第39話 式上荊という人

 静かになった部屋に、すうすうと穏やかな寝息が二つ聞こえてくる。

 この部屋で眠りについているのはネロとスカーレット。白猫はアイリスに抱えられてだらりと転がっていて、炎の妖精は魔石の入った煌めくランプに寄り添っている。


 荊は寝付けなかった。


 ――相変わらずうぶだな。

 荊は添い寝くらいで動じたりはしないがアイリスは違う。彼女はそわそわと落ち着きなく身じろいでいた。どうにもしっくりこないらしい。

 その気配は無視するにはうるさすぎて、アイリスを何とかしないことには荊も入眠できない。


「アイリス」

「ひゃ、ひゃい」

「はは、少し話でもしようか」


 まるで内緒話をするように、小さく潜められた声。

 優しくゆったりとした口調は荊の気遣いだった。自分のために同衾を申し出てくれた彼女の心遣いに対する敬意みたいなものだ。

 アイリスの警戒を解き、安心してもらうために「まだ眠くないでしょ?」と普段よりも柔らかな声色で尋ねる。

 アイリスは小さくなって「はい」と答えた。彼女だって鈍感ではない。


「あの、あの――」

「うん」

「荊さんのこと、聞かせてくれませんか?」


 おずおずとした絞り出した声。

 話をしようと言い出したのは荊だったが、会話を始めたのはアイリスだった。


「俺のこと? 例えば?」

「ええと、す、好きな食べ物は何ですか?」


 ただの他愛ない雑談。

 荊はアイリスの質問を聞きながら、確かにこういった個人の嗜好に突っ込んだことを尋ねられたことはなかったな、と今更なことを考えた。


「キャンディかな。レモン味のやつ」

「レモン味のキャンディ……」


 荊は答えてからもしかして、と「こっちにキャンディってある? レモンは知ってる?」と質問を加えた。この世界には荊が当たり前に知るものがなかったりする。逆もしかり。


「どっちもありますよ。荊さん、本当に甘いもの好きなんですね」

「はは、そうだね。アイリスは甘いもの好き?」

「はい! 私はパオの実が好きです」

「パオって木の名前?」


 聞いたことのない名前だ、と荊が尋ねれば「はい。枝も葉っぱも桃色の木に、桃色の花が咲いて、桃色の実がなるんです」とアイリスが説明をした。

 荊は彼女のこういうところが好ましかった。ものを知らない荊を馬鹿にして見下さず、一生懸命に言葉を尽くそうとしてくれる。


「へえ、可愛い木だね」

「甘くて美味しいですよ。きっと荊さんも好きだと思います。今度、一緒に食べましょう」


 荊はその提案にすぐに肯定した。乗り気である。

 色よい返事がもらえ、はにかみ笑うアイリスは楽しそうだ。


 部屋の中はゆらゆらとランプのか細い光に照らされている。

 壁には光源と一緒になっているスカーレットの影が大きく映っていた。彼女の持つ透明の六枚羽の影は七色に輝いている。幻想的な光――決して暖かくはないことだけが欠点だ。


「他に聞きたいことは?」


 ネロとスカーレットの眠りの妨げにならないように、荊はアイリスだけに聞こえるよう声を潜めてそう続けた。


「たくさん悪魔と契約してますけど、みんなで何人なんですか?」

「五体だよ」

「ネロくんにスカーレットちゃん、ツクヨミさんとヘルさんと――?」


 アイリスは指折り数えながら、頭の中で彼らの姿を思い浮かべる。

 氷雪の白猫、紅焔の妖精、宵闇の飛竜、そして、青鈍の大鎌。すべて悪魔というくくりではあるが、その姿も能力も多種多様だ。


「シャルル」


 荊はアイリスの言葉を引き継ぐようにそう続けた。


「シャルルは他の子とは違って戦えないけど、怪我を治してくれる」


 シャルルは荊の命綱でもある。

 ヘル以上に顔を見せることがなく、治癒の力だけを荊に貸し与えていた。

 荊がこの世界に来る前後、彼の命を奪おうとしていた斬首の首輪の処刑に耐えたのも、ひとえにシャルルの功績である。


「悪魔っていろんな力を持ってるんですね」

「うん、頼もしいよ。これでみんなが大人しかったら可愛いもんなんだけどね」


