第3章 探検、呪われた島

第35話 孤島、再上陸

 国のはずれにある無名の孤島と首都エリオスとの行き来は空の旅だ。


 人気のない草地から飛び出し、雲の中を移動し、海の上まで来て雲の下へと下降した。

 人目を避けるためである。

 全身が宵闇のような真っ黒の飛竜が空を飛んでいるところを目撃されては一大事だ――、荊はそう考えてこの旅路を選んでたが、この世界では元の世界と違い、魔法使いもドラゴンもいるのだから、見られたところでそこまで大騒ぎにはならない。


 黒の飛竜は空を切る。

 その背中には荊とアイリスが乗っていた。荊は手慣れたものだが、アイリスはや旋回や降下のたびに悲鳴を上げている。辛うじて泣いていない。


 飛竜の翼で三時間。景色も変わらない空の旅がようやく終わる。

 死神に呪われた名もなき孤島。

 二人にはいい思い出も悪い思い出もある島であるが、二人ともが帰ってきた、という感覚でいた。


「お疲れ様、ツクヨミ」

「ツクヨミさん、ありがとうございました」


 どしん、と地を鳴らす音とともに着地した飛竜――ツクヨミはネロやヘルと同じく、荊の契約する悪魔である。

 悪魔の形は多種多様で、ネロのような動物型、楓のサロメのような人型のものもいれば、ツクヨミやスカーレットのように元の世界では架空の生物とされる造形のものもいた。


 ツクヨミが降り立ったのは浜辺だった。この島を上空から見たとき、開けた場所はここか湖のある場所しかない。

 荊が先に降り、アイリスへと手を貸す。巨木のようながっしりとした体を乗り降りするだけでも一仕事だ。


「長旅ご苦労様」


 荊はツクヨミと目を合わせるために彼の瞳の傍に立った。

 それから、ざらざらとした硬い鱗の肌を撫でてやると、ツクヨミはくすぐったそうに目を細める。縦に長い瞳孔、琥珀色の虹彩。

 ツクヨミはぐいと顔を荊に寄せた。かぱりと口を開ければ、人間一人など丸のみで来てしまいそうである。

 しかし、そんなことをするわけもない。ツクヨミは鼻先を荊の腹へぐりぐりと甘えるように押し付けた。荊もそれに応えて、がしがしと撫でてやる。


「どうする? 残る? この島ならいても問題ないよ」


 ツクヨミは荊の言葉に首を振った。

 彼は言葉を扱いはしないが、きちんと意思の疎通は取れている。そうして、荊は再度の労いの言葉をかけるとぱちんと手を打ち鳴らした。

 ツクヨミの帰り道は一瞬だ。瞬く間に魔界へと帰っていく。

 そして、再度、手を打ち鳴らした。


「ネロ」


 ネロの行き道は一瞬だ。瞬く間に魔界からやってくる。


「ただいま~」

「こんばんは、ネロくん」

「じゃあ、アイリスをよろしくね」


 荊がネロを呼んだ理由は一つ、アイリスのお目付け役としてだ。

 ネロも魔界にいるよりはこちらでのんびりとする方が楽しいらしく、喚ばれることに文句を言うことはない。


「荊さんってぱちんってして名前を呼ぶと悪魔を喚べるんですか?」

「いや、別に手を叩く必要もないし、名前を呼ぶ必要もないけど」


 元の世界では悪魔と契約をするには魔法陣を介して召喚をする必要があるが、契約をした悪魔を喚ぶのに特別な作法は必要がない。

 契約と同時に悪魔使いの身体に刻まれる魔紋が、悪魔と悪魔使いを結んでいる。


「反復訓練ってやつ。いざってときに迅速に悪魔を呼べるように、行動と召喚を結びつけておくんだよ」

「……?」

「はは、集中しなくても無意識で呼べるようにしておくってこと」


 要は緊急事態に敏速な反撃をするための訓練だ。

 基本的に悪魔使いの敵は悪魔使いである。だからこそ、召喚速度は一番分かりやすく力量の差が出るのだ。

 初手が早いことはどんな戦いでも望ましく、荊は習慣になった召喚動作を何とはなしに続けていた。


「もう遅くなっちゃったし、話してないで帰ろう」

「そうですね! 今日はもうお休みしましょう」

「あーあ、また硬い床で寝るのか」


 勝手に根城としている掘っ立て小屋へと歩き出す。

 海賊のものである小屋は簡素ながらも生活をする設備は整っていた。荊が殺してしまった二人が財宝の守り番として生活していたのだろう。

 初めて小屋に踏み入ったとき、室内は生活感に溢れていたが、そういった前の住人の痕跡のあるものはその日に荊がすべて焼却してしまった。首無しの二人の遺体とともに。


 残っているのは財宝と服と食べ物と寝具。

 新しい服を調達できたので、ぼろの布切れみたいな服も明日には灰になっているだろう。


「お金ができたら、もうちょっとましな家が欲しいな」


 ここに豪邸を立てたいわけではない。それでもこの掘っ立て小屋はあまりにもみすぼらしい。


「島から出るつもりはないんですか?」

「しばらくはここを拠点にするつもり。調べたいこともあるし」


 世界の出入り口かも知れない島だ。

 荊がこの場所を押さえておこうというのは、元の世界への未練からの行動ではない。


 元の世界では殺しても死なない荊を抹殺するために追放という手段が取られた。もし、こちらからあちらへと戻る手段があり、荊が今も生きていることが元の主人――夜ノ森よのもりの人間に知られたなら、荊はまた命を狙われることになる。

 正面からの武力でのぶつかり合いでは決着がつかないと知られている。となれば、次の殺し合いはもっと凄惨で残酷で醜悪なことになるだろう。


 それを防ぐためにも、この世界とあちらの世界の繋がりを荊は掌握しておきたかった。

 彼もまたネロと同じく、安穏とした今の生活を気に入っているのだ。


「そのうち旅に出るのもいいかもね」


 特に何の考えもない発言であったが、アイリスとネロは賛同を示した。今だって気ままな生活なのだ。気ままに世界を見て歩くのも悪くはない。


 暗く、寒い小屋。

 照明器具は魔石の入ったランプ一つ。揺らめく光は弱々しく、部屋全体を照らすには力不足だ。昼間こそ温かいものだが、夜には肌寒い。特にこの島は人の熱もなく寒々しかった。

