第9話 偽りの無法島
「じゃあ、君を襲ってた人たちのどっちかがそのおじさん?」
ネロの訳した言葉を聞き、アイリスは真っ青な顔で肩を震わせる。
最後まで致していないとはいえ陵辱されたことか、人間の首が刎ね飛ばされたことか、いずれにせよ思い出したくない光景が蘇ったに違いない。
荊は随分と軽薄に「ああ、ごめん。配慮に欠けてたね」と謝罪した。口先ばかりの謝罪のようだ。
アイリスの首は否定を示すために横に振られる。ネロと二言三言の言葉を交わした後に、彼女は再び首を横に振った。
「この島、海賊のアジトにされてるみたい。さっきのは色欲ジジイじゃなくて、島に残ってた海賊だって」
「……ふうん、なるほどね。呪われた島に近づく奴はそうそういないから、たまに降ってくるゴミさえ気にならなければ、無法地帯で好き放題ってわけだ」
いよいよ呪われた島の逸話も住まうとされる死神も、すべてがふざけた法螺話と言えそうだ。
異界から死体が不定期に届けられる異常事態と、この島に近づいた人間が海賊に襲われた結果が重なり、死神の呪いなんていうデマが生まれたのだろう。アイリスの話を聞くに、死神の迷信によって二次被害まで出ている。呪いの話はまだまだ尾ひれを増やしながら独り歩きするに違いない。
――なんて間の悪い、不運な子なんだろう。
荊は素直にアイリスへ同情した。
若い女を娶りたい男に言い寄られ、それを袖にすれば死神へ生贄に出され、捨てられた島が実は海賊のねぐら。この容姿ならば商品になるし、手元に置いても楽しめる。絶好のカモだ。
荊が一方的に哀れんでいる間、ネロとアイリスはぼそぼそとした会話を続けていた。
「荊はどうしてここにきたの? って聞いてるけど」
――どうして、ね。
「俺は世界を追放されてここにきたんだよ」
「……馬鹿正直に言う必要あんの?」
「隠す必要だってないだろ」
知られたってどうってことはない、と荊は考えていた。それは情報に秘密にするほどの価値がないというわけではなく、相手が力を持たない小娘だからだ。
この世界の常識は知らないが、今までの会話からおそらくは元の世界と大差ない価値観であるように思えた。死神という存在は畏怖されるもののようだし、海賊という存在は略奪をしている。
そもそも共通認識ができる名詞がある時点で、似通った文化の発展をしているのではないかと推測できる。
「悪人なんですか?」
半笑いのネロの声とともに、アイリスの猜疑に満ちた視線が荊を突き刺す。しかし、そこにはかすかな希望が確かに光っていた。
荊は彼女の無垢さに苦笑する。
――あんなことをしたのに、善人だと信じようとされている。ちょろいとしか言いようがない。
荊が何者だろうと、害を与える存在かどうかは別の話であるのに。少なくとも、意味なくアイリスを手折ることは死神にはたやすい仕事と言えた。
「もちろん。悪人だよ。仕事と言われればどんな悪事にも手を染めてきた」
極めて丁寧かつ、誠実に胸を張った。それは正しい回答でありながら、ちょっとした悪戯心が含まれていた。
ネロの口から告げられる返答を聞き、アイリスはかちんと固まってしまう。ブリキの人形のようにぎこちなく首を背け、肩にかけられた服を震える手で引き寄せる。
荊にしてみれば百点満点の反応だった。
「黙っちゃったじゃんか」
「はは、それは俺にも分かる」
アイリスの目には、呆れた様子のネロよりもけらけらと笑う荊の姿こそ悪魔に見えていることだろう。
自分からからかいにいったにも関わらず、荊は怯えるアイリスを前に「さて、こんなとこか」と自分はまったく関していないような口ぶりで終止符を打った。
「とりあえず、血を洗い流したいな。身綺麗にして、体力を戻して、頭をすっきりさせてから、これからどうするか考えよう」
「能天気め」
「慌てふためいて泣き出すよりはいいだろ」
「まあね。水浴びするなら、あっちから水の音がするよ」
ネロはたたたっと軽快な足音で駆け出し、行く先を示して振り返った。それに続くように荊が立ち上がると、連鎖してアイリスが引きつるような悲鳴を上げる。
少女はかたかたと揺れる華奢な体を自ら抱きながら、死神の動向を見守っていた。
「アイリスも一緒に行く?」
全身が汚れているのはアイリスも同じだ。成人男性が首を切断されたときに流れる血液を二人分かぶっている。
他意もなくただの親切からの誘いであったが、アイリスはそれを至極当然のように拒否した。
「ここにいるって。断られてやんの!」
「それは残念」
――危機感があるのか、ないのか。
彼が何も言わないのならば、ネロだって何も言わない。一人で残るのは危険だと提言することもせず、一人と一匹は未知の森の中へと踏み入った。
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