第1話 朝

 日の光というものは、むやみに目で見ないほうがいい。眩し過ぎるせいで目に焼きついてしまうからだと聞いている。特に、暗闇から出ていきなり見るのがよくない。一番眼が疲れるからだそうだ。


そういうことからか、僕が目を覚ましたときに目にしたものは、茶色い布の縦糸と横糸が、無数に組み合わさった光景だった。


繊維越しに朝日の光が差し込んできて、ぼくは目が慣れるまで動かずにいようと思った。でも、すぐにぼくは身体を起こし、足元にある茶色い衣を見た。そして顔をしかめる。ぼくに覆いかぶさっていた衣が、あまりに臭ったからだ。

 

そしてそのまま、視線を真っ直ぐ滑らせると、焚き火の黒い燃えかすの向こうに、衣の持ち主がいる。


いつものように、身体を大の字にして寝そべっている。そしていびきもうるさい。


それに何といっても、人間とは思えないその姿を見て、ぼくは、どうしてこんな猫もどきに拾われてしまったのだろうか、と自分の運命にけちを付けたくなる。

 

よくよく見ると、頭のすぐ近くに、木の太い根っこが一つ、地面に浮き出てきていた。こいつ、寝返りでも打って頭をこの根っこにぶつけやしないだろうか、と考えた。半ば好奇心、半ば心配の入り混じる想像である。


命の恩人ではあるが、へんちくりんな姿だから何だか一歩身を引きたくなるために、たまにこういう自分でもなぜだか分からない想像で遊ぶことが、良くある。


そうしてそんなことをしている自分に負い目を感じつつ、その間にこの毛むくじゃらが起き上がりはしないかと、内心どきどきしたりするのである。

 

そして、そういうときに限って、この目ざとい猫は起きないものなのだ。

 

結局、その遊びにも飽きて、ほんの少し待ったその後でも、この猫もどきは起きる気配すら見せずに、呑気にいびきなんかをして、近くの木々を震わせる。


いびきに耐えていることや、なかなか期待通りに起きてくれないことや、上着がくさいこととか、昨日の話を最後まで聞こうと意気込んでいたのに聞けなかったこと。


そういったものたちで、ぼくはいつにも増していらいらする。ぼくは腹いせに、彼の上着を両手で取ると、そのまま手をできるだけ高く上げる。


視界が茶色に覆われる。


その中で、足元を見たが、やっぱり衣は地面まで届いているだけじゃなくまだかなりの長さがあるらしい。


つま先立ちしてみてもだめだった。


薄々分かっていたけど悔しいし、くさい。


いらいらは増すばかりだ。


ぼくはそのまま大いびきに向けて歩く。


こちら側に巻き込んでくる衣は容赦なく踏んづけるか蹴り飛ばして、歩く。


そして目の前に立つ。いびきの声が布越しに聞こえる。やっぱりうるさいのだ。

 


ぼくは作戦を決行することにした。目的はこのいびきを止めることと、そしてあわよくばこの毛むくじゃらに朝の一撃をお見舞いすることだ。


ぼくは、ありったけの声で叫ぶと同時に高く上げたその両手を全力で下ろした。


「ハインリヒさん、起きろ!」

 


するとどうなるか。手に持ったくさい衣は風に舞い上がり、そして因果応報とばかりに持ち主の顔めがけて降下するのである。


大声に目を覚ました毛むくじゃら、もといハインリヒさんは、何だろうと目覚めると、自分の衣の応酬に遭った。


ぐえ、という呻き声の後、たまらず叫んだ。


「何だ、この臭いのは!」。


「あなたのいつも着ている上着ですよ。少しは洗ったらどうです。」



 作戦は思い通りにいったので、ぼくはとても気分が良くなった。大笑いして見せたら、ハインリヒさんの顔色が露骨に悪くなる。


「寝覚めを襲うとは卑怯なことを。それを恥とも思わないのか。」

 


まだ被せた布の臭いが残るのだろうか。顔をぶんぶんと左右に振ると、ハインリヒさんはそうぼやいて、溜め息を吐く。


「寝込みに攻撃をしてきたのは、ハインリヒさんが先ですよ。これでようやくおあいこじゃないですか。」


僕は自分で言った言葉に至極もっともだと思ったが、ハインリヒさんはとうとう怒ったのか、こちらにずかずかと歩いてきた。


「この。言わせておけば、すぐ減らず口を叩く。」

 

ゆっくりとした足取りでハインリヒさんは近付いてくる。


しかし、むざむざ掴まってやる義理はぼくにはない。なので、ぼくは様子を見ながら後ずさりし始める。


「そんななりして、おしゃべりな人には言われたくない。」


ぼくの言葉にハインリヒさんの頭上にある大きな耳がびくりと動く。どうやら逆鱗に触れたらしい。


「小僧。今俺の風体のことを言ったか。いい気になるのも結構だが、限度があるぞ。」


ハインリヒさんはそう言いながら、一歩、また一歩と進んでくる。森にできた小さな隙間を寝床にしていたために、ぼくが走り回れるところは限られている。


もう少しからかってみたいが、これ以上怒ったら、多分ぼくの逃げ場はないだろう。

 


ぼくの心の天秤のそれぞれの皿に二つのものが置かれる。今の楽しみと、そのすぐ後に訪れるであろう嫌な状況の予測、その二つである。


ぼくは悩んだ。そして、悩んだ末に決めた。


「ハインリヒさん。」


「何だ。謝るなら今のうちだぞ。」


しかし、ふと現実に意識を戻して見ると、ハインリヒさんは、ぼくにあとニ、三歩で届く距離まで迫ってきていた。


自分ではまだ余裕が持てるくらいまで、距離を保っていたつもりだったから意外だ。一体いつの間に、ここまで来たのだろう。


足音を消したのだろうか。


ぼくは空恐ろしくなって、後ずさりする。かかとに何かがぶつかった。見なくても感触で木の根っこだと分かった。硬い。


ぼくのすぐ後ろには、青々とした葉っぱの茂る森林が広がっている。どこまで続いているのかはわからない。木立の中を走るのは危険だ。


運悪く今のように根っこに足を引っ掛けて転ばないとも限らない。


転んでしまえば捕まってしまうのに時間は三秒だって掛からないだろう。


けれど、このまま焚き火の燃えかすの周りにいては逃げられないのは目に見えていた。


逃げなければ、今にも捕まりそうだ。


どうする、そうぼくは自分に問いかける。

 

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