第5話 昼

 焚き火の跡を土を混ぜ返して見えなくしてから、俺は森の中を歩き始める。


木立は開けた道こそないものの、太陽の光に照らされて明るい。


俺の歩くその横に、張り付くようにして、少年は歩く。


冬のある日、行き倒れていた彼を拾い、私は旅をしている。


行き先は分からない。


ただ、あるときは生きるために、ある時は逃げるために、里を避け、村を忌み、街を睨んで通り過ぎてゆく。


かつて、俺は彼らのような人間であったのだろう。


彼らを見ると、言いようのない哀愁に駆られるのだ。


それが食欲でないのは、まだ救いがある。俺が人に襲い掛かるさまを思い浮かべるだけで、おぞましさに身の毛が逆立つのは、まだ喜べる。


俺はまだ、獣の身で居ながら、人間の真似事をしていられるのだ。


気がかりなのは、横を歩く少年の事だ。


まだ生まれて十年も経ってはいないだろう。


元気に満ち溢れてはいるが、危なっかしい。


己の未熟さや、力の差を考えずにただ猛進しがちなのだ。


すぐ泣く。


不平や、癪に障ることを言う。


怒ると暴れて、毛をむしられるか、ひげを引っ張られる。


尻尾を噛まれたときはさすがに怒った。痛かったのはもちろんだが、噛むなんてことを戦いに使ってはならない。


私と違って、猛獣ではないのだから。


少年には、名前がない。最初に会ったときに問うてはみたが、首を横に振るばかりだった。


後で聞いても、知らない、と返してきた。


言葉は覚えているのに、記憶はさっぱり抜け落ちている。


奇妙な事だ。


まあ、こんな姿が目の前に居ては、思い出すものも思い出さないのかもしれない。


慣れればいつか話してくれるだろう。だが、それは俺でなくとも結構だ。


俺は迷っている。これからの行く道を、どう進んだらよいのか。


このまま歩けばきっと森を抜けるだろうが、その先に村や里があれば、また迂回しなくてはならない。


しかし、食料にも限りがある。


この獣くさい外套で、猟師の振りをして村に入り込んで、またパンと水を手に入れなければならない。


一度目は上手くいったが、それがどれほどの幸運か、またそれがどれほどの無謀であったか、後になってようやく分かった。


同じことは二度とはできまい。


次こそ正体は露呈し、私は村人の手で屠られるだろうからだ。


言葉が通じていたとしても、それが何の意味もなさなかった事を、私はすでに知っている。


記憶で憶えてはいなくとも、体が震える事で覚えているのだ。


俺が人間でなくなったときの、その欠けた記憶と、この震えは、つながっているのだろう、と俺は信じている。

 

では、一体どうすればよいのか。



「ハインリヒさん。」

 

不意に元気な声で呼び止められて、おお、と声が漏れた。


少年は背が低いからか、俺の顔を見るときは、いつも見上げる格好になる。


それが彼にとって、あるときは嬉しく、あるときは不満になったりする。


少年の心の変わりようは、山の天気を思い出させる。晴れたと思えば、かき曇り、雨が降ったと思えば、嵐になる。その中に居るものは振り回されるばかりだ。


「何だ。」


すると少年はにやりと笑って、何でもない、と答える。


「暇だから、話しかけてみました。そしたら案の定驚くので。」


この子供は面白いといいかけて口をつぐんだのはいいものの、口元の笑みはまだ消えない。


そんなに変な声を出していただろうか、もしくは顔がおかしかったのか。

 

何にせよ、どうやらまた新しい遊びを思いついてしまったらしい。面倒なことだ。


「ハインリヒさん。」


「何だ。」


「何でもないですよ。」

 

この一連の応答が、少しの休憩を挟みつつ、何度も続いて、最初は、また驚くこともあったが、次第に慣れて、またいらいらした。


いつまでこの一方的な遊びが続くのかわからないし、私はほかのことに精神を集中していたかったからだ。


終いには、彼が「ハ」と言うときに、何だ、とかぶせて言うことで、封殺する方法を編み出した。


少年はもう少し楽しめると思っていたのか、続きを阻害されると、驚いた後に不満そうに口をつぐんだ。


この森は静かだ。鳥の鳴き声一つ、野兎の駆ける足音一つしない。


森の中であれば今の季節なら、それらを狩ることで暮らしてゆけると思っていたが、森に入って二日が経った今でも、それらの姿はおろか、鳴き声や足跡などの痕跡すら見当たらない。


住人のいない森では、木々の枝葉が風に揺れる音だけが、いやに冴えて聞こえる。ここには獣がいないのだろうか。


しかし、そうであれば、少年の拾ってきた矢じりの説明がつかない。あれはまだ作られて新しく、錆は見られなかった。


獣たちはすでに狩り尽されたところなのか、それとも、何かがあって逃げたのか。


どちらも、考えたくはない想像ではある。前者であればここの周辺に猟師たちの町があったことになる。


獲物が取れなくなったために、この森を抜けるなどして移動しないとも限らない。


一団に遭遇したら、俺にはなす術がない。


後者の場合、例えば森に火が放たれるなど、何らかの災いか呪いが降りかかっているかもしれない。


そのような土地を歩くのは、あまりにも無謀だ。


一人でいた時でさえ一日を生きるのに苦労するこの身で、情を捨てきれずに子供まで背負ってしまった。つくづく罪深い男だと、自分で認めているつもりだ。


今横を歩く少年は、たまたま行き合ったに過ぎない縁だ。最初に出会った街を抜けた頃、やっと元気を取り戻した彼は、俺のもとから走り去るものだと、そう思っていた。


人助けとは、そういうものだからだ。しかし、彼は今の俺のそばについて歩く。たぶん奇妙な風体に興味を抱いたのだろう。


彼が望めば、相応のところへ逃がしてやろう、と少年の顔を見るたびに思う。その笑みは、俺の苦難の道のりを歩むには、あまりに無垢すぎる。


俺は、きっとこの宝物を綺麗なままでは守れない。


だが、せめて、この子がそばに居るうちは、俺が守ってやらなくてはならない。


重すぎる試練だ。


「ハインリヒさん。」

 

彼の声は高く澄んでいて、小鳥の歌声を思わせる。鳥かごの中で生きていた方が、はるかに安らかだろうに、なぜ、このような獣の周りを飛ぶのだろう。


「やめてくれ、きりがない。」


少年はまだ、危険を知らない。生きる事の、そして死ぬ事の、血生臭いことを知らない。

 

こいつは、初めて会ったあの時に、降りしきる雪のように音もなく死のうとしていたのだから。

 

当然と言えば、当然なのか。


「ハインリヒさん!」


「何だ!」

 

少年の声に気が逆立って、つい叫んでしまう。少年は、突然叫んだ俺にひるんだが、少し経ってから、あるものを俺の目の前に差し出した。


「さっき木立から音がしたと思って、そのほうの茂みに行ってみたら、こんなのがあって。」

 

それは、細い木の枝の先に鉄の小さな穂先をつけたものだった。


「ハインリヒさん。これって、これって。」

 

枝はそこらの木の枝そのもので、矢じりはついさっき見つけたものとひどく似ている。

 

ひどく、新しい。

 

まるで、ついさっき作られたばかりのようだ。

 

私は悪夢でも見ているのではないかと、思ったが、悪夢らしい悪夢など、最近は見なくなっていた。しかし、現実は悪夢よりも悪夢的なのだ。


 

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