第7話 ようこそ、異界

「知らない場所に飛ばされたみたい。外国かな。お嬢様の悪魔サロメがこんな力を持ってるなんて全然知らなかった」


 荊は今となっては無意味な反省をする。仲間の手の打ちなんて全部把握したものだと思っていたが、とんだ勘違いだったらしい、と。

 しかし、今はサロメの能力の詳細よりも、ここがどこだかを知る方が大事だ。

 最低限の荷物も役に立つ道具も持っていなければ、お金もない。とにかく情報がなければ、この状況は二進も三進もいかない。


 ――この場所に飛ばされた直後に目撃した非道からして、治安はあまりよくなさそうだけど、どうだろう。


「……あのさ、荊」

「はい」


 ここにきてネロは神妙な顔である。

 うろうろと落ち着かない様子で荊の周りをうろつき、短い呻き声を繰り返した。何かをためらっているようだ。

 しばらくそうしていたが、意を決したのか、ぴたりと足を止めたネロは揺れる青い目で荊を見上げる。猫のかたちをしていても悪魔は悪魔である。その表情は人間のように喜怒哀楽が明確で、今、彼に浮かんでいるのは困惑だった。


「ここ、その――、ボクの故郷でもないし、荊のいた世界でもないみたいなんだよねぇ」


 ネロがようやく絞り出した言葉に、荊は大きく首を傾げる。


「どういうこと?」

「知らない世界、みたいな」

「知らない世界?」

「ボクにもよく分からないけど、ここ、荊のとこと別の異界じゃないかな」

「じゃないかなって……」


 ――まさか、そんなこと。


 にわかには信じがたい。

 ネロの言葉を素直に受け止めるならば、ここは世界を越えた場所ということだ。

 荊はかぶりを振った。自分は悪魔ではなく人間だ。召喚される対象ではない。そんなことあるわけがない――、そんな思考を嘲笑うように、彼の脳裏に聞き慣れた声が鳴り響いた。


『さようなら、私の可愛い”死神”。お前はこの世界からよ』


 ――いや、そういうことか。


 世界から追放――、荊は楓から贈られた最後の言葉の意味をようやくと理解した。そのままの意味だったのだ。

 世界から追い出された。生まれ落ちた世界から、別の世界へと。

 殺せないなら、消してしまえばいい、そんな非道の考えで世界から存在を抹殺された。


 ――そこまでして俺を消したかったのか。


 荊は深く嘆息する。

 悪魔の住まう魔界があるのだから、それ以外に世界があっても驚くことではない。しかし、自分が異界にいる実感は微塵も湧かなかった。

 とはいえ、絶望に撃沈したわけでもない。

 この異常事態を寛容できる意味ではなく、そもそも絶望する意味がないからだ。


 悪魔使いとして命令されるがままに夜ノ森家の手足となっていた荊は、自分の欲求というものに対して関心が薄い。良くも悪くも、自分が今なにをどうしたいのか、荊は明確な答えを持っていなかった。

 異世界に追放されたからといって、何の不都合があるかと問われれば、荊の答えは夜ノ森家に仕えられないこと。しかし、追放されたのがそもそも、夜ノ森家の意志ならば、荊には元の世界に固執する理由がなかった。


「うーん、この世界でも魔界に繋がるだけ恵まれてたと思おうか」

「またそんな悠長なこと言ってぇ!!」


 手立てなく元の場所に戻ったところで、処刑対象であることには変わらない。こんな状況に追い込んだ楓に復讐したいのか、と聞かれても荊は素直に肯定はできなかった。彼はどこまでも夜ノ森家の従者なのである。

 唯一、気がかりがあるとすれば、同じ組織に所属し、同じ首輪をつけられている悪魔使いたちが自分と同じ道を辿ってしまわないかどうかだ。


「――ところでカノジョは誰なのさ?」


 ネロはずっと目に入っていたにも関わらず、無視をしていた少女の存在にようやく触れる。

 アイリスといえば、言葉を失ったままネロの動向を目で追っていた。この猫がどこから現れたのかも分からなかっただろうし、荊が話しかけたことにも、猫が言葉を発したことにも驚いただろう。


「その子はアイリス。俺の命の恩人」

「はあ?」


 ネロは不機嫌を隠すことなく声を荒げた。こんな状況で嘘をつかれたと思ったのだ。

 荊ほどの悪魔使いならば、誰かの命を救うことはあっても、誰かに救われるなんてことはない。ネロは当然のようにそう考えていた。

 ネロはきりりと目を吊り上げ、アイリスに向かって威嚇する。


「おい! オマエ、何者だ!」

「こら、ネロ。喧嘩腰は駄目だよ」

「……××××、××××××? イバラ××××××?」

「コイツ、荊のこと死神かって聞いてるけどさあ。何かしたの?」


 いきなり喧嘩腰の猫に動揺しているらしいが、アイリスは震える声できちんと対応した。その回答を聞いて、ネロは怪訝そうに荊を見上げる。

 死神とは元の世界での荊の通称だ。異界に生きるアイリスがそれを知っているはずがない。


「よかった、ネロはこの子の言葉分かるんだな。俺じゃ通じなくてさ。通訳してよ」


 相変わらず、この場で荊だけが空気を読んでいなかった。

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