第6話 逃避行
ハインリヒさんは何か恐ろしいものでも見たような顔をした。いや、恐ろしいものなのだろう。ぼくは分かっていた。
分かっていたけれど、もう、どうしようもなかったのだ。
風を切る、一瞬の音を聞き、そして、恐れつつその方向を見た僕の目に、現実は容赦なく牙を剥いた。それを見たとき、心臓が凍りついたのを確かに感じた。
あの日のことを思いだした。ハインリヒさんに会ったあの日、雪の降るあの街で、ぼくは路地に倒れ、凍えながら、ひたひたと迫ってくる冷たい足音に怯えていた。
僕から、暖かさと、感覚を奪いながら迫ってくるそれは、姿のないものだ。音もしない。匂いもしない。
けれど、その時のぼくにははっきりと、そいつの足音がもうすぐそこまで来ている事が分かっていた。後でハインリヒさんはそれを、タナトスとも言い、トートとも言う。それは、僕を僕の体から引き離しに来たのだった。
その足音が、今も、どこからか聞こえる。ひたひたと、こちらに向けて、歩いてくる。
「ハインリヒさん、どうしよう。」
僕がそういい終わらないうちに、ハインリヒさんは、僕の腕を乱暴につかむと、ぐいと引き寄せ、左腕で掻き抱くようにする。腕の力だけで固定されているのに、万力のように身動きが取れず、苦しい。
僕がたまらずうめくのと同時に、ハインリヒさんは、走り出す。
地面は走らない。
木々の幹を横に蹴り、足場にして、木立の中を跳ぶように、跳ねるように、走るのだ。
それは傍から見れば、一筋の風のように見えるだろう。
今まで歩いていた道はあっという間に見えなくなる。
ハインリヒさんの背中越しに見える景色は木の葉の緑と太陽の光がめまぐるしく回転し、交錯する。
風を切る音が、耳に響く。
それに混じって、ひときわ高い音が、いくつも聞こえて、地面に突き立つ音が聞こえる。
誰かが、どこからか。逃げる僕らに向かって矢を射るのだ。ほぼ同時に聞こえる音から、五人だろうか、と推測する。
ハインリヒさんは、気づいているのか、左腕にかける力をいっそう強めた。
ハインリヒさんも、怖いのだろうか。そう思うと、ちょっと安心できる。
ぼくは、追ってくる彼らが、どうか追いついてこられませんように、と祈った。
そうして、今にも泣き出しそうな自分を、奮い立たせる。
きっとぼくが泣いてしまったら、ハインリヒさんに迷惑だろうから、必死で僕を抱えて逃げてくれているハインリヒさんの邪魔をしてしまうだろう。
それはいけない。そう自分に言い聞かせる。嗚咽が喉からこぼれそうになるたびに、涙が眼から流れそうになるたびに、歯を食いしばって耐えなくてはならない、この苦難が、早く終わる事を祈りながら、木立と陽光の目まぐるしい交錯に目を凝らす。
ぼくは、眼を見開いて、目の前に居るはずの見えない狩人たちを木の葉の無数の重なりの中に、見出そうとする。
彼らは、木の上から矢を射る。木立をすり抜けるハインリヒさんを狙っている。移動している人を、どうして立ち止まったままで、射抜くことができるだろう。
彼らは動いている。その証拠をぼくは,木立の不自然な揺れに、木々の奇怪なしなりに、見出そうとする。
ハインリヒさんが、獣を狩るときに必要な事として、教えてくれた事だ。でも、ぼくは、狩り、というものがどんなものなのか、あまり良く知らない。
草木の果実を摘み取るのと、どこが違うのだろう。
ハインリヒさんの言葉は、何かを隠しているように思えた。
でも、今なら分かるように思う。
生き物を狩る人々というのは、きっと見えない彼らの事を言うのだろう。
存在を悟られる事なく、彼らは求めるものを手に入れようとする。
ぼくらに、挨拶のひとつもしないで、襲い掛かってきた。
まるで、盗賊のようだ。
狩られる側に回ったぼくらは、何が起こったかよく分からないまま、逃げるしかない。
替えのきかないたったひとつを、何とか落とさないように握りしめて、生きてきた。けれど、突然奪われるなんてことがあるなんて、想像だにしなかった。
息をする。心臓が鳴る。体温の暖かさがある。これだけを保って生きてゆくために、どうして誰かの体温を奪わなくてはならないのだろう。
あの冬の日から、ぼくはハインリヒさんに拾われ、旅を始めたけれど、冬の間、何枚の干し肉を、ハインリヒさんから与えられ、食べただろう。
ぼくは息をしている。
ぼくの心臓は鳴っている。
ぼくの体は、まだ温かい。
それは、きっとぼくが食べてきた干し肉の分の暖かさも、あるのだろう。
元は、確か、豚の肉だったはずだ。どこかで、無残にも裂かれた生き物の体を、ぼくらは仮に肉と呼んで、ごまかしながら食べて、生きているのだ。そう思うと、胸の辺りに、どす黒い渦を感じる。
生きるという事は、何でこんなにも、自分勝手な営みなんだろう。もしそのいつか殺された豚に、どうして私は殺されなくてはならなかったのか、と尋ねられたら、ぼくはきっと押し黙ってしまうだろう。
ごめんなさいの一言だって、きっと言えない。
その声はきっとからだの内側から聞こえて、ぼくの体を呪うのだろう。肉を食らう事の浅ましさと、生きることの愚かしいまでの残酷さを、地の底から響くのような低い声で歌いかける。
その歌に、ぼくは苦しみにのたうつのだ。
それは、きっと生きるものすべてが背負う逃れられない業罰だ。
でも、ぼくは、そんなことを考えながらも、ハインリヒさんの体に、ひしとしがみついている事に、気づいた。
自分でも痛いくらいに分かっている。この人と、ハインリヒさんと共に生きたいのだ。
ぼくらに向かう矢の勢いは止まらずに、次々に風を切り、木の幹に、そして地面に雨のように突き立ってゆく。
ハインリヒさんはその一つ一つを飛び越え、かわし、ときには宙返りまでして、巧みによける。
そして一度も後ろを振り返る事などせずに、入り組んだ木立の間を、風のようにすり抜ける。
ふと、ハインリヒさんが、口を開く。
「つらい目に遭わせてしまってすまない。だが、もうすぐで木立を抜ける。木立の先は草原がある。そこならば、あいつらから逃げられるだろう。」
そして、ぼくに顔を向ける。
「草原の果てに、村がある。お前はそこに行くがいい。」
ぼくは、その言葉に身の毛がよだつほどの不吉な何かを感じ取った。その言葉を言うハインリヒさんの目が、あまりにも哀しい目をしていたからだ。
「ハインリヒさんは、どうするのさ。」
自分でも、言葉が震えているのが分かった。こらえていた涙が溢れ出そうとするのを、抑えるのが精一杯だった。
ハインリヒさんは、その言葉を聞くと、さあわからん、と朗らかに嘯いて、それきり幾ら名前を読んでも黙ってしまう。
そして、木立の果てを抜ける。
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