第1章 運の悪い日は誰にだってある

第1話 悪魔使いは死と踊る

 ――甘い香りが身体にまとわりついている。死のにおいだ。


 嗅ぎ慣れたにおいではあるが、その出所が自分であることに式上しきがみいばらは自嘲した。まさか、自分がこんな状況に陥るとは思いもしていなかったのだ。


 雲一つない夜の空には、白々しい満月が浮かんでいる。

 柔らかな月光は隠しごとなど許さないとばかりに闇を照らす。とあるビルの屋上で起こっている奇妙な事件を目撃しているのは、その月だけだった。煌々とした月の目には、死神と魔女の姿が見えている。


「こうなったことでお嬢様が俺の始末に動くというなら、俺の考えていることは真実だということでよろしいのですか?」


 黒ずくめの服装をした荊は、同じく黒ずくめの服装をした女と対峙していた。

 夜ノ森よのもりかえで。荊よりもいくつか年上の女は、荊が仕える夜ノ森家の娘であり、彼の直属の上司でもある。


「死にゆくお前にその答えが必要?」


 楓は制裁の意志を燃やした瞳で、真っ直ぐに荊を見据えていた。

 視線は言葉よりも雄弁だ。意にそぐわない部下には、すでにお役御免の烙印が押されてしまっている。


 一触即発。張り詰めた空気の中では呼吸すらもままならない。荊は革手袋に覆われた両手で、身の丈よりも大きな鎌の柄を握り締めた。力を入れば入るほど、ぼたり、ぽたりと手袋から絞り出された液体が地面に落ちる。

 血だ。

 荊は着込んだ黒い服を、赤黒い血液でじっとりと濡らしていた。


「お嬢様。頑張るのは結構ですが、俺は殺せませんよ」

「そうかしら。傷口は治せても、失った血液は戻しきれていないように見えるけれど」


 荊は胸中で舌打ちする。楓の言う通りだったからだ。

 今、荊の身体に外傷はない。しかし、所々ぼろになった服と周囲に飛び散った色を見れば、彼が何かしらの傷を負ったことは明らかだった。


「綺麗な顔が真っ青よ、荊」


 綺麗な顔というのは世辞でもなんでもなく、荊は美しい青年である。自律行動をする人形と言われて信じてしまいたくなるほど、人為的に整えられていると疑いたくなるほど、端麗な容貌をしている。耽美という表現がお似合いだった。

 今は血の気のない顔色のせいで余計に作り物のように見える。


 楓はぐいと自身の顎を上げると、とんとんと荊と同じ革手袋をした指で自身の首を叩いた。黒ずくめから覗く白い肌は、月光に当てられて荊と負けず劣らずに色を失って見える。


「その首輪。拘束具として機能していなかったのね」


 そう言うが早いか、バチンッ! と何かが強く弾かれた轟音が響いた。鈍く、重く、引き裂くような耳障りな凶音。

 音の出所は荊の首に着けられた黒の飾りだった。機械でできた首輪。


「っ――!? がっ、あ!!」


 荊は声帯を失ってしまったかのように詰まった悲鳴をあげた。

 首輪の内側からぶしゃぶしゃと音を立てて噴き出す液体が、重力に従い下へ向かって流れ落ちる。真っ赤な血液はつい数秒前まで荊の体を循環していたものだ。

 死のにおいが色濃くなる。

 荊の体は首輪によって首とそれ以外とが接着されているように見えた。逆もしかり、首輪が大きな切断箇所で首と身体が切り離されているようにも見える。


「これで何回死んだのかしら?」

「この首輪が俺を殺そうとした回数の分だけ、ですね」


 荊は首輪の隙間から跳ねて顔を汚した血と口から垂れた涎とを荒々しく拭い去った。

 そう、たった今、荊の首は刎ね落されたのだ。

 しかし、首は繋がっている。

 荊は死の痛みを確かに経験したが、その致命傷はきっちりと回復されていた。断首から完治まで、荊は瞬く間に生死を移ろわせたのである。

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