざこの島に訪れ、この神殿を救おうというなら話は別であるが、そんなことが起こるとは思えない。

 この土地は永久に融解することのない場所となったのだ。


 荊は何とも言えずにため息だけを吐いた。

 ヘルの考えは読めないが、彼女の行動は状況を悪化させたわけではない。むしろ、荊に猶予を与えるものだったことだけは本当のこと。

 となれば、今すべき有益な行動は、ここでヘルの真意をあれやこれと想像することではない。


「ここはこのままにしておくしかない。もう少し島を見て回ろう。サロメのこと何か分かるかも。あとは島の生態系とか知りたいし」


 荊は氷の大地を蹴り、身軽に氷の柱の上へと飛び乗った。


「え!? ボクここにいたい! なんなら住みたい!」

「ネロ……」

「あんなぼろ小屋より絶対いいよ!!」

「さようなら。今までありがとう。俺は行くよ」


 ネロの戯言はばっさりと切り捨てられる。

 荊は彼を引き留めることも、説得することもせずに、氷でできた足場から足場へと飛び移った。その動きにこの神殿に対する未練はない。

 あっという間に小さくなった背中に「荊のいけず!!」と叫んだネロの声は氷の壁に吸い込まれて行った。




 日が傾いた頃、島の探索に出ていた一人と一匹はくたびれた足取りでスタート地点へ戻った。うんざりとした疲れ顔の荊と鼻歌まじりに上機嫌のネロ。ようやくのゴールである。


 結果として、サロメに関する手がかりはあの神殿以外に見つけられなかった。野生の動植物も荊と悪魔一行に害になるものはなく、当面の問題はない――いや、ヘルのおかげでなくなった。

 それに気を良くしたのはヘルの狂信者ことネロである。


「おかえりなさい!」


 晩御飯の準備をしていたアイリスは、ぶんぶんと手を振って彼らの帰還を出迎えた。食欲をそそるにおいが風に運ばれてくる。


「ただいま」


 ぱちぱちと音を立てる焚火から、ふわりと分裂した炎が荊とネロの元に向かってくる。スカーレットだ。

 ネロは自らスカーレットに鼻を寄せに行く。その足で「たーだーいーまー!」とアイリスへと飛び込んでいった。

 続いて、スカーレットは荊の鼻へキスを落とす。そのまま青年の肩に座った妖精は、きょとんとした顔で疲労の見える横顔と狂喜乱舞する同僚の顔を見比べた。


「……もしかして、何かありましたか?」


 アイリスは気遣うように首を傾げた。その腕の中では喉を鳴らした猫が「聞いて! 聞いて!」と甘えた声を出しながら前足の肉球でアイリスを叩いている。


「あったけどなくなったというか、突然に冬が来たというか」

「まだ秋になったばっかりですよ」


 正論だ。

 詳しく説明をするのは構わなかったが、荊は努めて口を閉ざした。アイリスはその話をこれから嫌というほど聞かされることになるのだから。


「疲れた顔をしてますけど」

「ネロが黙らなくてね」

「アイリス! 聞いて! 聞いてってば!」


 荊の疲労の原因は九割がネロの大興奮だった。

 白の悪魔は声高らかに名乗りを上げる。今の今までも黙らずに続けていたというのにまだまだやる気だ。荊の口元が引きつる。


「あのね――」


 小さな愛らしい口は開かれた。そして、ヘルがいかに素晴らしい存在であるかを語り始める。


 ネロはとにかく饒舌だった。

 アイリスの作った夕飯をみんなで食べている間も、寒さを訴える人間たちのためにスカーレットが起こした火があわや森を燃やす火事になりそうになった時も、もう寝ようかと準備している時――、何なら部屋を照らすランプに寄り添いスカーレットが寝てしまった後も。ひたすらに声を発し続けた。

