第11話 不運は新たな不運を呼ぶ

 アイリスを乗せた船はすでに離岸している。

 着実に船が遠ざかっていくのを見ながら、荊は思わず嘆息した。ネロも「ちょっと目を離したらこれなのぉ!?」と開いた口が塞がらないようである。


「手入れのされたいい船。とてもじゃないけど海賊のものとは思えない」

「じゃあ?」

「誰も近づかない呪われた島に来て、迷いなくアイリスを捕えたんだ。彼女がここにいるって知ってたんだろうね」


 船の上には男が四人。彼女に結婚をせまった男やその関係者、彼女を生贄としてここに連れてきた人間、候補はいくつかある。

 素性は分からないが、アイリスを助けにきたのではないことは見ただけで分かった。

 アイリスは裸に剥かれたあげく、縛られて自由を奪われている。逃走防止か、悪趣味な鑑賞か。小型の帆船とはいえ、少女一人、隠そうと思えば隠す場所はあるはずなのにああしているということは後者の可能性が高い。

 酷い仕打ちだ。立て続けに心ない男たちに性的にもてあそばれ、死ぬより辛い経験になっているかもしれない。


「ヘル」


 荊は何もない宙に腕を伸ばし、大鎌を片手で掴み取ると、その柄でとんとんと肩を叩いた。


 ――さて、どうしたものか。


 船は出航したばかりで波にも風にも乗っておらず、進む速度は遅い。走って追いかけられる距離ではあるが、いかんせん海だ。走るための道はなくなっている。


「助けに行くの? 逃げてもいいっていってたのに?」

「捕まるのと逃げるのじゃ話が違う。結婚を断って、生贄として死を覚悟しただろうに。それが海賊どもに犯されそうになったうえ、意味の分からない悪党に捕まえられてお先真っ暗なんて。可哀想だ」

「……随分、あの子の肩を持つじゃんか」


 ネロは疑念と驚愕を混ぜた視線で隣に立つ男を見上げた。ネロにしてみれば、荊が少女を可哀想だから助けるというのは意外でしかなかった。

 荊は博愛主義でもなければ、慈善的なヒーローでもない。アイリスは確かに不運な目に遭っているが、それを運命だと切り捨てるのがネロの知る彼なのだ。


「気づいてないみたいだけど」


 ぺちぺちと荊の手が自身の首を叩く。日に焼けていない肌は病的なまでに白い。

 不思議そうにしていたネロはかっと目を見開き、毛を逆立て「にゃ!?」と垂直に飛び上がった。透き通った青い瞳は現実を受け止められないとばかりに揺れている。

 そう、荊の命を縛っていた無機質の飾りがそこにないのだ。


「どうやったのか知らないけど、彼女が首輪を外してくれた。恩義を感じるには十分だよ」


 ネロは未だに驚き、言葉を失っている。絶句。荊の首を見つめたまま、そわそわと挙動不審に歩き回った。

 対して、荊はくつくつと面白おかしそうに笑った。恩返しをしようとしている自分の行動に違和感があるのは当人も同じだった。


 今の自分には悪魔しかいない――、荊はこんな身軽なことが生まれてから一度もなかった。だからこそ、少しくらい心のままに行動してみるのもいいかと思えたのだ。


「死んだと思われてるあの子の命に、尊厳が与えられるとは思えないしね」


 どんなことにも、より悪い事態は確実にある。特にアイリスという少女はそういったものを引き寄せる気があるように思えた。


 ――悠長にもしていられないか。


 荊が海へと足を動かすと、その行く手を遮るようにネロが立ちはだかった。

 じっと荊の瞳を見て、それから船の方へと向きを変える。頼もしい背中だった。


「なに、手伝ってくれるの?」

「荊の恩はボクの恩だからな!」


 ネロの体の周りに白い霧のようなものがふよふよと漂う。

 凍気。ひんやりなんて可愛らしいものではない。ばきばきと周りの空気が凍てつく音が鈍く響いた。音はだんだんと大きくなっていき、それに比例して気温が下がっていく。

 瞬く間にネロの発する凍気は、彼の小さな身体の周囲に氷の粒を降らせた。


「それじゃあ、行こうか」


 荊はぐっと足に力を入れ、勢いよく地面を蹴った。ネロも一緒になって飛び出す。一人と一匹はふわりと高く飛び上がり、へ降り立った。

 先に界面に足をつけたのはネロだ。小さな白い足をつけた海面が一瞬にして凍る。遅れて荊の足が氷を踏むが、真水だけが凍った足場は脆い。

 次の一歩を踏み切る。跳ねた先、足が着水する直前で再び、瞬間的に足場ができあがった。綱渡りのような危なっかしさはあるが、海に落ちることはない。

 荊とネロは氷の飛び石を駆ける。船までの距離は他愛のないものだ。

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