第12話 死神の生贄

 こちらからあちらが見えているなら、あちらからもこちらが見えている。加えて、海の上を走る姿はその異常性から嫌でも目にとまるだろう。

 当然、見つかっている。

 荊たちの思惑がばれているかは謎だが、船からは敵意を持って銃を発砲してきていた。とはいえ、被弾する気配はまったくない。荊はこの世界にも銃器があるんだな、とずれた所感を抱いていた。


「船は壊さなくていい」


 荊は船がネロの射程圏内に入る前にそう注意した。そうやって言っておかなければ、見た目の愛らしさに反して血気盛んなこの悪魔は壊せるものを壊してしまう。

 ネロはぴるると耳を動かすばかりで、荊ではなく獲物を見据えていた。


「じゃあ人間は壊していいよね」


 傲慢で断定的な物言いに、荊は苦笑して「一人は残して」と願い出る。返事はない。


 船への最後の一歩を踏み切ったところで、ネロは打ち出された砲弾のように甲板へ突っ込んでいった。銃だのナイフだので応戦する輩たち相手に、怯むこともなく果敢に攻め入る。

 阿鼻叫喚。大の男たちが船を傾けるほどに暴れ回っていた。荊の耳には理解できない言語であるが、おそらくは暴言であろう罵声が飛び交う。その矛先が向けられているのは荊ではなくネロだ。

 ネロが武器へがぶりと噛みつけば凍りつき砕け、人間の腕を引っ掻けば凍傷ができあがる。この狭い戦場を制圧するのには、氷を操る小さな悪魔だけで十二分であった。


 荊はネロの蹂躙を放ってアイリスへと近寄る。途中、動く障害物が一つあったが、ネロの担当だとばかりに彼がいる方へと文字通り一蹴した。


「アイリス」


 改めてアイリスの惨状を目にし、荊は反吐が出た。

 ぼろぼろとあふれる涙は止まることなど知らないようで、恐怖に顔は歪み、羞恥に肌が赤く染まっている。

 衣類は一つも残されなかったらしい。両足首と両手首がそれぞれ縄で縛られ、さらに腕が頭の上にくるようにマストに拘束されている。

 素っ裸にされ、それを隠すことも許されていなかった。小さな口内にはアイリスが着ていたぼろ切れが詰め込まれている。


「君はどうしてそんなに不運なんだよ」


 独り言のように呟かれた苦言は誰の耳にも届かない。

 荊が縄という縄を大鎌で断ち切れば、涙に目を溶かしたアイリスが彼の胸へと飛び込んだ。

 荊は鎌を手放し、両腕で華奢な少女を抱き留めた。細く薄い身体は離れないとばかりに荊に縋りつく。震えが全身から伝わってきた。どれだけ心細く、どれだけ恐ろしかっただろう。

 荊は片手をアイリスの顎に添えて無理やり顔を上げさせると、口の中から異物を取り出してやった。


「イ、イバラ××、××」

「ああ、もう大丈夫だよ。怖かったね」


 なんでもいいから服を、と思っても荊だって上半身は裸である。貸し出せる服はない。

 辺りを見回しながら、ぽんぽんとアイリスの背中を叩いてあやしていると、背後からネロが「荊~」と呑気な様子で身の丈の何倍もある布切れを引きずってくる。

 どうやら仕事は終わったらしい。


「ないよりいいでしょ」

「助かるよ」


 ネロが引きずってきたのは、船の荷物にかけるための備品らしい汚れた布だ。硬い布は肌触りなどあったものではないが、大きさは十分だった。

 荊はアイリスを包むように布をかけてやると「アイリスのことお願い」とネロに彼女の相手を頼んでくるりと振り返った。

 その手にはいつの間にか大鎌が握られている。


 荊の目に映る光景は凄惨と言える。ネロの仕事は見事なものだった。

 四人のうち三人は物言わぬ氷像となっていて、生死は一見では分からない。もう一人は甲板に転がっていた。生きてはいるし、意識もある。しかし、自由はなかった。アイリスがそうされていたように手首と足首を氷で拘束され、口からは目一杯に詰まった氷柱がそそり立っている。

 男のうめき声は意味のある言葉には聞こえない。


「俺は呪われた島の死神。死神への生贄を返してもらいにきたんだ」


 優しい声は子守唄のようだ。

 かろうじて生きている男の首へ、鎌の刃が突きつけられる。男は血走った目を大きく見開き、怪しく光る刃とたおやかな荊の顔とを交互に見ていた。

 命乞いなのか、氷塊の溢れた口から聞こえてくる声は必死である。


「あの子はもう俺のだ。二度と手を出そうとしないで」


 つうと鎌の切っ先が男の首を撫でる。薄皮を裂き、皮がめくれて線が通った。刃の峰で喉を押し潰すとくぐもった嗚咽が漏れる。男の目からこぼれた涙は甲板に落ちる前に氷となって頬に張りついた。

 死をちらつかせているのに男が肯定も否定もしないことに荊は首を傾げた。――答えはすぐに見つかる。


「ああ。言葉通じないんだっけ」

「ボクが伝えたげる」


 ネロは荊の背後から前に出ると、男の首元に足をかけた。爪の飛び出した前足で荊のつけた傷をなぞる。みるみるうちに氷の首輪ができあがった。ネロの匙加減で締まりも緩みもするそれは、気絶しないぎりぎりで男の首を締め上げた。

 荊の言葉を宣告する悪魔の行動は血も涙もない。泣くことも許されない男は必死に首を縦に振っている。


「イバラ××」


 呼ばれるままに振り返れば、疲れ切ったアイリスの姿があった。涙は止まったようだが腫れた目元の痛々しさは変わらない。

 ほんのわずかな時間しか離れていないのに、なんだか随分と痩せ細ったように見える。


「××××××××××」

「……どういたしまして」


 告げられた言葉を理解することはできないのに、荊はどうしてか間違いなく感謝の言葉だと思った。実際、彼の判断は正しい。

 返答を聞いてアイリスは嬉しそうに微笑む。彼女も理解できない言葉の意味を分かっているようだった。


「俺はあの島に戻るけど、アイリスはどうする?」


 荊はアイリスに言葉が通じていないと分かりながらも話しかける。なんとなく、自分の言葉で彼女と話してみたかったのだ。


「帰る場所があるなら――」

「××××××××××」


 送っていくよ、と続くはずの言葉はアイリスにかき消される。

 少女の無垢な瞳は、凪のように静かな荊の瞳を見つめた。悪意にさらされてなお、腐ることなく純潔を誇り続ける姿は荊の胸を打つには十分だった。


 ――この子と、アイリスと一緒にいよう。


 お互いにお互いの心音が聞こえるような錯覚を覚えるほど、心も体も通っているとこの一瞬だけは断言できた。

 運命という状況があるとすれば今、このときである、と。


「仰せのままに」


 荊は美しく微笑んだ。

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