第13話 甘い毒、夜の夢
長居は無用――。
突然なる惨劇をそのままに、目的であった少女を連れて荊たちは船を後にした。帰り道は急ぐこともない。荊とネロはゆっくりとした足取りで海上を歩いていく。アイリスは意識こそあるものの調子の悪さは一目瞭然で、硬い布に包まれたままおとなしく荊の腕に抱えられていた。
「ねー、殺さなくてよかったの?」
遠くなっていく船影を振り返りながら、ネロは甚だ疑問だと口を開いた。
「もちろん。体験談を盛大に流してもらわないと。あの島には本当に死神が住んでいて、生贄は死神のものだってね」
「あのまま船で死んじゃうかもよ?」
「そのときはそのとき」
荊は元より大した成果は望んでいない。あの島を人から遠ざけるのに一役かってくれればいいかな、といった軽い希望だった。
もはや、あの島を拠点にすることは荊の中で確定事項となっている。噂だけで牽制できるならそれに越したことはない。
「ところで、この世界でも死神は鎌を使うのかな」
純粋な疑問だった。
荊は自らが死神を名乗り、恐怖の対象となることは構わなかった。むしろ、望むところなのだが、この世界での死神がどんなものかを知らない。
ネロは水面を蹴りながら「しーらない!」と他人事のように答えた。
よく知りもしない島へと戻ってきた頃には夕暮れだった。
海は沈みゆく太陽の色に染められ、気温も昼に比べて少しばかり肌寒く感じられる。
――そういえば、季節はいつだろう。それ以前にこの世界にも四季があるのかな。
当然だが知らないことが多すぎる、と荊は嘆息した。
そして、自分の今の状況を改めて考え直す。言葉も通じない異世界へと飛ばされ、荊にあるものといえば、自身が契約する悪魔たちとこの世界で出会った生贄の少女。それだけだ。
「荊? どうかした?」
黙りこくった青年を心配してビー玉の瞳が見上げる。
「……いいや、何でもない」
荊は柔らかく微笑んだ。心底から、自分がここに一人ではなくてよかったと思う。
湖のほとりで一夜を明かすことを決めたのはネロだった。彼の能力的に水辺の方が戦いやすいというだけの理由であるが、生活のしやすさも無難で荊は異議なく受け入れた。
荊もネロも野宿は慣れたもので、一夜の宿の準備はてきぱきと整えられていく。
「お魚取ってきたよ!」
「ありがとう。ネロは頼もしいな」
「へへーん」
ネロは積み上げられた魚の前で誇らしげに胸を張る。氷雪の能力を扱えるネロにとって、水辺での狩りは呼吸と同じくらいたやすいものだった。
「早く焼いて!」
「はいはい」
ネロは荊の用意した焚き火の周りをくるくる回る。途中、近くの木の根元で丸まっているアイリスへと近寄り、そっと顔を覗き込んだ。
少女の状態は誰の目にも不調と見えるものだった。熱のせいで顔を赤くし、荒く浅い呼吸を繰り返している。元より限界だったところに心労がたたり、回復するには長引きそうだ。
「アイリスのこと治してあげないの?」
「それがシャルルがうんともすんともでさ。今日はたくさん死にかけたから怒ってるのかも」
「あーあ」
悪魔の力で治療ができないとなると、アイリスの自然治癒力頼りだ。どれだけ可哀想でも荊にできることはない。
――そういえば、まだ症状をきちんと確認してないな。
焚き火の周りに串刺しの魚を立て終え、荊はアイリスのもとへ歩み寄った。代わるように、ネロがアイリスの傍から離れる。
「魚が焼けるまで島を見て回ってきてもいーい?」
「いいよ。人がいたら拘束して転がしておいて。殺さないこと」
「はーい! いってきます!」
ネロはぱたぱたとご機嫌にしっぽを振って冒険に出発する。その背中を見送ってから、荊は具合の悪い少女に向き直った。
アイリスの顔色は悪い。全身を汗で濡らしていて、額には前髪がぺたりと張り付いている。荊が撫でるように髪を避けてやれば、指先から伝わってきた熱の高さにただただ驚いた。
「アイリス? 大丈夫?」
思わず飛び出た呼びかけに、薄っすらと瞼が開く。
涙ににじんだ瞳は焦点が合っていなかった。様子がおかしい。息の荒さにも違和感がある。疲労からくる体調不良かと思っていたが、具合が悪そうというよりも――。
荊は嫌な予感がした。
するりとアイリスの顎下に指を置き、ぐいと持ち上げ首筋を露わにさせた。異常は簡単に見つかる。当たってほしくない予感が当たっていた。
赤い点――注射痕。
「これ、いつ打たれたの?」
「ひぅ……、ふぁ、あ」
荊が注射痕に指を乗せると甘い声がアイリスの口から漏れ出す。それから、薄い手は荊の指を握ると愛おしそうに頬擦りした。それから、熱のある吐息とともに唇が開き、荊の親指を扇情的に
「んっん、ん――」
――本当にアイリスは手間をかけてくれる。本人が悪くないっていうのが余計にたちが悪い。
薬を打たれてる。それも、自我が崩壊するくらい強く快楽を求める媚薬。
荊は思いついた最善の対処法に気が滅入る思いだった。
気絶させたところで体に籠もる熱はどうにもならないだろう。ならば、あるかも分からない解毒薬を探るより、欲を発散させてしまうのが手っ取り早い。
「アイリス、一人でできる?」
それはほとんど社交辞令みたいなものだった。
肌が露わになることにも構わず、まとっていた布を地面に落としてでも懸命に荊の指をしゃぶるアイリスは正気には見えない。コミュニケーションができるとも思えなかった。
「こういうことしたこと、……なさそうだよなあ」
好きにさせていた親指を可愛らしい口から引き抜くと、ちゅと湿った音が鳴り、唾液が糸を引いた。
荊は自由になった親指でアイリスの唇を拭ってやる。少女はうっとりと目をとろかせた。
「アイリス。これはアイリスが見てる夢だよ。起きたら忘れてるから」
荊にしてみればこれは仕事のうちと割り切れる。しかし、アイリスはそうもいかないだろう。
――終わった後でアイリスがこのことを覚えていないといいけど。
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