第37話 悪魔のしるし

 荊は一人と目が合い、ぴたりと足を止めた。


「この子――」


 壁の一番上にいる女の死体。

 白濁の目と開いた口。血管の浮いた肌はぶよぶよとしていて、体皮から滲み出た液体に濡れている。


「どうしたの?」

「二十歳、女、大学生、文学部、オカルト研究同好会、一人暮らし。夜ノ森家から魔法陣の不正流失。処刑対象だったけど、執行前に悪魔召喚に失敗して死亡」

「?」

「この子、その処刑対象の友達で悪魔召喚に立ち会ったんだ。それが原因で彼女も処刑対象になった。巻き込まれただけの女の子」

「は?」

「俺の最後の仕事になった子だよ。俺が処刑して、お嬢様が処理した」


 開いたままの瞼を閉じてやろうと、荊は彼女の目元に手を当てた。彼女の眉に触れるとでろんと皮がずれる。たるんだ皮で眼球が隠される。


「……おやすみ」


 目は隠されたが、彼女の顔は崩れてしまった。この頭部では誰だったか分からない。


「じゃあ、やっぱりサロメは対象を世界転移させられる?」

「そうみたいだね」

「でも、なんでこんな綺麗に死体が積まれてるの?」

「この子もそうだけど、身につけていたものを盗られてる。サロメに処理された人間はこの島のどこかに落ちて、例の海賊に追い剥ぎされて、その海賊の手で残った死体がここに積まれてるんじゃないかな」

