第7話 その夜のために1
木立をようやく抜けると、開けた視界に草原が見える。
いつしか晴れていたはずの空は曇っていた。
草原の向こうはなだらかな丘になっており、はるか向こうに掘り返された土の色がうっすらと見える。
畑だろう、そう確信すると、俺は草原を畑に向かって駆ける。
草を踏むのではなく蹴り飛ばすようにして、一面の緑を横断する。
程なく走ったところで、彼らも、森から抜け出し、草原に降り立ち、こちらに向けて駆けてくる。
着地の足音は数えて五つあった。
草原に足を踏み入れてから弓矢は飛んではこなくなった。
どうやら得物を換えたらしい。
大方彼らは、目的こそ知らないものの、俺を取り逃がしたくはないのだろう。
それまで一段として動いていた五人のうち左右に一人ずつが離れ、気取られぬよう回り込んでくるようだ。
草原の中では足音は消す事はできるが、草の擦れる音はどうあっても消すことはできない。
俺はその音を聞き、五人の位置をつかみつつ、囲まれぬように草原を動く。
しかし、森の中では追うのがやっとであった彼らだが、どうやら草原を主戦場とする者どもであるらしい。
森の中とは段違いの速さで、気がついたら横に並ばれてしまっていた。
横目で見ると、左右にその二人の男が視界に映る。
彼らはどちらも、緑色の外套に身を隠し、遠いのでよく見えないが、黒く平たい短剣を持っているようだ。
このまま村に向かって進んだとしても、このように追いつかれてしまっては逃げようがない。
俺は覚悟を決めなければならなかった。そして、畑が、草原に程近い、丘の縁にたどり着くと、俺はそこで立ち止った。
「ハインリヒさん、どうして、ここで止まるんですか!」
少年は驚きのあまり叫んだ。それに対して私は、うるさい、お前には、もう関係のないことだ、とだけ返した。
そして、それまで抱きとめていた左腕の力を抜いて、少年が離れるのを待つ。
しかし、少年は俺から離れずに、しがみついたままだ。
「何をしている、彼らがそこまで迫ってきているのが、お前にも聞こえるだろう。」
そう言うが、少年はしがみついた姿勢のまま動かない。少しだが、その力が強まったようにすら感じられる。
「俺から離れろ、小僧。馬鹿なことはよせ。」
俺がそう声をかけると、少年はすすり泣き始めた。体を震わせるそのさまは、冬の寒さに凍えているようにも見える。
あの日、もし、俺が出会ってなければ、この少年は本当に死んでしまったのだろうか。
もし。もし俺とは、全く違う、人間の姿をした人間であったなら。
そして、人が当然持つであろう良心を持っているのであったなら。
この少年は救われていたのではなかったか。
黒い短剣は迫ってくるごとに、その剣に染み付いた臭いをより濃くしてゆく。
濃密な血の臭いである。その臭いが濃すぎるがゆえに、俺は彼らの位置が、見ずとも分かった。
「小僧。お前は若く、弱い。だからこそ、お前は生きなければならない。
弱い事は、それ自体は恥じる事ではない。乗り越えようとする気概が、人の定めを分けるのだ。
だから、生きろ。」
すすり泣く声の狭間に、嫌だ、と聞こえたような気がした。
少年は、朝には俺の外套を嫌っていたが、昨夜にはその中で眠りについていた。
出会った頃には、化け物呼ばわりしていた俺の顔も、最近は怒ると容赦なく攻撃するようになった。
炉辺で話す俺の話は、最初は彼にとって子守唄でしかなかっただろうが、最近は何か変わった様子を見せ始めた。
俺がこの姿になって、もう百年は経っただろうか。
一人で居るのは、もう慣れたが、それは心の部分を切り落としていただけなのだと、少年と暮らすうちに、気づいてしまった。
人と共に生きる事を、まだ幸福と思っている自分を昼には呪い殺したくなる一方で、夜になれば、炉辺で昔話をしている自分が居る。
今まで、この獣の身を呪って生きてきたのに、少年は俺の姿を受け入れてしまった。
そして、少年は、今、何が起ころうとしているのか、知っていても尚、俺から離れようはしないのだ。
その事が、余計俺の心を引き裂いた。
血の臭いは、すぐそこまで迫って来ていて、あと歩幅にして三歩有るか無いかである。
俺は決断して、しがみついた少年の肩を左手で掴み、そのまま引き剥がし、放り投げた。
そして、呆然とする少年に背中を向けると、三人の狩人が、こちらに駆けてきているのが見える。
背後の狩人は、やはり勝機と見て取ったのか、上段に構えて切りかかる。臭いで分かった。
身を翻し、鎧もないその脇腹に、まず回し蹴りを浴びせる。そして体制を崩した格好のそのまま、奥の草叢に蹴り込んだ。
そのとき、狩人の手から短剣がこぼれたので、それを拾い、またもや背後から襲う二人目の狩人の短剣を振り返りざまに受ける。
狩人の顔が見えた。まだ年若い男で、俺の顔を見ると肌の色が青白くなった。
隙を逃さず、開いた腹にまた蹴りを入れ、草叢に叩き込む。
駆け出してゆく足音が聞こえる。先ほど倒した狩人は、腹を蹴られた痛みにまだ呻いている。
少年の足音が遠くなってゆく。もうあのような無垢なものには、きっと出会えないだろう。
だが、生きてさえ居てくれれば、俺はそれで良い。
「まず若い者を送ったか。」
少年の前では刀傷沙汰は避けてきたが、最後まで俺はそれを通した。
少年は丘を下って滑り落ちてゆく。そこから先は畑があり、村がある。
少年はどこかの家に拾われるだろう。
ああ、俺でなくとも良かったのだ。救われていたのは、彼ではなく、彼と共にいる俺一人だったのだ。
差し伸べる手さえあれば、少年はそれを取るだろう。
ただ、それだけの事だ。
残りの三人が、またも真ん中と左右に分かれて俺に向かってくる。
正面と左の男はそれなりに業を積んでいるが、右側の男は、それなりの手だれの雰囲気をしている。
三人はみな長剣を提げている。俺の手には血に染まった短剣一つ。
どう考えても部が悪い。
彼らが三方向から奇襲を仕掛けてきたとき、俺は暢気に、考えていた。
もし俺が死んだら、果たして彼らは、少年を追わずに止まるだろうか。
少年は、あのまま逃げて、生きてくれるだろうか。
俺のそばでなくていい。誰かのそばで、人間としての幸せとやらを手にしてくれるなら、俺は、もう十分だ。
俺はお前と出会って、変わったように思う。
よく喋るようになった。よく笑うようになった。
怒ることもあった。物思いに沈む事もあった。
そのようにして、昔のように、人間らしく在れた。
お前と出会ったことは、業罰ではなかった。
ただ俺が、その人間らしい幸せの中にずるずると居残っていたから、自ら背負った業罰が、やけに暗く、重く思えたのだ。
理解されず、容認されぬ。
どこに行けども安住できず、かつての同族に屠られることを恐れる。
その一方で、許されたいと言う子供じみた願いだけは、心の隅に残ってしまう。
怪物になりきれぬまま、怪物という役目を引き受けた、そのわが身の醜さ、浅ましさよ。
少し前までは当たり前であった事が、当たり前だとする事で耐えられないと叫ぶ自分を抑えていたことであった。
お前と出会って、それに気づいてしまった。
その一点では、お前と出会わなければ、良かったと思う。
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