第8話 その夜のために2

ハインリヒさんは、ぼくを草むらに投げ飛ばすと、そのまま背後に迫った男に回し蹴りを浴びせる。


ナイフを振り下ろされるよりも、その動きは早く、つむじ風が吹いたように見えた。


一人目の男を蹴り倒し、そして続けて二人目の男の剣を受け、ひるんだ男を蹴り倒す。


ハインリヒさんが、戦うところを、ぼくはこのとき初めて見た。


ハインリヒさんが倒した二人の男が倒れている。一人はお腹を抱えてうずくまり、うめき声を上げている。


もう一人は、失神したのか、声が聞こえない。


すると、うめき声を上げている男が、おもむろにぼくの座り込んだ足に手を伸ばしてきた。


ぼくは驚いたが、喉元まで迫り上がった声を押し殺して、立ち上がる。そして、ハインリヒさんの背中を見やる。


初めて出会ったときには、怪物にしか思えなかった。気を許せば食われてしまうだろう、とも考えた。


しかし、いつまで経っても、この人はぼくを食おうとはせずに、かえって、ぼくに優しくするばかりで、それをどこか不気味に思ったりもした。


しかし、時間が経つと共に、この人は、その行動に添った人であったことがだんだん分かってくる。


面白くないくらい純朴な性格をしていることが分かってくると、ぼくは警戒するのも馬鹿らしくなった。


そしてかえってこの人にちょっかいを出して、怒ったりしないだろうか、と探りを入れることを楽しみとした。


その頃からだろう。ハインリヒさんの言葉がちゃんと聞こえるようになった。薄っぺらい言葉を並べて、人間らしく振舞っているようだったその声が、しっかりした意味を持って聞こえてくるようになったのだ。


この人は、姿はどうであれ、人間なんだ。そう実感した。


ハインリヒさんの背中は、今は、ひどく頼りなげに映る。曇り空のせいか、暗い影を落としているように見える。


その景色を目に収めて、ぼくは振り返り、草原の向こうに見える畑と村を見やる。ハインリヒさんの言葉を思い返す。生きろ、とそう言われた。


ゆっくりと、足を一歩だけ、踏み出す。生きろ、という言葉をよすがにして一歩、また一歩と、歩き始める。足を踏み出すたびに、離れたくないという願いが、動こうとする心を引き裂く。


けれど、ぼくは生きろと言われたのだ。立ち止まる訳にはいかない。ぼくは、とうとうぼくの心の一部を、ハインリヒさんの傍に引きちぎって捨ててゆくことにした。


そして、その痛みをかき消そうとするように、一目散に駆け出した。視界がすぐにかすんで見えなくなる。


斜面に差し掛かると、ちょっとした段差で転んでしまう。


それでも、立ち上がって、涙を拭って、走らなければならない。


追っ手に捕まったりしたら、ハインリヒさんが作ってくれたチャンスが無駄になってしまう。


ハインリヒさんの言葉が、立ち止まろうとする心を、突き動かす。


まるで、心臓がもう一つあるみたいに思える。ハインリヒさんの言葉が、もう一つの心臓になったみたいだ。


ぼくの心臓が早鐘を打っていても、言葉が鼓動を生み出して、前に進ませてくれる。

 

それが不思議で、嬉しい反面、とても悲しかった。


畑のすぐそばまで来たとき、そこに畑を耕している人影が見えた。


駆け寄ってみると、顔を上げて、その人はこちらを見た。

 

どこか見覚えのある顔だった。男の人だ。

 

その人はぼくを見ると、呆然とした顔をして、時間が流れた。

 

ぼそり、とその人は言葉を呟く。


「ヤヌア」

 

そう聞こえた。すぐにその人はぼくに駆け寄ってくると、粋なりっ抱きしめてきて、その言葉をしきりに繰り返した。

 

どうやら、ヤヌア、というのは誰かの名前らしい。

 

聞き覚えがあるような、ないような。

 

ぼくには記憶がなかった。

 

あの冬の日の前からが、すっぽりと抜け落ちて、いる。

 

おじさん、誰、とぼくが言うと、お前の父親だ、と言った。


ぼくはそれを聞いて、またその人の顔を見たけれど、この人だとは思えない。

 

勘違いしているのだろう。

 

去ろうか、と思ったそのとき、男が声をかけてきた。


「一人できたのか。ここまで。」

 

ぼくは、ハインリヒさんの事を思い出さなければならなくなり、足元の地面が急に抜けたようなひどい気分になった。

 

何とか搾り出して、違うと答える。


「誰と来たんだ。」

 

男はまくし立てて言う。興奮しているようだ。


ハインリヒさん、と何とか搾り出す。嘘は言いたくなかった。あの人が他人だなんて、嘘でも口にしたくなかった。

 

すると、男は奇妙な事を口にした。


「今どこにいる、御礼をしなくては。」

 

疲れていたはずの心臓がひときわ大きく高鳴った。

 

それから、置き去りにしてきた気持ちがよみがえってくる。

 

ぼくは自分でぼろぼろと涙を流しているのを気づいていたが、拭うことをしなかった。

 

それよりも、伝えるべき事が山ほどあったのだ。


 

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