第21話 恩返しの気持ち

 ギルドを出たその足で、今日明日に必要なものを買おうとそこいらの店を回った。服や靴、鞄や日用品。旅人と名乗れそうなくらいに身支度を整え終わった頃には、傾いた太陽は鮮やかな橙色へと姿を変えていた。夕刻だ。

 明日は初仕事だからと、早々に夕飯を食べ、さっさと宿を取り、今はもう星空の美しい時間帯になろうとしている。


 アイリスとネロは久しぶりのふかふかなベッドに感動し、子供のようにわあわあとはしゃいだ。

 そのうちに荊は「街を見てくる」と引き止める間もなく一人で外へ出ていってしまっていて、二人は一通り盛り上がった後でのんびりとしていた。緩やかで、のんびりとした穏やかな空気感。

 アイリスは身奇麗な格好でベッドの上に座っていた。ギルドから受け取った拾得物の報酬で買った新しい服である。みすぼらしい格好との突然の別れだった。


「あの、ネロくん」

「なあに?」


 アイリスの膝の上、ネロは野生を失ったように腹を見せて転がっている。戯れにアイリスの指先が白い毛を撫でるとご機嫌に喉を鳴らした。悪魔とは思えない。


「私から荊さんに、恩返しできることとか、ないですかね」

「……アイリスが? 荊に?」

「はい」


 ネロはぐるりと体を反転させて膝から降りる。ぽてぽてとベッドの上を歩き、アイリスと対面するように座った。また変なことを言い出して、と言わんばかりの顔である。


「例えば?」

「ええと、身の回りのお世話とか?」

「いかがわしいやつ?」

「ち、違います!!」

「というか、あれがそれで喜ぶ男に見えるの?」


 ぐうの音も出ない。人の好意を蔑ろにするようには思えないが、かといって、大喜びするようにも思えない。

 アイリスにとって式上荊は浮世離れした――人間ではなく、本当に死神なのではと思える存在だった。話して見れば世話焼きなお兄さんだが、黙っていると耽美な顔つきで怪しい魅力がある。


「でも、私にできることなんて、何も思いつきません」


 どうすれば、彼を喜ばすことができるのか検討もつかない。

 荊も男性には違いない。ネロが尋ねたように、いかがわしいものなら喜ぶのだろうか。彼女の思考はぐるぐると渦を巻いていた。

 アイリスは相手が荊ならばと決死の思いで「う、ぐ。ちょ、ちょっと、本当に少しだけ、触られるくらい、なら」と絞り出す。


「やめときなって。ボクにはすっごい冷めた目で『はしたない』って蔑む荊の姿が見える」


 アイリスにもたやすく想像ができ、説教をされるまでの未来が見えて閉口した。確かに女を侍らせて楽しむタイプには思えない。彼のそういうところが好ましいとも言えるのだが。

 アイリスは荊をとにかく信用していた。彼に無理矢理暴かれるようなことはないという絶対の信頼だ。


「そうですよね……。やっぱり、私にできることなんてないですよね……」

「もー、ネガティブだなー。そもそも、なんでそんなこと言い出したの?」

「私、荊さんに生活のすべてを頼りきりで、申し訳ないんです。困ってると助けてくれるだけじゃなくて、普段からすごく気にかけてもらってます。それで、恩返しを、と……」


 ネロはアイリスの言葉に大きく頷いた。彼女の考察に間違いはない。

 ただし、言いたいこともあった。恩返しの必要はないということと、助けたりなんだりは彼がやりたくてやっているということだ。

 相手に恩義を感じているのは荊も同じである。それに、彼がここまで誰かを特別に扱うのはとても珍しかった。荊の好きにさせておくのが他でもない恩返しでは、とネロは思っていた。

 しかし、そのことをアイリスに告げるつもりは一切ない。

 この素直で騙されやすい彼女をどうにかそそのかし、荊をおちょくってやろうと悪戯心がうずいていた。


「なるほどね! アイリスはなんて優しいんだ! 協力するする!」

「本当ですか!? 何かいい考えあります?」

「うーん、そうだなぁ。アイリスって荊の好みの顔だと思うし、裸で押し倒したら喜んでくれるんじゃない?」

「――っ! え、えっちなことはしません!」


 危険を察知した小動物のようにアイリスはぴゃっと身体を跳ねさせる。


「触られてもいいって言ってたじゃんか」

「怒られるからやめろって言ったじゃないですか!」

「でも、アイリス、恩返ししたいんでしょ? 荊がアイリスのことを怒るのと、荊が気持ちいいことしたいのは別の問題だよ」


 酷い手口だ。これでは恩返ししたいなら身体で奉仕するしかないと言っているようなものである。

 ネロの急な手のひら返しにアイリスはうぐぐと唸った。荊が喜ぶことは自分よりもネロの方が知っている。ならば――、そう分かっていても頷くことはできない。自分の貞操がどうのというより、荊は女を抱いたりしないなどという謎の幻想からくる否定だった。


「あれ、でもさぁ、荊とアイリスって初めて会った日の夜に――」

「ネロ」


 平淡な声。

 激論になっていた二人は扉が開いた音にも気づいていなかった。声の主の顔の確認もせず、生存本能に導かれたネロは「みぎゃ!!」と不細工な絶叫をし、開けられた窓から夜の街に飛び出した。まぎれもなく逃走である。

 そんな電光石火を目撃し、荊は「素早いなあ」とゆったりした口調で感想を述べた。


「で、二人でどんな悪だくみしてたの?」


 アイリスはベッドの上で後退る。のろのろとした本気で逃げるつもりもない動きに荊は苦笑した。いじめてくださいと言っているようなものである。

 アイリスの隣に座れば、ぎしりと二人分の体重がかけられたベッドが軋んだ。

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