第2話 朝2

ハインリヒさんはじっと自分を見据えるぼくの視線に何かを感じたのか、にやりと笑って、言った。


「どうした、小僧。もう降参か。」

 


その言葉が、ぼくの天秤を片方に大きく傾かせたことは言うまでもない。


ぼくがこの世で一番嫌いなことは「戦わずして逃げる」ことなのだから。


「誰が毛むくじゃらなんかに捕まってやるもんか!」

 

ぼくはそう叫ぶ。


木立の中に飛び込むと、一目散に駆け出す。


しかし、叫んだその後、言わなければよかった、とすぐに思った。 


ハインリヒさんの振る舞いは何一つ変わらなかった、


けれど、ぼくは全身から血の気が引くのを感じた。


多分、森の中でいきなり獰猛な熊に遭遇したときに似た、これは喰われるな、という諦めのような感覚だった。


森の中を叫びながら、ただ前に向かって走った。


戻って謝ろうとか、もっと広い場所を探そうとか、そういう考えは、命の危険が迫っているときには、案外考え付かないものだ。


ときおり足元に罠のように太い根っこが這っていて、うっかり転びそうになる。


しかし一度でも転んだリ立ち止まったりしたら、それで追いつかれるような気がして、足を止めることは出来ない。


風の通るせいだろうか。木の枝や幹が大きくしなる音がいくつも聞こえて、それにもいちいち驚いてしまう。


けれども、振り返って辺りを見回す余裕はぼくにはもうない。  

 


ハインリヒさんに初めて出会った時も、同じように驚いて、逃げ回ったことが思い出される。


街の中だったから、ハインリヒさんの石畳を踏み付けて走る足音がやけに響いて聞こえた。ここは地面が土だからそこまで響かない。ただ幹のしなる音が響く。


「ここも石畳だったらよかったのになあ。」

 

そうぼやいたとき、ぼくはあることに気付いた。聞こえるのは自分の足音ばかりで、ハインリヒさんの、どすどすと猛進する足音は全く聞こえないのだ。


奇妙だと思ったそのとき、すぐ近くの木の幹が、ぎし、と重たげな音を立ててしなる。

 


しまったと思ったそのときには、目の前にさっきの毛むくじゃら、もといハインリヒさんが立っていた。


ついさっき音をしたほうを見ると、案の定、幹がほんの少し弓なりに曲がっている。


「枝を渡るにしても、折れたらかなわないからな。幹を蹴り飛ばしながら近道で来てやったぞ。」


「普通に走ってこないなんて卑怯だ。」

 

ぼくがそうこぼすと、お前に言えることじゃない、と一喝される。

 

ああ、とうとう追いつかれてしまった。


ハインリヒさんは、普段はあまり怒らないから、本当はどれだけ怒るのか、測ってみたくなる。


そんな出来心だった。


そう言って弁解することも出来るかもしれない。


けれど、それで収まる怒りだったなら、ぼくはここまで必死に逃げなかっただろう。


小僧、と声を掛けられるが、正直ハインリヒさんの顔を見たくない。


多分一度見たら、ことある毎に夜中の夢に見てしまうだろう。


代わりに顔から下を見て、僕は何とか、はい、と返す。


そしてハインリヒさんの右手に、木の棒が握られているのが見えた。


まさかあれで殴られるのでは、そう思ったとき、体中から冷や汗が、だらだらと流れ始める。


ああ、これはいよいよまずいことになった、とぼくは痛感する。あんなもので殴られたら頭が割れたりしないだろうか、と嫌な想像が膨らむので、ぼくはとうとう観念して目を閉じることにした。


「何か言うことはないか。小僧。」

 

ハインリヒさんは、そう言葉を掛けてくる。頭の奥までしみこんできそうな低い声だ。


そうしてこちらに歩いてくる足音が、妙に冴えて聞こえる。ここで謝ろうかと思ったが、結局ぼくは何も言わなかった。


そしてハインリヒさんは僕のすぐ傍まで来た。


「では、分かった。」

 

そうハインリヒさんは言って、右手を振り上げる。


布ずれの音がする。


ぼくはより固く目を瞑って、頭にくるであろう衝撃に備える。


嫌な想像がまぶたの裏の暗闇をいくつも過ぎる。


それでもぼくは、何も言わずに、苦痛の時間を耐えた。

 

しかし、いつまで経っても、頭に痛みは走らない。


それどころか、足音と共にハインリヒさんの気配は次第に遠くなってゆく。


何も言わなかったことを反省の証ととったのだろうか。


ぼくは恐る恐る目を開ける。


目の前には誰もいない。


振り返ると、木立に入ってゆくハインリヒさんの背中が見えた。ハインリヒさんは自分でもくさいと言っていた衣を、頭から被っている。


あの、と声を掛けると、ついて来い、と返ってきた。


ぼくは冬からずっと一緒に旅をしているのに、ハインリヒさんが何を考えているのか、分からなくなることがある。


ハインリヒさんは、ずんずんと木立を進み、こちらを振り返る素振りすら見せない。


うっかりすると、そのまま木立に紛れて見失いそうだ。


ぼくはとうとう、腑に落ちない気持ちを抱えたまま、ハインリヒさんを追うために走り出す。思ったよりも距離が離れていなかったのか、すぐに傍に追いつく。


ぼくが、ハインリヒさん、と呼びかけても、ハインリヒさんは口元を固く結んだまま、ずんずん歩く。


僕の顔を見ることさえしない。


やっぱりまだ怒っているのだろうか。ハインリヒさん、ともう一度呼んでみても、その顔は石像のように動かない。


気付きはしないだろうか、とぼくはハインリヒさんの顔を見続けていた。


でも、髭一つ動かさないその顔を見ることが恐ろしくなって、顔を背けてしまう。


その石像のような顔を見ているうちに、ぼくの魂胆なんかにはとっくのとうに気付いていて、それでも気にしないようにしているのか、と不安になるのだ。


ぼくがこの人にいたずらをするのはこれが初めてではなく、本当にしょっちゅうやっているのだ。


暇になったら朝から晩まで、思いついたら即行動している。


ハインリヒさんはよくいつもひっかかるものだと思っていたが、それでも怒髪天になるほど怒るのは数回であった。


限度があるぞ、ぼくはハインリヒさんの語る言葉を牛のように反芻する。


ぼくは、それまでこの人につながっていた鎖を、自分の手で断ち切ってしまったのではないかと、思い、そしてずいぶん落ち込んだ。


ぼくは、歩きながら地面を見ることにした。これ以上ハインリヒさんの顔を見る元気をとうとう無くしてしまったのだ。


そして、今になってようやく、ぼくは朝ごはんさえ食べていないことに気付く。でも、お腹が空きましたと言って、ハインリヒさんは答えてくれるだろうか。不安は募るばかりだ。


 

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