第36話 世界は繋がっている

 荊とネロは道なき道を進んでいた。

 生い茂った緑の雑草、地面を隆起させる木の根、それを覆い隠すように咲く花。人が歩くことの想定されていない地面。足場はとにかく悪い。


 宙には飛び回る羽のついた虫、木の幹には列をなして進む虫。ぱくぱくと口を開閉させるように動く草、紫の液体を垂れ流す花。遠目で荊たちを窺う鹿、獲物たるかを見定める蛇、枝を揺らして飛び立つ鳥。

 見たことのある造形のものもいるが、それが元の世界のものと同じかは分からない。


「有毒生物だったらどうしようね」

「ボクも荊も生き物の毒くらいじゃ死なないじゃんか」

「確かに」


 地面を歩くと草に溺れてしまうネロは木から木へと跳んで移動する。そのたびに隠れていた生き物が飛び出した。

 たまにうっとうしそうに虫を凍らせるネロとは違い、荊はどんどんと先に進んでいく。

 妙な気配は段々と強くなってきていた。発信源に着実に近づいている。


「……それで? 荊は何が引っかかってるの?」


 ネロの問いかけに荊は先日の仕事のことを話した。

 アイリスに話して聞かせた内容と同じであるが、ご褒美に夢中だったネロはまったく聞いていなかったらしい。「へえ」やら「ふうん」やらと気のない相槌が返される。

 一通りを話した後、荊はアイリスにはしなかった話を始めた。


「で、その魔物が悪魔と同じ命だと思うんだけど」

「魔物が悪魔ねぇ」

「うん」

「単純に荊が頂点捕食者に見えて服従したんじゃないのお?」

「そんな馬鹿な」

「だって、荊いっつも動物にひれ伏されるばっかりで懐かれないじゃん」

「それとこれとは関係ないだろ」


 荊は動物に好かれない。それは悪魔使いに多い特徴でもある。

 人間として逸脱した魂の力は生き物の本能に障る。人間のように闘争本能に萎えた生き物には大した影響はないが、野生で弱肉強食の世界に生きる命には悪魔使いの適正を持つ魂は畏怖の対象。

