第26話 魔物という生き物

 御者席に荊とセクターが並ぶ。蘇芳に見送られ、馬車は騎士団の事務所を目指して出発した。

 騎士団はユリルハルロ王国の治安維持組織。首都に本部があり、国内各地に分室が設置されている。

 馬車が向かっているのは本部だ。ただし、首都にあるといっても、ギルドからは馬車で三十分ほどかかる街のはずれにある。


「騎士団の事務所って、随分街からはずれたところにあるんですね」

「本部には監獄もありますからな。街中には置けんのです」


 襲撃される前提の立地なのだろう。

 確かに、走り出した馬車は繁華街とは逆方向に向かって進んでいく。建物が少なくなると、途端に景色に緑が増えだした。

 舗装されていない道を走ると、車輪ががたがたと音を立てて回った。

 短い林道を抜ければそこには大草原が広がっていた。申し訳程度に均された道らしき地面が蛇行しながら伸びている。


「魔物って簡単に遭遇できるものなんですか?」

「閑散とした場所に行けば、まず間違いなく現れますとも。奴ら特に人間のにおいに敏感ですからな」

「このあたりはどうです?」

「もちろん」


 草原を見渡してみる。藪をつつけば蛇は出そうだが、この世界では見たこともない生き物が飛び出すのだろうか。

 荊は目を凝らしたが、元の世界にも見れる昆虫の姿しか見つけられなかった。


「荊君、一つだけ注意を」


 セクターは進行方向を見つめたまま言いにくそう呟く。


「はい、なんでしょう」

「お恥ずかしい話ですが、我々ギルドと騎士団――とりわけ本部の連中とは折り合いが悪いのですよ。もしかしたら、受け渡しのときに荊君には不快な思いをさせちまうかも」


 自身のことについて言われると構えていた荊は、想像していなかった内容に呆けた顔をした。


「折り合いが悪いとは、個人的にではなく組織的にということですか?」

「ええ、ええ。騎士団も数に限りがありますから、手に余るような犯罪者は指名手配の賞金首としてギルドに依頼が来るんですわ。今回もその通りで」

「? 流れに問題はないように思いますが」


 ふるふるとセクターは首を振って否定を示した。


「本部駐在の騎士はほとんどが貴族の生まれなんです。奴らはどんな豪傑だろうと所詮は下賤の者と蔑視する」


 身分の問題なら荊にも経験がある。

 元の世界では、仕事内容こそ人に言えるものではなかったが、肩書きは日本有数の名家である夜ノ森家の使用人だった。

 高貴な身分の人間の特殊さは理解している。


 荊が促すように相槌をすれば、セクターは「指名手配の件も依頼とは言いましたが、実際は命令みたいなもんなんです」と続けた。


「仕事を与えてやったとふんぞり返るくせに、いざ仕事をこなせば嫌な顔をする。ギルドの連中は騎士の誇り高い仕事の真似ごとをしている、ってなもんです」

「余計なことをして、自分たちが今からやるつもりだったのに、と?」

「ええ、ええ! そいつあもう、おっしゃる通りで!」

「はは、それではまるで子供のようですね」


 なるほどな、と荊は胸中だけで納得した。

 要はお互いがお互いを気に入らないわけだ。騎士は力のあるギルドが、ギルドは身分だけの騎士が。


 荊の結論はどっちもどっちである。

 そんなに嫌い同士ならば、お互いの組織の存続をかけて戦って決着をつけろ、と言ってしまいたい。

 そんなことを言ったところで、古いしきたりだとか、今までの努力がだとか、互いにぐちぐちと言い訳を並べ、結局は現状維持に収まるに決まっている。

 荊はそう考えていた。


 革命は起こるべきときに起こる。起こすつもりがないなら、その不満なままで生きていくしかない。


 息巻いているセクターをなだめようとしたところで、荊はすっと動きを止めた。


 音が聞こえる。

 