「死体なんか燃やすか埋めるかしたらいいのに」

「この死体の数だ。処理が面倒になったのかも。でも、放置しておいても自分たちが住みにくくなるだけだから、こうやって捨て場に集めた」


 荊は屍の女の手をとった。

 暖かくも冷たくもない。浮腫んだそれは手の形がそのままに残っている。死体として綺麗なものだ。


「ここには命が近づかない。みんな腐りはしているけど虫がたかったり、肉を食われたりはしてないだろ? 死体を捨てるには都合のいい場所みたいだ」


 こういうことを想定はしていたし、島の呪いだと話に聞いていたが、やはり自分の目で見ると想像を絶する。

 聞いている分には現実味のない作り話であったが、目の前にある事実は不快でおどろおどろしい。


「……」

「……荊? どうしたの?」

「……ここに、ユウトも、いるのかな」

「! それは……」

「ごめん、なんでもない」


 ふい、と荊は屍の壁から目をそらした。それから、乾いた笑いを浮かべ「今度、スカーレットに火葬してもらおう」と呟いた。

 ネロは「そうだね」と素っ気なく返す。なんと声をかけていいか分からなかった。


「……ボク、辺りを見てくる」

「ああ、うん」


 荊は死骸の壁沿いに駆けていくネロを見送り、自分は建物の方へと歩みを進めた。

 この島のどこにいても分かる気配は建物の中にある。ここまで来て、対象が生き物ではないことは確信を持っていた。


 おそらく建物の正面である場所に立つ。扉は木製だったのか見る影もなく、廃墟の中は丸見えだ。

 建物の奥、おそらく祭壇に当たる場所に石板があった。五十センチ四方の石の板が、同じく石でできた台座の上に鎮座している。


 その石は不思議と目を奪われるものだった。どこか違和感があり、荊は首を傾げる。

 はっとした。

 こんなにも荒れ果てた場所で、あの石板だけが美しいのだ。日の光でも浴びればきらりと反射しそうな艷やかさ。


 荊は引き寄せられるように石板に向かって歩き出していた。

 一歩、そして一歩、石の道を進む。そうして、道半ばで足を止めた。

 荊の目には石板に刻まれた紋章が映っていた。


「――サロメの魔紋?」


 残りの道は駆け足だ。

 崩壊した神殿に祀られる悪魔の魔紋。これがこの島を支配する存在。世界と世界を繋げる何か。

 荊の指が石板に触れる――寸前、ばきん、と空気が凍結し粉砕する音が響いた。


「え――!?」


 一瞬で石版は氷漬けだ。

 それでは終わらず、地面から湧き出すように氷の岩ができていき、そこから植物のように氷の木が生える。一本や二本ではない。針の山のように、数多の氷の柱が立った。

 空からも氷の礫が降り注ぐ。礫はぶつかると爆発するように弾け、その軌跡を氷に変えた。


「ヘル!?」


 自らが契約する悪魔の力であるのに荊は驚愕した。

 悪魔使いと悪魔は相互の意思を持って契約をしている。悪魔を召喚するにはお互いの承認が必要なのだ。

 今、荊はヘルの声なんて聞こえていなかったし、荊がヘルを喚んでもいなかった。


「一体どうしたんだよ!! ヘル!!」


 荊が立つ場所を残して、周囲はみるみると氷に呑まれていく。大地は凍てつき、空気は薄くなった。ばきばきと凍結の悲鳴があちこちで聞こえてくる。

 まるで氷河期の到来。


 視界を白く染める冷気。透明の氷は時間とともに分厚さを増し、その色をくすませていった。

 勢いはとどまることを知らない。

 あっという間に石の廃墟は氷の神殿だ。差し込む光が乱反射し、宝石のように輝く。


「荊!? どうしたの!?」


 氷の壁の向こうからネロの声が響いてくる。

 小さな白猫は器用にも乱立する氷の柱の上を飛び跳ねて荊のもとへ辿り着いた。

 ネロはきょろきょろと辺りを見渡した。氷、氷、氷。彼自身も氷を扱うが、周囲に放たれた力はその比ではない。

 ごくり、ネロは息を呑む。


「こ、これ、ヘル様が?」

「うん」

「っ――あああ♡ さすがヘル様♡」


 目を輝かせ、ネロはごろごろと喉を鳴らした。

 ヘルを賞賛する言葉を叫び、ご利益をその身で受けようと氷の上でのたうちわまわっている。細かな氷が舞い上がり、白のベールがネロを包む。


「ああああああんん♡」


 怒涛の嬌声が響く。発情した雌猫より酷い。

 陶酔しているのか、発狂しているのか、その行動は正気のものではない。


「ヘル様の業が見れるなんて♡ 三年と七ヶ月と九日ぶり!!」

「……そう」


 荊の動揺はネロの醜態の前に萎んでしまった。自分より動転している人間を見ると落ち着くというのは間違いじゃない。相手は猫――悪魔だが。


 ネロがヘルの力を褒め称える横で、荊は先ほど触れようとしていた石板のもとへ歩み寄った。


「やっぱり、サロメは魔界じゃなくて、この世界の悪魔なんじゃないかな」


 とん、と荊は氷に覆われてしまった石板に手のひらを当てる。分厚くぼこぼことした白く霞んだ透明の壁。その先にはサロメという悪魔を象る魔紋が刻まれている。


 ネロは真っ白な毛をヘルの息吹で凍りつかせることができ満足したらしい。うきうきの足取りで茨の横に並ぶ。


「――!? サロメの!?」


 隠されてしまったそれを見つけ、ネロは青い目を大きく見開いた。悪魔からすれば知った顔を見つけたようなものである。


 ネロはうろうろと荊の周りをうろつく。浮かない様子だ。頭に思いつくことがすべて悪い話に繋がってしまうような、どつぼに嵌ってしまったような表情。


「サロメに異世界へモノを転移させる力があって、この世界と元の世界があの魔紋で繋がってるとしたら、この氷漬けじゃあ上手く作動するとは思えないけど」


 ネロは複雑そうに顔を歪めた。

 この神殿が氷に侵されたことは確実に元の世界に影響を及ぼす。起こると想定される事象がどうにも不穏だった。

 ネロの表情に込められた想いを汲み取り、荊は「ああ、俺もそう思う」と完全に同意した。

 ずっと感じていた気配が今はしないのだ。まず間違いなく、石板が凍結されたことに因果している。


「……楓に気づかれない? 荊のこと追放して勝手に野垂れ死にしたと思ってるでしょ」


 そう、サロメの能力に異常がでるなら、それは必ず楓に伝わる。荊を抹殺するために追放をした女、夜ノ森家の栄華ためにすべてを尽くす女。


「もしかしたら、現地人が何かしたと思うかも」

「あの楓が? 最悪を想定して終焉を呼ぶ女だよ?」

「はは、確かに。まあ可能性の一つとしては挙がるだろうな」


 つまらない楽観思想で話を誤魔化しても、ちっとも安心はできない。むしろ、そんな現実逃避をするのは自殺行為だ。起こりうる最低を想定してその裏の裏をかく戦法を立てなければならない。

 仕事は結果がすべて。

 荊が生きていると知られれば必ず殺しに来る。荊がどういう思いでいるかは関係ない。


「どうするの?」

「やれ復讐だ、仇討ちだって気持ちはないけど、せっかく生きる希望も生まれたし、死にたくはないかな」


 ネロはほっと息をついた。

 荊は夜ノ森家の使用人として理想だった。命令に忠実で従順、反抗もしないし、指示通りに制御され、管理しやすい理想の使用人。

 だからこそ、夜ノ森の家に死ねと言われて死ぬのではないか、とネロは案じていた。

 そうでなかったことが知れただけで未来は明るい。

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