 逃げ出すか、命を差し出すか、その選択は命の限りであるが上下関係は決している。


「つまり、魔物がボクと同じで魔界出身ってこと?」

「まだ一匹しか見てないから、それとは言い切れないけど」

「?」

「この世界って魔物も魔人も昔からいるみたいだし、この世界って俺たちに言わせると悪魔と人間とが共生してる世界なのかも」


 荊の仮定は根拠のないものだった。

 悪魔と人間の共生。ネロはあまりしっくりこなかったのか「ううん?」と首をひねった。


 悪魔にとって人間は食べ物でしかない。悪魔は人間の魂を食べれば食べるほど力をつけられる。

 そして、より尊く、より美しく、より誠な魂こそ悪魔に極上の力を与えた。しかし、そういった高潔な魂は悪魔には簡単に手を出せるものではない。

 そこで双方の意向を持って結ばれるのが契約である。

 力を貸し与える代わりに、甘美なる人間の魂の品位を悪魔の側に落とすのだ。


「まあ、悪魔と魔物が同じ生き物でも荊なら問題ないじゃん」

「……それはね」


 ネロの言い分はもっともだった。悪魔だろうが魔物だろうが、それが同じ生き物だろうが、荊の前では敵にもならない。

 荊が気にしているのはその先だった。


 ――魔物と悪魔が同じ生き物だとして、この世界で悪魔と人間が共生しているとして。


「これが一番大事な話なんだけど。魔王の配下にある人間――スレイヴのこと話しただろ?」

「うん」

「特徴が二つあって」

「うん」

「一つは額に第三の目が開眼してること。もう一つはすべての眼球が真っ黒」

「うん――ん!?」


 ネロはぴたりと足を止める。稲妻。冷や汗。ぶわわと毛を逆立て、身に走る悪寒にぶるりと震えた。

 三つの真っ黒な目――、彼の頭の中では上半身だけしかない長い髪の女が微笑んでいた。にたりと持ち上がる口は大きく裂けていて、覗く舌の赤さは目に痛いくらい鮮やかだ。


「サロメぇ!?」


 サロメ。荊の上司かつ、主君であった夜ノ森楓の契約する悪魔。


「そう。サロメの特徴と同じ」

「どういうこと!?」

「分からない。魔界にもこの世界でいうスレイヴみたいな存在がいるのかもしれないし――」


 一瞬だけ言葉が詰まる。


「サロメはこの世界から喚ばれたのかもしれない」


 可能性の話であるが、前者よりも後者の話の方が有力だと荊は踏んでいる。ネロもそう思った。

 サロメがこの世界の出身であるならば、介在された力はなんにせよ、荊がこの世界に落とされたことも道理で納得がいく。

 しかし、そうであればこの世界での不安要素が増えることになる。


 ネロが普段は魔界に生きるように、サロメはこの世界にいることになるのだから。




 自然と訪れた沈黙の中、荊とネロは妙な気配の糸を辿るように歩みを進めていた。最初はぼんやりとしていた気配も、今はちくちくと肌に刺さるようだった。

 変わらずに足場は悪く、丁寧に足を運ばなければすぐに転びそうである。

 緑色と茶色ばかりの代わり映えのない景色の中、先に異変に気付いたのはネロだった。


「荊、変なにおいがする」


 目に分かるものではなく、鼻につくにおいがこの先は危険だと告げる。

 荊も気を引き締めた。まだまだこの世界では知らないことが多い。ここで魔物が飛び出してくることだって十分に考えられた。


「あっち、何かあるよ」


 ネロはくいと首で進むべき方向を示す。

 木々の重なりの奥、今までは黒に見えていた色がわずかに薄く見える。そこを目指し、荊とネロは慎重な足取りで進んでいった。

 よくよくと見渡せば、あれほど多かった生き物たちの影がない。いつの間にかここは音のない森となっていた。


 そして、目に飛び込んでくるのは薄汚れた灰色の塊。鼻をつくのは腐敗のにおいとむせ返る甘いにおい。


「なぁに、あれ。岩?」

「いや――、人工物だ。石造りの建物」


 廃墟。

 脆く崩れた壁面は風通しどころか雨や雪も受け入れるだろう。太い柱は等間隔で並んでいるが半数以上が折れていた。ごろごろと転がっている大小の石は、もはやどこの部分だったか分かりもしない。


 空を見上げれば、湖で見た光景と同じく、ぽっかりと穴が開いていた。

 背の高い木に囲われてはいるが、空から見ればこの建物の存在は分かりそうなものだ。


「ヨミに乗って上を飛んだのに見つけられなかったの?」

「ああ。湖しか分からなかった」


 しかし、その疑問の答えは建物に近づいてすぐに解明した。

 足元や屋根に蔦と苔が領土を競り合うようにひしめき合っていたのだ。深い緑に覆われている。上空からでは本来の白色は目を凝らさなければ見えない。


「転ばないようにね」

「はーい」


 元は巨大な建物だったのだろう。荊たちが生活する掘っ立て小屋の何倍も広い敷地が石畳になっている。

 円を描くように柱が建てられていて、その中に鳥かごのような形をした建物があったことが目に入る残骸から想像できた。


「……何これ」

「神殿、かな? ボロボロだけど」


 荊とネロは石畳に足を下ろす。

 そして、すぐに二つの異常を見つけた。


 一つは足跡。苔の生えた石畳に人間のものらしい足跡がある。その足跡は荊たちの立っている場所から神殿の裏側へと行き戻りしていた。

 一人と一匹の目線が自然と足跡の行方を辿る。


 そして、もう一つの異常。


「げえ、悪趣味な壁」


 壊れた建物越しに見える妙な質感をした壁。


「……あれがにおいの正体か」


 荊とネロは足跡が示している道を一緒に辿った。

 壁に近づけば近づくほど刺激臭が強くなる。近づけば壁を構成するものが何なのかも見えてきた。


「うええ」

「……みんな、あっちの世界の人かな」


 人間だったものが積まれている。

 下は風化した白骨、上は腐りかけの人間だったもの。まるで死体の進化論。地層のように積み重なっていた。

 よく見れば、最近に積まれたものには追い剥ぎにあったようなものがいくつかある。服を脱がされていたり、装飾品を取られたのか手首から先がなかったり。

 きっと昔のもの同じようなのだろうが、風化していて確認ができない。

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