 自然の音ではない。

 それはかすかな音で、一つの音程を保った長音。人が息を鋭く吐く音のように聞こえるが、人間にはこんなに機械的で正確な音は出し続けられないだろう。


 荊はセクターに人差し指をつきつけ、強制的に黙らせた。


「セクターさん、この音に聞き覚えは?」

「え……? 音?」

「聞こえませんか?」


 セクターは耳を澄ませたが、不審な音を拾うことはできなかった。彼の耳に聞こえるのは馬の蹄の音、車輪の音、風が吹き抜ける音、虫の鳴き声、等間隔の地鳴りの音。

 セクターははっとして馬車の後ろを振り返った。最後の音がした方向だ。


「魔物だ!!」


 荊も御者席から身を乗り出して後方を窺った。


「あれが魔物」


 遮るものがないからよく見える。こちらへと猛進している黒い毛玉。

 四足歩行の獣だった。

 巨大な雄牛のような姿のそれは、長い毛を揺らし、太い足で地面を蹴っている。体躯は馬車よりも大きく、角は天を突くように伸びていて、人を串刺しにするのも容易そうだ。


 今にも馬車に追いつきそうな勢いで、影は大きくなっていく。地面の揺れも同じく大きくなる。


「魔物にも分類とか名前ってあるんですか? 口から言葉を発したりします?」

「何をのんきなことをおっしゃっとるのですか!!」


 荊はじっと魔物を観察していた。

 魔物の発する音は大きくなっていくのに、先ほどから聞こえてくる正体不明の音の大きさは変わらない。

 発生源は何か。

 根拠はなかったが、魔物の影が現れたタイミングの良さから無関係とは言い切れない。


 不意に荊の頭を過ぎったのは、キスを投げて寄越した女。今は馬車に隠された牢の中にいる女。

 ――女の口に枷はなかった。


「スカーレット!」


 手を打ち鳴らすが早いか、叫ぶが早いか。

 荊の左手に赤い光が寄り添う。荊はその手をほろの中に突っ込んだ。

 

「殺すなよ、口だけ塞いでくれ」


 目隠しの向こう側へと端的な指示を飛ばす。

 結果が出るのを待機する必要はなかった。あっという間にずっと聞こえていた音が消える。

 しかし、雄牛の形をした魔物は変わらずに馬車へと向かってきていた。

 すぐそこにいる。太くごわついた毛並みの質感や、ぶよぶよとした膜に覆われた目の黄色も分かるほどに近しい。


「馬車を止めてください」

「馬鹿を言いなさるな!! 潰されちまう!!」

「じゃあ、足音が止まったら馬車も止めてください」


 荊は御者席から立ち上がり、荷台の上に飛び乗った。


「ヘル」


 荷台の上を駆けながら、身の丈よりも長い黒の大鎌を掴み取る。勢いのままに荷台を蹴り、身軽に魔物へ向かって飛んだ。


 魔物の照準は馬車ではなく荊に合わせられている。

 荊は空中で身をひねると、両手で握った鎌を大きく振り抜いた。 

 大鎌の刃と魔物の猛々しい角とがぶつかり、甲高い音が空気を裂く。真剣同士のぶつかり合うような鋭い音。


「悪いけど、俺は力比べなんてしないよ」


 静止は一瞬。

 人間一人、障害にもならないと言わんばかりに魔物が突進すると、ぬぷりと刃が角へと沈み込んだ。

 まるで角が水でできているかのように、硬度など無視して刃が進んていく。

 ついにはすとんと静かに魔物の角が切り落とされた。


 荊は魔物の鼻に飛び乗り、くるりと旋転すると、長く黒い毛に守られた首元を斬りつけた。角を切ったときと同じく、刃は何の抵抗も感じさせずに獲物を裂く。

 切っ先は深く潜って骨を断つことはせず、表皮とその先の肉を浅く撫でた。

 ぱたぱたと、降り始めの雨のように血が落ちる。


 荊は音もなく着地し、鎌についた血を振るい落とす。

 野太い雄叫びが轟いた。

 どしん、どしんと地団駄のように暴れまわる。痛みにもがいているのか、角を折られたことによる憤慨か。


「ねえ」


 それはそれは淡々とした声。


「君が話せなくても、俺の言葉は分かるよね?」


 荊はずっと上にある魔物の目をねめつける。手元ではくるくると鎌を遊ばせていた。最後にはぱしんと音を立てて右手に柄が収まる。

 その手が鎌を突き出せば、魔物はぴたりと動き止めた。

 今度こそ狩られると分かる知性はあるようだ。それとも本能で踏みとどまったのか。


 荊は確信した。


 ――間違いない。魔物はだ。


 相手が悪魔で、契約した悪魔使いがいないのなら、これ以上に相手のしやすい敵もいない。

 荊の魂は人の身でありながら、悪魔と対等に在る敬意すべきもの。悪魔にとって抗いがたい欲望の宝玉であり、あまりの輝きに取り込まれる恐怖を覚える光。


 ――ぎょせる。


 魔物は荊の深い濃紺の瞳と見つめ合う。

 そこに言葉はない。荊の視線がはらんでいるのは純粋な殺意。魔物は一歩、二歩と後ずさりする。体の震えが目で見て分かった。

 それから、きっと丁寧を尽くしたであろう動作で平伏した。

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