 悪魔の性格もまた一通りではない。

 ネロのようにおしゃべりだったり、スカーレットのように恥ずかしがり屋だったり。

 悪魔も生き物である。調子が悪かったり、気が乗らなかったり、そういったことは普通にあることだ。


「ネロくん、ヘルさんのこと大好きみたいですけど」

「ああ、うん……」


 荊は今日のネロの大暴走を思い出して乾いた笑い声をもらした。

 それを聞いてアイリスも困ったように眉を寄せる。さすがの彼女にもあのおしゃべりは堪えたらしい。


「ヘルさんってあの大鎌ですよね? よく一緒にいますけど今日みたいに騒いだりしていないと思ったんですが」

「大鎌はヘルの一面でしかなくて、ネロはヘルの氷帝としての姿に惚れ込んでるから」


 実際、ネロは大鎌として荊の手に握られているヘルには一切興味を示さなかった。平気な顔で鎌の柄の上を歩くし、身だしなみのために刃に映る自分の顔を覗き込む。


「? 何か違うんですか?」

「俺はギルドでメイド服を着てるアイリスより、君が自分で選んだ白のワンピースを着てるアイリスの方が好きだよ、って感じ」

「……」

「伝わる?」

「……はい」


 アイリスは布団に顔をうずめた。

 荊の顔を見なくても、彼がしらっとした顔をしているのが分かる。

 アイリスがどきどきと鼓動を早めるのは、彼女が照れ屋というよりは、荊があまりにもするりと褒め言葉を吐き出すのが原因だった。


 もしも、荊がにやにやと下劣に笑っていれば、からかわれていると分かり、アイリスも本気で受け取りはしない。

 しかし、彼はそれが当然だとばかりにためらいなく言葉を放つ。

 きわどい褒め言葉も、勘違いするような甘言も同じ顔で発するのだ。それがどうにもアイリスをざわつかせた。


 アイリスは頭を振って煩悩を退け、次の話題を探す。

 この機会に聞いてみたいこと、かつ、この空気を消し去ってくれるもの。


「どうして悪魔使いになったんですか?」


 ぽんと浮かんだものは、突発的なものだったがアイリス的には中々悪いものではなかった。


 荊は一瞬だけ言葉を呑んだ。

 質問の答えを語ることに抵抗はないが、それを聞いたアイリスが変なことを聞いてしまったと後悔するのがありありと想像できたのだ。

 聞いても面白い話ではない、と跳ね除けてもいい。内緒、と適当にはぐらかしてもいい。


「……自分でなりたくてなったんじゃないんだ」


 どうしてか、荊の口は淡々と過去を振り返っていた。


「俺の母親は俺を産んだ直後に失踪した。俺は病院――俺の世界だと出産は病院でするのが一般的でね。それで、俺は病院に取り残されて、そのまま孤児になった」


 途端、ひゅと短く空気の吸い込まれる音する。アイリスの喉からだ。

 しかし、悲鳴になりそこなったそれは、荊の語りと止める合図にはなり得なかった。


「そのまま俺は孤児院で育ったんだけど。四歳の時、孤児院で悪魔使いの適正検査があって、そこで適正があるって分かったから悪魔使いになったんだよ」


 悪魔使いになったその日、人間の生きる道からはずれた。

 魂を汚して、手を汚して、体を汚して。悪事という悪事に手を染めた。外道と呼ばれても、鬼畜と呼ばれても、卑劣と呼ばれても、荊はそれを否定をできない。

 それでも――、いや、それでよかったのだ。


 ――すべては夜ノ森家の繁栄のために。


「――アイリスは自分が何のために生きてるんだろう、って考えることはある?」


 荊は言葉にしてから、これは心の中に留めておくべきものだったな、と悔いた。

 しかし、音になってアイリスの耳に届いてしまっているそれを戻すことはできない。


「何のために生きているか、ですか?」


 弱々しい震えた声だった。


「うん。俺は悪魔使いになって、それでそのまま夜ノ森っていう家に仕えてきた。何も考えず、反抗もせず、疑問も抱かず、与えられる仕事をこなす。その繰り返し。だから、あんまり自分の生きる意味って考えた事がなくて」