 この世界にも季節というものはあり、今、この国の季節は秋だとアイリスから聞いたのは、ツクヨミに乗ってこの島へと帰る道の間だった。


 薄い毛布を一枚ずつ分け、就寝の挨拶をしたのが一時間前。

 荊は眠れるときに眠るという習性が身に染みついていて、この極悪の環境でもすぐにでも寝入った。その反面、眠りは浅く、周りの気配に敏感でちょっとの刺激ですぐに起きる。


 もぞ、と近くで何かが動いた気配に荊はぱちりと目を開いた。

 小さな気配。ゆっくりと動いているそれに敵意はない。正体はすぐに知れた。


「ネロ?」

「寒い」


 それだけを言うと、ネロはもぞもぞと荊と布団の間に収まった。ぬくぬくと人の体温で暖を取るネロに荊は呆れたように「自分だけ避難してきたのか」と呟く。

 ネロはアイリスと一緒に寝ていたはずである。

 荊はネロを片手で抱え、もう片手で毛布を持って立ち上がった。


「アイリス」

「さ、さむい……。さむ……さむい……」


 意識はないようだが、まるで呪いごとのように呟いている。体は細かく震えていた。


「毛布も買ってくればよかったな」


 二、三日で街に戻るつもりだったせいで、生活用品にまで頭がいっていなかった。彼らが帰郷に買い込んだものは飲食物と衣服だけである。

 荊は湯たんぽ代わりのネロをアイリスのもとに戻し、自分が使っていた毛布も彼女にかけてやった。


 寝ている彼女の隣に座ると熱を求めてすり寄ってくる。荊はその場で瞼を閉じた。


「……う、寒い」


 彼は人よりは鍛えているが、どうあがいても人である。寒いものは寒い。隙間風の吹く冷えた部屋で、隣からぼんやりと伝わってくる熱に慰められているようだった。




 荊とアイリスは同時に目を覚ました。

 正確に言えば、アイリスが先に起き、その動きに反応して荊も覚醒した。そこにほとんど時間の差はない。


「おはよう」

「あ、え、お、おはよう、ございます」


 荊はぐぐぐとその場で伸びをした。座ったままで寝たせいか、寒さで縮こまっていたせいか、ぱきぱきと骨の鳴る音がする。


「よかった。今日もいい天気だね」


 寝起きとは思えない爽快さの荊に、アイリスは眠気も吹っ飛んだ。よくよく見れば、自分の上には泥のように眠る白猫が一匹と薄い毛布が二枚、寝ぐせのついた髪に重い瞼。完全に寝起きだ。