 黙ったら死ぬのかもしれない。


 ――本当にうるさいな。

 結局、ネロの大暴走を止めたのは強制的な魔界への送還だった。ばちん、と打ち鳴らされた手にはかすかに憤りが滲んでいて、力任せの音が響く。

 もう一度、手を打ち鳴らせば、目を丸くした猫がそこにいた。

 ぴろと口からしまい忘れた舌が出ている。


「ネロくんはヘルさんのこと大好きなんですね。よく分かりました!」

「うん!」


 ――それで済まされるものなのか。

 アイリスを横目に見る荊の瞳は完全に引いていた。しかし、そんな視線にも気づかずにネロとアイリスは、ほわほわと良い雰囲気で話を収束させようとしている。

 暴走する猫がようやく黙った頃には、今日を終えるにはいい時間だった。


 相変わらずに寒い部屋。島の一画をヘルが凍土にしたせいか、昨日よりも冷えている気がする。

 薄い布団が二枚、湯たんぽの猫が一匹。寝具はこれだけだ。

 荊は何も言わずにそのすべてをアイリスに押し付けた。全部を使っても寒いものは寒いだろうがこれ以上はない。

 アイリスはそれを受け取りながら、何か言いたげに口を開き、そして、閉じた。


「じゃあ、おやすみ。明日には街に戻ろう」


 ――寒くて耐えられたもんじゃない。

 荊がその辺の床に座ると、アイリスはその後を追いかけた。膝を荊にぶつけるようにして隣に座り込む。

 ほとんど勢いで突っ込んできた少女に荊はぱちぱちと瞬いた。


「あの、い、一緒に寝ましょう」


 ぎゅっと握られた毛布、恥ずかしさを耐えた顔。

 荊は押し黙り、ネロはアイリスの腕からするりと抜け出した。


「ボク、はずしたほうがいい?」

「へ?」

「いかがわしいことするんじゃないの?」

「し、しませんよ!!」


 疑わし気なネロの視線にアイリスは飛び上がる。目元を真っ赤に染め、もうちょっとでも意地悪なことを言われたら泣き出してしまいそうだ。


「この部屋寒いじゃないですか。それなのに荊さん私に自分の分の毛布までくれて……。昨日より寒いですし、風邪ひいちゃいます」


 言葉尻がしぼんでいく。

 言い訳のように連ねられた言葉であるが、そこに下心が無いことはネロも荊も分かっていた。

 普段の荊なら女子たるものと小言を言い出しそうなものだが、寒さという自然の脅威には抗えず、素直に「ありがとう。助かるよ」と彼女の提案を受け入れる。荊だって礼節よりも生存本能が大事だ。


 昨日の夜、あまりの寒さにアイリスの寝床から荊の寝床に脱走を図ったネロは、その決定にうんうんと大きく頷いた。彼にとってヘルの絶対零度は良くても、季節の寒さは駄目らしい。ぬくいならなんでもよかった。


「アイリス、ここに寝て」


 荊はアイリスの手に握られた毛布を奪い、彼女を寝かせると二枚に重ねたそれをかける。毛布から出ている彼女の顔が真っ赤で、荊は思わず苦笑した。


「そんなに緊張しないで」

「い、いえ! してません!」

「俺はこっち向いて寝るから。そっちは見ないよ」


 荊はアイリスの隣に背中を向けて横になる。

 毛布一枚分の広さは人一人横になれる分のサイズしかない。二人で横になるにはどうしたって狭かった。

 二人は自然と背中合わせで横になる。

 とん、と不意に背中同士がぶつかるとアイリスは電撃が走ったように震えた。


「アイリス、そんなにビビらなくても……。変なことしたりしないって」

「う、わ、分かってます」


 ネロはアイリスの腕に収まって、寝心地の良い体勢を探してもぞもぞと身をよじった。


「アイリスの心臓うるさい。ドキドキして死んじゃうんじゃないの?」

「そ、そういうことは言わないでください!」


 うう、と呻るアイリスに荊は静かに笑った。

 荊の体調のために申し出てくれたのだろうが、やはり実際にそうしてみると恥ずかしかったのだろう。背中から伝わってくる体温は、昨日のぼんやりとしたものとは違って熱いくらいだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る