 荊は失笑する。

 自分の人生なのに、どこか作り話めいているそれ。同情を誘おうとしているように聞こえるのは語り手の問題なのか、内容の問題なのか。

 荊はこんな話をしている自分も、自分の人生そのものも、酷く軽薄で価値のないものに思えた。


「アイリスは――」


 荊はアイリスのことを知らない。

 彼女のことで知っているのは、容姿とファーストネーム、年齢。それから、呪われた島に来た経緯。それだけだ。

 どこの出身で、どんな家族がいるのか。彼女を構成する要素、生きてきた道――、どれも知らなかった。

 だからこそ、答えが想像できない。


「アイリスは、何のために生きてる?」


 単純に興味があった。

 人間とは何のために生きていくのか。それが千差万別なのは当然分かっている。

 では、背中合わせで寝ている少女は何を思って生きているのだろうか。何も考えていないのか、筋の通った信念があるのか、迷っているのか、空っぽなのか、はたまた大きな野望を抱いているのか。


「幸せになるためです」


 凛とした声で返されたのは、極めてシンプルな回答だった。

 荊はその言葉をゆっくりと咀嚼そしゃくする。

 純粋無垢な彼女のとても素直で素朴な答え。思わずほっとするくらいには微笑ましく、荊はこの回答だけでも小さな幸せを感じられた。


 そうして、これは人の命の真理なのではないか、なんて大げさなことを考えた。

 とにかく、実に、なんて、アイリスらしい考えなのだろうか。


「いいなあ、それ」

「……荊さんも幸せになるために生きましょう。荊さんは絶対に幸せにならないと駄目です」


 ふふ、と控えめに笑うアイリスの肩が揺れる。

 どこかで聞いたことがあるような台詞だ、と荊は記憶を掘り起こした。

 そして、すぐに目的のものにぶつかる。


『荊、お前は幸せになれよ』


 荊の頭の中で男の声が響く。過去にかけられた言葉。優しさのこもった温かい声。

 荊はゆるゆると口元を緩めた。

 数少ない幸せな思い出の一つ。荊の心に咲いた一輪の花。

 

「――俺には家族もいなくて、友達もいなかったけど、悪魔と仲間がいてね」


 荊は自ら話し始めた。確かめるように、踏みしめるように。静かに心を紐解いていく。


「仲間の中にお兄ちゃんみたいな人がいて、その人が今のアイリスみたいなこと言ってた。きっとその人がいなかったら、俺は人形みたいだったよ」


 聞く人によればそれは悲しい話なのかもしれない。しかし、荊にとっては心温まる思い出だった。

 彼が兄と慕った人は殺伐とした毎日の心の拠り所で、その人の存在こそが荊を人たらしめた。


 荊の頭の中でその人は歯を見せて太陽のように笑っている。


「……ねえ、アイリス。やっぱりそっち向いてもいい?」

「え――、え!?」

「アイリス、恥ずかしがって布団から出てっちゃいそうだから」

「い、荊さん?」


 適当な言いがかりだった。

 アイリスの許可を待たずに、荊は寝返りを打つ。華奢な背中が目に入り、引き寄せられるように手を伸ばしていた。


 ――人肌が恋しい、なんて。

 おばけを怖がる子供のように、荊はぎゅうと小さな身体を抱き込んだ。アイリスがびくりと震えたことは無視をする。


 こうでもしなければ、物悲しくて、泣いてしまいそうだった。


 少しして、アイリスはそろそろと背中を荊に預けた。力を抜いて、寄り添うようにする少女は甘えたように頭を彼の胸にこすりつける。

 ゆったりとした心臓の鼓動がアイリスに聞こえる。それはとても安心する音だった。


「……おやすみ」

「お、おやすみなさい」


 互いに体温を分け与える心地良さ。

 荊は腕の中の温かさに溺れた。伝わってくる早足の心音が彼の意識をとろとろと溶かした。

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