 対して、荊はその姿に眠っていたという名残は一切ない。


「も、毛布!! 荊さん!!」

「寒かったよね。風邪ひいてない?」

「わ、だ、大丈夫です! 荊さんは――」

「大丈夫」


 彼女はただでさえ荊に畏敬の念を抱いている。それがこうやって気を遣われたり、世話を焼かれ続けられることで、さらにその念を深めていた。

 このままでは、また恩返しがどうこうと悩み始めるのも時間の問題かもしれない。


「す、すみません……」

「なんで? 夜が寒いのはアイリスのせいじゃないでしょ」


 荊はアイリスがうろたえる意味も分かったうえで笑って流した。

 こうなると分かっていても世話を焼いてしまう。あまり手をかけすぎると逆に彼女の負担になると頭にはあるのだが、どうにも放っておけないのだ。

 すべては彼の今までの人生経験に基づいている。


 荊とアイリスはお決まりのやり取りもそこそこに軽食で朝ご飯を済ませた。二人が食事を終える頃にようやく寝坊助のネロが動き始める。

 二人と一匹は頭を突き合わせ、今日の行動について相談を始めた。


「昨日も言ったけど、調べたいことがあるんだよね」


 今のところこの島で開拓済であるのは小屋、湖、海岸とその三つの地点を結ぶ道だけだ。大きな島ではないのは分かっているが、今のところ未踏の地の方が広い。


「荊、どっか行くの?」

「ちょっと島の奥に」

「あの変な気配のするとこ?」

「うん」


 この島に来た時からずっと感じている異様な気配。動物や人間のものではなく、何か異様なもの。

 荊だけならば放置していても何かが起きた時で対応ができるが、アイリスもいるとなると話は変わってくる。不安の芽は摘んでおくにこしたことはない。


「危ないかもしれないから、アイリスは連れていけないよ」


 荊は先んじて断りを入れた。

 アイリスは我がままを言わずに素直に頷く。彼の声色から伝わったのか、暗に含まれた意味を察するようになったのか、短い付き合いでも関係性は確かに築かれていた。


「ネロはアイリスといて。また目を離した隙に何かあったんじゃ困るし」

「そんなことありませんよ」

「どうだか」


 荊は冗談ではなく本気で警戒している。しかし、当の本人はご冗談をとばかりに笑っていた。

 やはり、まだまだできたての絆しか生まれていないのかもしれない。


「ボクも行きたい」

「え?」

「ボクも荊と島の探検に行く」

「え!? ネロくん、行っちゃうんですか!?」


 ぴんと尻尾を立てたネロは「荊と行く」と同じ言葉を繰り返した。

 かたくななネロに荊はぱちぱちと瞬き、アイリスはげげんとショックを受けたように口を開けていた。


 ――まあ、いいか。

 荊は特段にネロの意見を跳ね除ける理由がなかった。

 どちらにせよ、自分一人で行く気はなかったのだ。となれば、同行する悪魔と留守番する悪魔が入れ替わるだけである。

 荊はぱちんと手を鳴らした。 


「スカーレット」


 赤く淡い灯火。

 赤髪のツインテールに透明な六枚の羽根を持った妖精はふよふよと荊の周りを巡る。

 スカーレットは荊の鼻にキスを落とし、次にネロの鼻、最後にはアイリスの鼻と巡回し、再び荊の傍に戻った。


 自ら挨拶に行ったはずであるのに、スカーレットは照れくさそうにもじもじとして荊の首元に隠れた。ぴょこりと顔を出して、くりくりとした赤い瞳でアイリスを窺い見る。


「かっ、可愛い!」


 アイリスはキスされた鼻を押さえ、感激に打ち震えた。

 先ほどまで、ネロに置いて行かれるのではと不安になっていた様相は微塵も見受けられない。


