第22話 踊らされる、戯れる

 ――どういう生い立ちだとこんな風に育つのだろう。


 荊にはアイリスの平和ボケともいえる穏やかさが異常だとしか思えなかった。この世界は元の世界より数段は治安が悪そうであるのに、彼女は元の世界の一般人よりも数段は安穏が過ぎる。

 アイリスはとにかく動揺していた。身体は緊張で固まっているのに、落ち着きなく視線はさ迷っている。心臓の音が荊の耳にまで聞こえてきそうだ。

 こんな状態でよく触れられてもいいなどと言えたな、と荊は胸中で彼女をたしなめる。


「アイリス」

「は、はい!」


 荊の心のうちは説教が大半を占め、残りは戯れだった。

 姿勢を正したアイリスに荊はずいと体を寄せる。寄られた分、彼女は距離を取ろうと身をよじった。仰け反った背中、不安そうな瞳、震える指先。


 力の入っていない身体を崩すのはわけない。荊は片手をアイリスの後頭部に回し、自分は座ったままで優しく丁寧に彼女をベッドの上に押し倒した。

 両手をアイリスの顔を挟む位置につき、覆いかぶさるように上半身を丸めれば、短く息を呑む音が聞こえる。無君な緑黄色の瞳が揺れた。


「ねえ、アイリス。恩返しって言うなら、二つ、お願いしていい?」


 至近距離で見つめ合う。

 アイリスはぱくぱくと口を開閉するだけで声を出さない。髪の色と頬の色に金魚みたいだなあ、とどうでもいい感想が荊の脳裏に浮かぶ。


「一つは護身術を覚えること」


 さすがにいつでも一緒というわけにもいかない。そのうえ、護衛をつけてもなお、事件に巻き込まれそうな危うさが彼女にはある。身を守れて悪いことはない。


「もう一つは自分のことをもっと大事にすること」


 アイリスは自己肯定感が低い。しかも悪循環を加速させるように被害者体質である。

 恩のある荊が金がないから身体を売ってこいと言った日には、言いなりになってしまいそうな従順さがあるのだ。本当は嫌でも嫌と言えない。押しに弱い。


「嫌なことは嫌って言えるようになって」


 荊は少しだけ体を起こすと右手を浮かせた。そして、その手でアイリスの左耳のふちをくにくにと摘む。時折、形をなぞるように指の腹を這わせた。

 耳の後ろから頭に沿わせて手を広げ、やんわりとした力で彼女の首を横にひねる。アイリスの右頬がシーツに埋もれた。

 彼女の視界に映るのは質素な壁とネロが脱走した窓である。


「い、荊さん……?」

「ちょっと触られるくらいなら、いいんでしょ?」

 

 理解できるまで言い聞かせ、体験することで覚えさせる。まるで子供の教育だ。


「!? な、なんで、いつから――ひっ」


 聞いていたのか、と続くその質問をすることはできなかった。自分の声とは思えない甘い悲鳴が漏れ、アイリスは右手で自分の口を塞ぐ。

 耳に吐息を感じた。荊の右手はアイリスの顎と首筋を緩く抑えている。首を固定されたアイリスは逃げることもできず、落ちてきた唇の柔らかさを受けるままだ。


「ふあっ」

「……堪え性がないなあ」


 荊はくすくすとうぶな反応を笑う。

 アイリスは消えてしまいたいくらい恥ずかしかった。触れられていることも、自分の反応もその拙さも、すべてが羞恥を掻き立てる。


「こういうことさせてくれるつもりだったの?」


 ちゅ、ちゅと可愛らしいリップ音を立てて薄い唇が小さな耳をくすぐった。はむとまれれば、口の中の熱さを感じる。経験したことのない感覚をアイリスは処理しきれない。


「いば、らさん。んんっ」

「ん、どうしたの、アイリス」

「やめ――ひゃん」

「はは、ひゃんだって。可愛い」


 アイリスはぞくぞくと腰に走る快感に足を震えさせた。

 感じ入っている様を見逃すはずもなく、荊はわざとらしくため息をつき、覆いかぶさっていた身体をどかした。


「はしたない」


 嘲り、蔑む声は冷たいのに、見下す目は楽しげだ。

 アイリスは混乱していた。からかわれている、と頭で分かっていても、びくんと腰が跳ねるのを止められない。

 何も知らない身体が気持ちいいことを教えられている、と思い知らされ、羞恥に顔を染めた。真っ赤な顔を隠しても悶々とした疼きはどこにも逃せない。

 とうとう泣き出した彼女に、荊は再びため息をもらす。


「ほら、こういうことになるんだから。自分を安売りするようなことは言わないこと――ぶっ」

「ひっ! い、荊さん!?」

「見損なった!! この変態!! 悪魔!!」


 荊の顔に白い影が飛びつく。

 アイリスをけしかけていたはずのネロはみゃあみゃあと無体を働いた荊を責めた。実際には限りなく黒の冤罪であるが。

 アイリスほどの妄信ではないが、ネロも荊の高潔を信じていたのだ。小娘が色仕掛けしたところで、相手にもしないと。


「悪魔は君だろ。変なことを吹き込んで」


 首根っこを捕まれ、持ち上げられたネロは慌ただしく視線を泳がせた。悪いことをした自覚はあるらしい。

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