第10話 異彩の悪魔使い

 深い緑に囲まれた森。地面を覆う植物たちは各々自由に育ち放題であるが、その中には明らかに人為的に踏みならされた跡があった。まるで巨大な蛇が這ったように折れた草の道は、島を根城にしている海賊たちに作られた通路なのかもしれない。


「アイリス、逃げちゃうんじゃない?」

「彼女がそうしたいならそうすればいい。俺たちが束縛するのもおかしな話だろ」


 のんびりとした歩調に安穏とした口調。異世界に追放されたというのに、荊に焦りや陰りは一切見て取れない。

 それは荊が異世界に落ちたところで怯む必要もない強者だから、としか言いようがなかった。


 契約した悪魔の力を使役する者――悪魔使い。悪魔使いという存在は非常に稀有な存在だ。

 まずもって悪魔の召喚儀式をした時点で、ほとんどの者たちが契約に至らず命を落とす。人間の魂は悪魔と契るには脆弱すぎるのだ。

 選ばれた魂を持った者だけが悪魔との交渉の場につける。

 魂の許容する限りは何体でも悪魔と契約ができるが、そんな話は夢のまた夢。絵空事だ。


 悪魔の持つ力は特性こそさまざまだが、紛れもなく理を壊す異能である。一体でも契約できれば覇者になれ、二体いれば世の秩序を再編できる。

 そんな悪魔使いの中でも、式上荊は破格だった。

 契約する悪魔は五体。

 例え話もできないほどの強大な力を保有している。加えて、彼は裏社会の仕事人として十四年もの歳月を過ごしていた。当然、悪魔の力無しにも戦える。

 荊にはアイリスを襲っていた海賊をたやすく処理できる程度の力はあった。彼女に外してもらった首輪のような絶体絶命はどうしようもないが、それも壊れた今、荊を縛るものは何もない。何なら、この世界では身分も名前もない。存在しない人間だ。


「くんくん。この島、なんか変な感じがするね」

「ああ。俺もそう思う。島の奥に妙な気配がして、――嫌な感じだ」

「本当に死神がいたりして!」

「さてね。殺意みたいなのは感じないし、相手が生き物なら出方を待つよ」


 踏み荒らすことで無理やり作られた一本道。その終着点は湖だった。

 木々は円を描くように湖を囲っていて、緑の屋根にぽっかりと穴が空いているようだ。遮りなく青空が窺える。水は澄んだ色で揺らめく水面の先に湖底が見えた。湖に繋がる水路はない。湧き水でできた水源なのだろう。

 ネロは湖を覗き込み自分の顔を水面に映すと、ためらわずに舌を伸ばす。ぴちゃりと舌先が濡れると「淡水! 安全!」と高らかに叫んだ。


「助かるよ。ありがとう、ネロ」

「どういたしまして!」


 荊は血の固まりかけた服を脱いで、ざぶざぶと水中へ進んでいった。冷たい水は身を清めるのに適温とは言えなかったが、不快を洗い流せるなら贅沢は言わない。

 ざぶんと身体を潜らせ、息が続く限り沈んだままでいた。濁りのない水は荊の汚れをそそぐ。

 ほどなくして、荊は湖底に足をつけ、ゆっくりと立ち上がった。水深は荊の腰くらいまでしかなく、溺れることなく立てる。湖底の砂に足裏が沈み込んだ。


「……これからどうしよう」


 荊は水濡れの髪をかき上げ、空を見上げる。広がる爽やかな青の色は、元いた世界と同じにしか見えなかった。

 犬のようにふるふると水気を切るように頭を振る。黒の髪は太陽に当たると青みがかって見えた。瞳も同じ色だ。水面から反射した光に照らされ、深い紺色の瞳が静かに煌めいた。


「楓に復讐しに行こうよ!」


 荊の独り言に意気揚々と意見を出したのはネロだ。荊は反射的にかぶりを振る。


「まさか、夜ノ森の家に背くようなことできないよ」

「ハァ!? こんなどこだか分かんない異界に追放されたのに!?」

「されたのに」

「ええ〜」


 残念そうなネロの声を聞き流しながら、荊はじゃぶじゃぶと水面を荒して湖から上がった。汚れた服を着直すか悩んだのは一瞬で、綺麗になった体で下半身だけ服を着込んだ。

 残った服はゴミ同然だったが、荊はそれを捨て置くことなく手に掴む。


「荊、アイリスのとこに戻るの?」

「うん」


 湖の周囲をふらふらしていたネロは先行く荊の肩に飛び乗り、ご機嫌に「気に入っちゃったの? アイリスは美味しそうだもんね」と悪魔らしいことをのたまった。

 荊はつまらない冗談に返事をせず、黙ったままで荒れた林道を進んだ。


 島の奥に感じる正体不明の気配は変わらないが、害獣にも海賊にも遭遇しない。動物の鳴き声らしき音も聞こえず、風に木々が擦れる音と遠くから波の音が聞こえるばかりの静かな島。

 荊たちが来た道を戻る途中、その静寂の島を脅かすように剣呑とした悲鳴が聞こえてきた。それはさっきに別れた少女のもの。


「アイリス?」


 荊とネロは自然と顔を見合わせた。

 何事か疑問に思いながらも走り出したのは、どうにも不穏だったからだ。次いで、遠くから聞こえてくる声はアイリスのものではない。彼女以外にも何人かの男の声がする。

 荊は足場の悪い道とは思えない速度で駆け抜け、到着寸前のところで、ネロが荊の肩を蹴って飛び、先行する。


「――荊!! アイリスいない!!」


 あるのは首のない海賊の死体が二体だけ。傍には誰もいなかった。アイリスが肩からかけていた荊の上着だけが地面に落ちている。

 ネロはぱたぱたと耳を動かし「こっち!!」と木々へ飛び込むように駆け出した。荊がその後をついて走り行けば、段々と薄れていく緑の先に青が見えてくる。

 海だ。

 そして、そこには――。


「××、イバラ××! ××××!!」


 小型の帆船。四人の男、それから、縛られた少女。

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