「アイリス、こちらスカーレット。狡猾の悪魔って仰々しい悪魔だけど、ネロが姦淫かんいんっていうのと同じでほとんどお飾りの肩書きだから」

「昨日、聞きそびれてしまったんですが、カンインって何ですか?」


 唐突に沈黙が訪れる。

 純粋無垢な瞳は真っ直ぐに荊を見上げていた。


「ボクこそが姦淫の――」

「知らなくていいようなことだよ」


 胸を張り、堂々と躍り出たネロは秒速でその首を摘まれた。

 ネロが諦めずに口を開こうとすれば、荊は「知らなくていいようなことだよ」と制した。アイリスが口を開こうとしても「知らなくていいようなことだよ」と同じ言葉を同じ抑揚で封殺する。

 この話題に触れないことが正解だと強制的に押し付ける。妙な緊張感が漂った。


 突然に場に流れた変な空気を払拭したのは、発端になったスカーレットだった。

 スカーレットは見たことのないアイリスに興味があるようで、荊を目隠しにしながらぴょこぴょこと頭を出したり引っ込めたりを繰り返して様子を見ている。


「かっ、かわ――、この子はお話できないんですか?」

「残念ながら。でも、こっちの話す言葉は理解してるから意思疎通はできるよ。ツクヨミと同じ」


 小さな妖精に負けず劣らず、アイリスもスカーレットに釘付けだった。ひゃあと悲鳴を上げながら口元の前でわなわなと手を震わせている。


「はじめまして、スカーレットちゃん。私、アイリスです。よろしくね」


 アイリスはめろめろになって片言のような挨拶をした。様子見をしていたスカーレットはとうとう荊の後ろから出てくると、彼の肩の上に立った。

 そして、ぴしりと敬礼をしてみせる。


「可愛い!」

「はは、さっき聞いたよ」

「レティより絶対にボクのが可愛いのに」

「ネロくんも可愛いですよ」

「とってつけたように言われても嬉しくない!」


 小さな毛玉はびゃっと飛び上がると、アイリスの膝へと突っ込んで行った。それなりの衝撃があったらしく、アイリスはへろへろとその場に膝を折る。

 情けない少女の悲鳴と嫉妬に狂った猫の鳴き声が混ざり合う。たかだか一言の褒め言葉であっという間に混沌だった。


 スカーレットは暴発しているネロを止めに飛んで行き、苦笑する荊はアイリスを立たせるために手を貸した。心遣い溢れる対応にアイリスは縋るように手を取る。

 いつも彼女を助けてくれる優しくて暖かい手だ。


「アイリスも可愛いよ」


 にこりと笑った荊は何でもないことのようにそう言い放った。


「ひ、え――」


 ぽかんとしたアイリスはじわじわと顔を染めていく。荊がけろっとしているのが余計に羞恥を煽った。

 ただ可愛いと言われただけなのに、身体の芯が熱くて仕方がない。こんなに特別な言葉だったか。

 最後にはアイリスは真っ赤になって預けていた手で、差し出されていた手を叩き落とした。


「叩かれちゃった」

「構いすぎて嫌われるんじゃないの」


 わざとらしく肩を竦める荊をネロは半目になって責めた。

 ネロの目から見ても彼がアイリスを構う様は見たことのない行動で、まさか本当に可愛いだけのすっとろい彼女がお気に入りなのかと失礼千万で疑っていた。

 ネロはアイリスのことを大層好ましく思ってはいるが、荊の隣に立たせるには不足だと思っている。


「じゃあ二人とも、お留守番よろしくね」


 荊はネロと並び立つ。ごたついたが今日の目的はこの島の探索、これから始まるのだ。

 アイリスは控えめに手を振り、スカーレットは折り目正しく敬礼をして二人を見送った。

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