第9話 その夜のために3
俺は三つの方向から振り下ろされる刃を、右の刃を短剣で受けたが、それ以外は何もできずに受けた。
一つは胸を、一つは肩を深くえぐった。
そして、俺は力なく、草むらに倒れる。倒れた衝撃だけで意識がなくなってしまいそうになった。それだけ傷が深いのだろう。
体が冷えてゆく。命がその炎を弱めてゆく。望みも、欲望も、絶望も、それらがすべて、草原に赤く流れてゆく。
この光景は、どこかで見たことがある。そう思いを切れそうになる意識の中働かせようとすると、手だれの右の男が口を開いた。
「お前のせいで、われわれの村は、荒らされ、住むものもいなくなり、このように盗賊まがいのことをする羽目になったのだ。
魔物よ。お前の主に伝えるがよい。われわれはお前を必ず冥府に送ってやる、と。」
「何だ、それは。」
とっさに、声が出てしまう。口を動かし声に出す事が、これほど命を費やすとは、思わなかった。しかし、か細い言葉でも、男は聞き届けたらしい。
恐ろしい事を聞いたらしく、その声は震えていた。自分の刃に正義を乗せて陶酔した者ほど、狼狽える姿は目も当てられない。
痛みというものの後には、冷たい眠りが待っているようで、俺は次第に眠くなり、男の言葉も良く聞こえなくなった。
眠りに入ろう。俺はそう願った。これ以上、体から伝わる痛みに耐えるのは、消えゆく意識を恐れるのは、叶わなかった願いを描くのは、できない。
果てのない旅路に、魂が、疲れたのだ。
報われない事に、心が、耐えられなくなったのだ。
夢の中ならば、せめて、もう少し、救いのある景色が見たいものだ。
匂いがする。血と,草と、汗の臭いを濃縮したような、それは、少年の嫌がる臭いだ。
慣れたはずの臭いだ。けれど、我慢ならない臭いだ。この臭いには、目的はない。
自然にそうなり、後で効果が付属されたに過ぎない。これは、ともすれば、俺の臭いだ。
自分でも、我慢が利かないときがある。今は、その時であった。
あまりの臭さに、目を開く。
やけに狭い。
草の緑が見えない。
そして、壁がある。
ここは、誰かの家の中、だろうか。
視線を横にずらそうとすると、近くに暖炉の火が燃えているのが分かった。
俺は、なぜかベッドに寝かされている。ご丁寧に枕も、布団さえ掛けてある。悪い冗談だと思った。夢の中なのだろうか。さすがに、このような夢を最後に見ようとは、我ながら、あきれたものだ。
誰の家なのだろう、と視線を這わせていると、どこからか、寝息が聞こえる。
少年の寝息だと、すぐに分かった。
ふと、ドアをノックして、誰かが入ってきた。
誰だ、と言うと、気がつきましたか、と返してきた。
声は男であった。
見えにくいなら暖炉に行きましょう、と言って、その男は暖炉の前の椅子に座った。
暖炉の炎に照らされた男の顔はどこか、少年の顔に少し似ている。
「私は、ハヌアと言います。ヤヌアの父です。」
少年の名前が、ヤヌアと言うのか、と聞くと、男は、ええ、と答えた。
本物の父親と言う存在に、出会う事になろうとは、考えもしなかった。夢であるために、都合の良い妄念が形を得たのやもしれぬ。
体を起こそうとすると、男があわてて制止する。
傷が開いてしまう、と言った。
布団を剥がして中を見ると、刀傷を受けた胸と肩に丁寧に包帯が巻かれていた。傷を見た途端、思い出したように痛みが稲妻のように走り、私はこれが現実であることを認識する。
なぜ、ここまでする、と聞くと、恩義ですから、と男は答えた。
「ヤヌアの恩義です。礼を言うなら、ヤヌアに言ってやってください。彼が、あなたを恩ある人と言ったから、私はそのようにしたのです。」
「俺が、恐ろしくはないのか。」
「恐ろしくないと言えば嘘になります。けれども、現に息子が帰ってきた以上、その返礼をしなくては、一人の親として示しがつかない、というものでしょう。」
俺は、まだ、狩人たちの追撃を頭の中にまざまざと思い返す事ができる。それと、目の前のこの男は、まるで別の世界の人間に思えた。
俺は、再び、体を起こそうとする。ハヌアと言う男の静止を聞かず、自由な片腕を使って何とか上半身だけ起き上がる。
少年は、顔や腕にいくつもの切り傷や擦り傷をつけている。草原で転んだのだろうか。
そして、俺の右手をしっかりと握ったまま、足元に倒れるようにして眠っている。
その頭を、撫でてやる。力任せに、ではなく、起こさないように注意しながら。
「ありがとうよ、ヤヌア。」
結局、俺はそう言うことしかできなかった。
後の言葉は、流れ始めた涙にさらわれて消えてしまったからだ。
「死んでもいい、と言ったのです。ヤヌアは」
ハヌアは、そう言って席を立つ。
「あなたのためなら、たとえ凍え死んでしまってもかまわない。
生きていたって、楽しくない。あなたが、生きる事を教えてくれたんだ、と。
あなたが、草むらに倒れていたとき、ヤヌアはずいぶん泣きました。虫の息で、私はもう助からないと言いました。ヤヌアは、それでもあなたを助けようと昼も夜も村中を走って、初めて会う村人たちに、涙ながらに叫び、包帯と薬を集めたのです。
ヤヌアがそうまでして助けたい人ならば、どうして私は傍観していられましょう。」
ハヌアは、こう言い残して部屋から去っていった。
「あなたは、必要とされているのですよ。そのことに自覚を持ったらどうです。ハインリヒさん。」
俺は、暖炉を見やる。
そこには、普段の焚き火よりの大きな火が燃えている。
使われる薪は太く、質も高いのだろう。
「どれ、一つ、昔話をしてやろう。
遠い遠い、百年前の事だ。」
俺は昔話を語り始める。ヤヌアはもう深い眠りについていて、静かに寝息を立てている。
俺は、語ることがあまり得意ではない。
だが、次はヤヌアを寝かせないようにするつもりだ。
明日、ヤヌアが目覚めた後、訪れるその夜を、退屈なものにしてはならない。
俺はいつになく意気込んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます