第6話 白い悪魔は憤慨する
荊はゆっくりと意識を覚醒させた。
しかし、瞼は開くことを拒否している。身体は横たわったまま、動きたくないと駄々をこねていた。悪魔の力を行使し続けた代償が疲労として肉体を蝕んでいる。
顔色は良くなっているものの、本調子ではないようだ。
「…………、血の、におい」
いつまでも現実逃避をしてはいられない、と荊は目を開けた。気絶する前よりも明るい視界は視覚の異常ではなく、太陽の位置が昇ったせいだ。朝から昼に時間は移っている。
彼の腕の中にはぐったりとした少女が横たわっていた。ぱっと見は死体であるが、すうすうと穏やかに寝息を立てていることで生きているのを確認できる。
荊はのっそりと半身を起こして周囲の状況を見回した。そうして、にわかに気絶する前のことを思い出す。
当然、手は首に伸びた。ぺたり、ぺたりと何度触ってもそこには何もない。感動を通り越して呆然としてしまう。どんな奇跡が起こったというのだ、と。
もぞり、死体まがいがうごめく。
「ああ、おはよう」
少女はぱちぱちと大きな目を瞬かせた。とろりとした寝起きの無防備はすぐさま姿をくらまし、ぴゃあと小動物のような悲鳴を上げる。
荊から距離を取ろうとしたらしいが、力の入らない体では無理だったらしい。少女は体を起こしただけで、その場にとどまった。
二人はお互いに相手の出方を窺うように見つめ合う。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
見知らぬ者同士が黙りこくって生まれた静寂。しかし、空気は荊が気絶する前とは違う。荊は少女に興味を持っているし、少女は荊への警戒心を緩めていた。
少女の髪の毛は朝焼けのような朱の色で、瞳は萌木のような黄緑色。血や土で汚れに汚れているが、愛らしい顔立ちであることは分かる。
「……あ、アイリス」
先に動いたのは少女の方だった。荊と視線を交わらせたまま、少女は自分自身の顔を指差して見せる。
「ア、イ、リ、ス」
「……君の名前?」
荊は少女がしているのと同じように彼女の顔を指差して「アイリス?」と首を傾げた。少女は大きく首肯した。どうやら合っているらしい。
対して、荊も同じように自分のことを指差して「荊」と名前を告げた。
「イバラ」
思いの外、綺麗な発音だった。
「×××、×××××」
「……なんて?」
「イバラ×××××!」
「困った」
アイリスは一生懸命だった。まくし立てるように声を発し、身振り手振りで何かを伝えようとしている。しかし、荊には自分の名前しか聞き取れない。
言葉が通じなくても、コミュニケーションは取ろうと思えば取れる。スムーズにいくかと問われればそうではないが無理ではない。ただ、もっと楽な方法があるかもしれないなら試す価値はあるだろう。
頑張る少女を横目に、荊は一つの決断をした。
音が鳴るか鳴らないかの軽い力で手を合わせ打つ。神経を集中させ、すうと息を吸い込んだ。
「ネロ」
声に応じるようにして、荊に寄り添うように、どこからともなくするりと白い猫が現れる。
汚れのない真っ白の毛並みにビー玉のような青の目。しなやかに歩く猫は荊の膝に乗り上げると、小さな足で地団駄を踏んだ。そして、憤慨した様子で声を上げる。
「荊の馬鹿!」
「そうかな」
「馬鹿だよ、馬鹿! 大馬鹿者だ!!」
「はは、ネロには言われたくない」
当然のようにしゃべり出した猫――ネロは、荊が契約する悪魔のうちの一体だった。
目に見える異形の悪魔らしさはなく、どこからどう見ても何の変哲もない猫である。その姿の異常のなさがネロの武器でもあった。彼は堂々と人様の家の軒先を歩き、警戒されることなく対象を尾行をすることができる。
「楓の恩知らずめ!! 次に顔を合わせたら絶対にボクが殺してやる!!」
ネロは歯を剥き出しにして、甲高い鳴き声を上げた。愛らしい見た目に反して、随分と攻撃的な暴言だ。
そんなネロの激昂など意にも介せず、荊は「実は困ってて」とのんびり話を切り出した。緊張感の欠けた緩さが気に障ったのか、ネロは「そんなの言われなくても分かってるよ!」と噛みつくように言葉を返す。
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