第15話 希望のあなた

 荊が世界を追放されて一週間。

 死神に呪われた島こと、ユリルハルロ王国にある無名の孤島。そこに建てられた掘っ立て小屋で、荊とアイリスの新しい生活が始まっていた。

 海賊たちのものである小屋は、決して綺麗ではないが雨露はしのげる。生活するのに最低限のものは揃っていて、これ幸いと勝手に居住地にしていた。

 島から離れている海賊たちはまだ帰ってきていない。帰ってきたところで、というのが荊の認識である。


 荊にとって救いだったのは言葉は違えど、その意味が元の世界と大差ない事だった。

 人間は人間、猫は猫、魚は魚。種類までいくと知らない名前もちらほら出てくるが、知っている名前のものもいた。

 そもそも魔界の悪魔と話が通じるのだから、異界の人間と話が通じるのも道理なのかもしれない。

 文字を書くことについてはまだ手をつけていないが、アイリスから聞いたところによると、いかに日本語が複雑だったかを思い知らされるものだった。


 眩い太陽、青く広大な海、輝く白い砂浜。美しい浜辺には贅沢にも二人の人間と一匹の猫しかいない。

 荊は浜に打ち上げられた大きな流木に座り、波打ち際で戯れるアイリスとネロをぼんやりと眺めていた。けらけらと飾らない可愛らしい笑い声が響いている。随分と楽しそうだ。

 ふ、と荊の口元も思わず緩む。


 ――随分と安穏とした生活に落ち着いてしまった。


 視線に気づいたのか、アイリスはぶんぶんと大きく手を振って荊を遊びに誘う。

 荊は気だるげに手を挙げて反応を返したが、腰を上げることはしなかった。元より応じないことを分かっていたのか、アイリスはすぐにネロとの遊戯を再開する。


 ふと、荊は自分の手のひらを見つめた。

 汚れた手だ。今更、善人ぶるつもりもないが、悪人であることは不変である。


 生まれた世界から追放されて一週間、自分の命に悪魔使い以上の価値も経験もないことを荊は痛感していた。

 やりたいこともなければ、何をしていいのかも分からない。なぜ、生きながらえようとしているのか、その理由もぼんやりとしている。

 この一週間は小屋の掃除と言葉の勉強に費やしたが、それが終わったら何をすればいいか。

 

 悶々と思考にふけっていた荊にするりと影がかかる。顔を上げれば、遠くにいたはずの少女が目の前に立っていた。


「アイリス?」

「荊さんって髪も目も青いんですね。黒いのだと思ってました」


 青といっても深い濃紺である。日陰で見れば黒にしか見えない。

 だからどうしたというのか。突然の雑談にきょとんとした荊の顔が珍しかったのか、アイリスはくすくすと面白そうに笑った。


「海みたいですね」


 細められた萌木のような黄緑色の瞳、潮風に遊ばれる朝焼けのような朱の髪。

 荊にとって、少女は眩しかった。自分とは違ってなんて無垢なことだろう、と思わずにはいられない。そして、その純真が悪意によって消されなかったことが本当によかったとも思えた。


 アイリスは心身を数多の悪意に深く傷つけられただろうし、簡単に忘れられることでもないはずだ。それでも、今はこうして笑っている。


 ――アイリスが笑えているなら、俺がこの世界に来た意味もあるのかな。


「あの、荊さん」

「はい」


 アイリスは緊張の面持ちでいた。ぎゅうと自分の服の裾を握り、むずむずと唇を震わせている。何か言いたげなのは分かったが、荊は催促をしなかった。彼女が口を開くのを静かに待つ。


「私、あの日にも、言ったんです、けど――」


 たどたどしい声。

 ちょっとの沈黙の後、意を決したアイリスは荊の両手を取った。頬を紅潮させながらも、しっかりと視線を合わせる。


「そっ、傍にいさせてください!」


 まるでプロポーズのようだった。


「わ、分かってるんです。私なんか何もできないし、お邪魔になるだけで、荊さんに良いことは何もないんです。けど、ええと、あの――」

「仰せのままに」


 一生懸命に言い訳を重ねるのを、言葉を挟むことで強制的に止めた。続けて「俺はあの日にそう言ったんだよ」と告げる。

 アイリスの言動には、小さな子供が憧れだけで結婚したいと主張するような愛らしさがあった。荊は目尻を下げて優しく微笑む。ネロが目撃していたなら、衝撃で吹き飛んでしまいそうなほど彼らしくない。

 アイリスはあの日に見た荊の笑顔を思い出し、照れくさそうに目を伏せた。きゅっと繋いだ手に力が入る。


「あと、アイリスがいて俺は助かってる。この世界の常識も知らない俺に懇切丁寧にいろいろ教えてくれるんだから。こうして君と話せてるのだってそう。なにより――首輪を外してくれた」

「……」

「本当に感謝してる。俺が生きてるのはアイリスのおかげだ。ありがとうございます」


 想いが寸分違わずにこの手から伝わればいいのに、と荊は力強く握り返した。


「俺の方こそ、君に傍にいて欲しい」


 アイリスを見上げる荊は誠実だった。

 何度も何度も首肯し、ぱたぱたと泣き出した彼女に、荊はけたけたと声を上げて笑う。期待を裏切らない子だ、と。


 生きていくために必要な希望が芽生えたのは、荊もアイリスも同じだった。

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