第2話 さよなら、世界

 荊に着けている首輪は、聞き分けのない狗を殺すための処刑装置だ。裏社会の仕事人――悪魔使いを飼い殺すために必要不可欠の拘束具。


 装置を作動させないための決まりごとは複雑だが、いざ作動するとなればそれは実に簡単な働きをする。内蔵されているワイヤーが弾き出され、装着者の首を刎ねるのだ。それも時限式に何度も起動する。殺し漏れが無いようになのか、制御をつけるのが面倒だったのかは定かでない。

 死の首輪。

 しかし、こと式上荊においてはその拘束具はお飾りだと証明されている。――今のところは、であるが。


「シャルルは有能ね。お前は万が一にも大怪我なんてしないから、シャルルがこんなにも命をなんて知らなかったわ」


 荊は再び誰にも聞こえない舌打ちをした。楓の言葉は恐ろしく要点を突いている。


 荊は悪魔使いだ。

 悪魔使い――、魔界に住まう人智を越えた異能を扱う悪魔と契約し、その力を自分のものとして使う人間。

 一度、悪魔と契約してしまえば、死ぬまで契約の解除をすることはできず、一生を悪魔使いとして生きていくしかない。そして、契約者である人間が死んだとき、契約は果たされ、悪魔はその魂を喰らう。


 荊が契約している貧欲の悪魔ことシャルルの持つ力は、“回復能力”であって“蘇生能力”ではない。その能力を使うにも荊は魂の精力というものを削っていて、定期的に処刑を行う首輪の前にはジリ貧であった。

 このままでは、刎ねられた首の傷を回復できなくなるときが必ずやってくる。


「……大人しくしていれば、こうやって粛清されることもなかったのに」


 一歩、楓は荊との距離を詰めた。


「お前もよく知っているでしょう。過程はどうだっていいわ。求められるのは結果だけ」

「ええ、もちろん」


 楓の腕がすっと前に伸び、ぱちんと指を鳴らす音を響かせた。

 荊は一層に警戒心を強める。楓がその動作をするのは、使役する悪魔を喚び出すときの合図なのだ。彼女もまた、荊と同じく悪魔使いである。

 しかし、彼女の首には物騒な飾りはついていない。それこそが覆せない立場の違いだった。使役する者と、使役されるもの。


「――!」


 音に遅れて、荊の目の前には、大きな口を愉快そうに歪めた女人の姿をした悪魔――サロメが立ち塞がっていた。

 何に見えるかと聞かれれば人間の女ではあるが、明らかにこの世のものではない。胴から下がなく、上半身はふわりふわりと浮遊し、長い髪を揺らしては白目のない暗闇のような二つの目と、額に開眼しているもう一つの目を細めて笑っている。三つの瞳がどこを見ているかは分からないが、この状況を楽しんでいるように見えた。


「サロメは俺の障害にはなり得ませんよ」


 悪魔と対峙しながらも、荊はこれっぽっちの動揺もしていなかった。

 サロメの姿を見るのは初めてではないし、悪魔使いと契約している悪魔は唐突に現れてしかるべき存在だからだ。それに加えて、荊には悪魔使いとしての実力は自分の方が勝っている、という確固たる自信があった。

 荊はサロメとの距離を取るように後ろへ飛び退くと、めいっぱい大鎌を振りかぶる。しっかりと軌道を見定め、悪魔の首を刎ねるために刃が振られる――はずだった。


「その鎌がどんなに強い悪魔だろうと、お前の手に握られてる限り、私の首は刈れないわ」


 瞬く間。サロメの身体を突き破るようにして、楓は自らの足で自らの首が大鎌の軌道へ乗る場所に飛び出した。楓の存在を認知した瞬間、荊の腕はぴたりと動かなくなってしまう。


 体に染み付いた忠誠。


 もうすぐ十八になる青年は、十四年もの間、夜ノ森家に仕えてきた。君主の娘に手を上げるなど言語道断。勢いでも楓を害せないのは必然でしかない。

 たとえ、自分が殺されようとしていても。

 たとえ、相手が兄と慕った男の仇だったとしても。


「いい子ね、私の可愛い“死神”」


 荊は楓の――夜ノ森の敵にはなれない。仇討ちなんてできるはずもなかった。


 動けなくなった獲物を見逃すなんて愚行を悪魔はおかさない。ぞぞぞと伸びたサロメの手が荊の頭を鷲掴みにする。白く細い指にぐっと力が入ると、掴まれた頭からみしりと軋んだ音が響いた。

 サロメの手から逃げるのは簡単なこと。しかし、楓をどうすることもできないのだから、逃げても逃げなくても結果は変わらない。抵抗することを止めてしまった荊の手からするりと大鎌が滑り落ちた。青鈍色のそれは月光を反射しながら、地面にぶつかる前に霧消する。

 ひゅるる、と凍て風が舞った。荊の決断を嘲笑うように。


「さようならね、荊。お前はこの世界からよ」


 荊の目から涙が一粒、こぼれ落ちた。

 彼はこんなにも酷い別れの言葉を聞いたことがなかったのだ。今まで悪魔使いとしてたくさんの死を見てきたが、そのどれよりも無情だと思ったのである。

 荊は言葉にはできない感情を息として吐き出した。短く、荒く、重く。

 彼がぼんやりとは察していた悪い想像が、今、現実のものになってしまった。姉と慕ったはずのその人は、最期の最後まで自分を生きた道具としてしか見ていなかったのだ、と。


 ぱっとサロメの手が開かれ、荊はぐしゃりとその場に崩れ落ちた。糸の切れた操り人形のように、嗚咽を上げることもなく静かに。


 荊は急な異変に顔を歪める。

 唐突に耳鳴りのような突き抜ける音が聞こえ始めたかと思えば、その音はだんだんと大きくなっていった。音量が下がることはなく、脳を音圧で潰さんとばかりに鳴り響く。あまりのうるささに荊は頭を抱えてうずくまった。頭が爆散しないように、耐え忍んでぎゅうと強く目を閉じる。

 駄目だ、脳が破裂した――そう錯覚した瞬間、奇怪音は前触れもなくぷつりと途絶えた。すべての音が消え去り無音になる。

 相反する静寂に聴覚が麻痺したのか、平衡感覚を保てなくなった荊は、そのままの体勢から身動きできなかった。脳から喉、胃に腸に手を突っ込まれて、ぐるぐる、ぐるぐる、これでもかとかき混ぜられているような感覚に吐き気をもよおす。気を抜いてしまえば、その瞬間に気絶してしまいそうだった。

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